今のように、識字率が高くなく写真もなかった江戸時代。感動した「歌舞伎」の役者や物語を忘れずに覚えておくためには、絵を描くことくらいしか手段はありませんでした。しかし、自分で描くのは至難の業。そこで、並ではない、傑出した上手な絵師達による歌舞伎の「浮世絵」が生まれ、大ヒット商品となっていきました。
共に日本を代表する「歌舞伎」と「浮世絵」が、どのように誕生し出会い、さらなる発展をしたのかをご紹介します。
出雲大社
歌舞伎とは、日本を代表する演劇のこと。初めて歌舞伎が行なわれたのは、江戸時代が始まったばかりの1600年(慶長5年)頃と言われています。
出雲大社の巫女だったと伝わる「出雲のお国」が、京都で「かぶき踊」を興行し、これを見た遊女達が真似したことから広まりました。
かぶきは、奇抜な身なりをする「傾く」(かぶく)に由来。当初流行したのは、女性が演じる「女歌舞伎」でしたが、風紀を乱すという理由から、1629年(寛永6年)に禁止。
その後、美少年達が「若衆歌舞伎」(わかしゅかぶき)を始めますが、こちらも1652年(慶安5年/承応元年)に、同じく風紀を乱すという理由で禁止されます。
しかし、1653年(承応2年)、成年男子が演じる「野郎歌舞伎」(やろうかぶき)は、興行を許されたのです。女優禁止のために、男性が女性に扮する「女形」(おやま)による演技が特徴。この野郎歌舞伎が、元禄時代に本格的な演劇へと成長し、現在まで続いているのです。
一方、浮世絵が生まれたのは、1657年(明暦3年)頃。この年に起きた「明暦の大火」以降と言われています。以前は、「あの世」(浄土)に対して、「憂世」(この世)を意味する言葉でしたが、当世(現代)を意味する「うき世」に変化。「毎日を浮き浮きと明るく暮らそう」という楽しみを味わう「浮世」へと進化し、浮世絵が誕生したのです。
浮世絵とは、江戸を中心とする庶民に流行した風俗画の総称で、浮世絵(木版画)と浮世絵(肉筆画)の2種類があります。主流だったのは、浮世絵(木版画)。これは、中国から伝来した木版技術を用いて印刷した絵のことです。木版技術は、1枚の絵をもとに、大量生産が可能という画期的な技法でした。これにより大衆は、上質な絵画を安価で購入できるようになったのです。
一方、浮世絵(肉筆画)は、版画形式を用いないで絵師が自筆で描いた1点物となるため、高価な高級品として、富裕層に求められました。浮世絵の祖と言われているのは、「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)。1671年(寛文11年)に版本「私可多咄」(しかたばなし)の挿絵を描いたのが始まりです。
浮世絵(木版画)は、そもそもは墨色(黒色)のみの「黒摺絵」(すみずりえ:摺物)のことを言いました。やがて、黒摺絵の人物に手作業で、丹(たん:インドの紅殻[ベンガル地方]で産出した、酸化鉄を主成分とする赤色顔料)を加えた「丹絵」(たんえ)や、紅花から採取した紅色(赤色)を加えた「紅絵」(べにえ)が登場。また、紅絵の上に、黒色の部分を強めるために黒漆や墨で筆彩した「漆絵」(うるしえ)が生まれます。
さらに、手作業ではなく色板を作って多色摺にした「紅摺絵」(べにずりえ)に発展。これが、人物だけではなく物や背景などフルカラーで多色摺をした「錦絵」(にしきえ)に進化し、大ブームとなっていったのです。なお、錦絵は「世界初のフルカラー印刷」と呼ばれています。
つまり、歌舞伎と浮世絵では、誕生したのは歌舞伎のほうが先。それぞれに高い人気がありました。
浮世絵の変遷 | |
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初期 (1657年~1764年) |
墨摺絵(墨1色で刷られた物) 1657年(明暦3年)~1689年(元禄2年) |
丹絵(酸化鉄を主成分とする赤色顔料) 1690年(元禄3年)~1720年(享保5年) |
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中期 (1764年~1801年) |
紅絵(紅花から採取した染料で着色した物) 1741年(元文6年/寛保元年)~ 1744年(寛保4年/延享元年) |
漆絵(紅絵に黒い漆を塗った物) 1741年(元文6年/寛保元年)~ 1744年(寛保4年/延享元年) |
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紅摺絵(2色刷、3色刷) 1744年(寛保4年/延享元年)~ 1764年(宝暦14年/明和元年) |
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錦絵(カラフルな多色刷) 1765年(明和2年)~ |
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後期 (1801年~1868年) |
葛飾北斎が描いた「加藤清正公図(肉筆画)」をご紹介します。
物語の挿絵(脇役)として始まった浮世絵でしたが、やがて主役の座を射止めます。浮世絵は、「美人画」、「花鳥画」、「名所絵」、「武者絵」、「春画」など、描く対象物をどんどん増やし、幅を広げて行くのです。そして、ついに歌舞伎へと辿り着きます。
今のように写真がなく識字率も低かった時代、自分の好きな役者や感動した舞台のストーリーを忘れずに覚えておくためには、絵を描くことくらいが関の山。しかし、自分で描くのは難しい。できるだけ上手な絵師が描いた絵が欲しい。その絵をいつでも見えるところに飾っておきたい。
現代の人気アイドルの「生写真」や「ブロマイド」のように、人々の欲求を満足させるために生まれたのが、歌舞伎を描いた浮世絵、つまり「役者絵」、「芝居絵」でした。
当時の歌舞伎は、誰もが何度も観たいと思う大娯楽、一大エンターテインメントと言える物。歌舞伎を描いた役者絵、芝居絵は、歌舞伎の人気と相乗しながら、大ヒット商品となっていったのです。
役者絵とは、歌舞伎役者の舞台姿や日常の姿を描いた物。役者ひとりだけに特化して描いた物が多く、種類としては、「大首絵」(おおくびえ:人物の上半身)や「大顔絵」(おおかおえ:大首絵の顔だけを強調した物)、「全身像」、また役者が没したときに売り出された、「死絵」(しにえ)がありました。
鈴木春信「明霞名所渡」
一方、芝居絵とは江戸時代から明治時代に描かれた、歌舞伎を題材にした絵画の総称のこと。
「歌舞伎絵」または「劇画」とも呼ばれました。
元々は劇場の絵看板(看板絵)や番付絵、劇場の内外の景観、楽屋や茶屋を含めた劇場図が描かれた物でしたが、宣伝用のチラシ絵や舞台の名シーンなども、版画と肉筆絵で描かれるようになったのです。
そんな歌舞伎を描いた浮世絵の役者絵と芝居絵は、予想を超える大ヒット商品になりました。現代の「マーケティング理論」にも当てはまる、ヒットする理由があったのです。
それは、歌舞伎も浮世絵も、それぞれが独立した一大エンターテインメントで、巨大市場を築いていたこと。歌舞伎には、看板役者(人気役者)がいて、浮世絵にも人気絵師がいて、さらに、歌舞伎役者には屋号別に流派があり、人気絵師も所属流派を持つ巨大組織で、それぞれに顧客(カスタマー)を獲得していました。すでに「ブランディング」(ブランド戦略)ができていたのです。
役者絵、芝居絵(摺物)の価格は、小判(縦19.5cm×横13cm)で8文(約160円)、大判(縦39cm×26.5cm)で20文(約400円)と、庶民も手が出しやすいお手軽な物だったこと。役者の素材も、絵師も豊富で次々と発売され、人々を飽きさせることがなかったことも要因と言えます。
つまり、看板役者×人気絵師という、この2つが結び付いたならば、売れない訳はなかったのです。このようにして、役者絵、芝居絵は、莫大なヒット商品となりました。
さらに、役者絵、芝居絵は役者の髪型、化粧、服装を真似るなど、現代のファッション雑誌のような役割、いわゆるマスメディアのような、流行情報発信源となっていくのです。役者絵、芝居絵は、単なるブロマイドという枠を超えて、一大ブームとなりました。
江戸時代、人々の娯楽として歌舞伎は人気の歌舞伎役者が次々と登場し、大流行。同じく浮世絵にも役者絵などの新しい種類が増え、大変な人気になりました。人気絵師の流派や歌舞伎の流派をご紹介します。
人気浮世絵師の流派としては、以下の4派がありました。それは、「菱川派」、「鳥居派」、「歌川派」、「勝川派」。
菱川派とは、浮世絵の祖と呼ばれる「菱川師宣」を祖とする一派です。菱川師宣は、幕府・朝廷御用絵師の狩野派、土佐派、長谷川派などに学び、独自の新様式を確立。挿絵を中心に活躍し、役者絵本「古今役者物語」(ここんやくしゃものがたり)や「北楼及び演劇図鑑」などを手掛け、美しい絵で魅了しました。
鳥居派とは、初代「鳥居清信」(とりいきよのぶ)を祖とする一派のこと。鳥居清信は、菱川師宣を私淑(ししゅく:直接指導は受けないが、その人を師として尊敬し仰ぐこと)し、父「鳥居清元」と共に、歌舞伎「市村座」の看板絵を描いて評判となります。「瓢箪足」(ひょうたんあし:足の筋肉の付き方をくびれた瓢箪のように表現)と「蚯蚓描」(みみずがき:肥痩[ひそう]の変化の大きな描線)という独特の様式を作り出し、芝居小屋の絵看板、芝居番付を手掛けて、独占していました。
歌川国貞 「梨園侠客伝 御所の五郎蔵 四代目市川小團次」
1772年(明和9年)以降は、歌川派、勝川派も芝居小屋の絵を手掛けるようになります。
「勝川派」とは、「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)を祖とする一派。役者の顔を描き分ける、似顔絵様式を確立し、役者絵人気をいっそう高めました。
歌川派とは、「歌川豊春」(うたがわとよはる)を祖とする、浮世絵最大の一派。
特に弟子は、役者絵の「歌川国貞」(うたがわくにさだ)、武者絵の「歌川国芳」(うたがわくによし)、風景画の「歌川広重」(うたがわひろしげ)が有名です。
歌川国貞の師「歌川豊国」(うたがわとよくに)も、似顔絵を得意とし、「役者舞台之姿絵」や大首絵を描き、一世風靡しました。
この他に、「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)が、役者の個性を美醜(びしゅう)交えて描く形態を確立しています。
東洲斎写楽
「二世大谷鬼次の奴江戸兵衛」
東洲斎写楽は、1794年(寛政6年)5月~1795年(寛政7年)2月にかけて、140点もの役者絵や「相撲絵」を手掛け、約10ヵ月だけ活躍した天才浮世絵師です。それ以降は全く作品を描かず、パッと姿を消した謎の人物。
似顔絵で、歌舞伎役者の顔の特徴を誇張した作風が特徴で、観る角度によってキラキラ輝く「雲母摺」(きらずり:雲母の粉で、背景を1色に塗り潰す技法)を用いました。
しかし、役者の長所だけでなく、目を極端に小さく描いたり、鼻をだんごのように描いたりと短所も全面的に描いたため、モデルになった役者や役者のファンに嫌がられ、絵もあまり売れなかったと言われています。
しかし、大正時代に海外で高い評価を得たのをきっかけに、日本でも再評価されるようになりました。
なお、東洲斎写楽が一説には、風景画の浮世絵師として有名な「葛飾北斎」(かつしかほくさい)だったのではないかとも言われています。もし葛飾北斎ならば、勝川春章に弟子入りをしていたことがあるので、勝川派の浮世絵師であると言えるのです。
人気の歌舞伎流派としては、以下があり、有名な役者と同じ名前が並んでいます。
屋号 | 主な役者 | |
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成田屋 | 市川團十郎 | 市川海老蔵 |
音羽屋 | 尾上菊五郎 | 尾上菊之介 |
高麗屋 | 松本幸四郎 | 市川染五郎 |
松嶋屋 | 片岡幸太郎 | 片岡愛之助 |
それは、歌舞伎では「名跡」(みょうせき:代々受け継がれる家名)の「襲名」(しゅうめい:名前を継いで自分の名にすること)が行なわれているから。これは、師匠や先代の名前を受け継ぎ、芸格の向上を期待して行なわれているのです。
この「市川團十郎」の系譜が「市川宗家」(いちかわそうけ)と呼ばれる、歌舞伎界で最も権威が高い「成田屋」です。2020年(令和2年)に、「11代目 市川海老蔵」氏が襲名予定の「市川團十郎 白猿」(いちかわだんじゅうろうはくえん)は、13代目。
先祖代々、こんなにも輝き続けているとは、尋常ではなくスゴイこと。そんな歴代スター達を時代に分けてご紹介します。
どの役者絵も、目が大きく、目力の強さが印象的。享年は45歳で、役者の「生島半六」(いくしまはんろく)に舞台の上で刺殺されるという悲劇的な最期を遂げました。
51歳のときに息子に6代目を襲名させると、自分は「蝦蔵」と改名。蝦は「ざこえび」という、父が名乗った「海老」には及ばないという、へりくだった意味があると言われています。しかし、6代目が22歳の若さで急死。以降は、「市川白猿」と名乗りました。東洲斎写楽の役者絵などから推察すると、歴代「團十郎」にしては目が小さいという印象です。
成田屋相伝の「歌舞伎十八番」を制定し、「勧進帳」を初演。1843年(天保14年)の「天保の改革」で贅沢を理由に罪となり、江戸十里四方追放の刑に。役者絵では、初代に勝る目力と華やかさが魅力です。
19歳のときに兄の「8代目 市川團十郎」が自殺。20歳のときに河原崎座が焼失し、30歳のときに義父の河原崎権之助が強盗に殺される災難に遭いますが、37歳のとき、9代目 市川團十郎を襲名。演劇改良運動に力を注ぎ、新歌舞伎十八番を制定します。風姿容貌に長け、音調弁舌、「劇聖」(げきせい)と呼ばれました。
1841年(天保12年)に老中「水野忠邦」は、天保の改革と政治・経済改革を行ないました。株仲間(幕府、諸藩に金を納める代わりに営業の独占権を与えられた商工業組合)を解散させ、倹約をすすめ、風俗を正す改革だったため、歌舞伎も浮世絵も弾圧されます。
7代目 市川團十郎は、奢侈(しゃし:贅沢)を理由に江戸を追われることになり、「江戸三座」と言われた、市村座、中村座、森田座も小屋を追われて、若猿町(わかさるちょう:現在の東京都台東区浅草6丁目)に移動させられました。
歌舞伎座
しかし、逆に歌舞伎の興行は安定し、幕末に江戸歌舞伎が開花。
明治期には、「歌舞伎座」が設立され、9代目 市川團十郎、5代目 尾上菊五郎、初代 市川左團次による團菊左の時代をもたらします。
大正時代には、6代目 尾上菊五郎と初代 中村吉右衛門が、「菊吉・二長町時代」(きくきち・にちょうまちじだい)と呼ばれる時代を築き、昭和、平成、令和へと引き続き隆盛するのです。
一方、浮世絵は、この改革により役者絵、春画、芸者や遊女を描いた美人画を、風紀を乱すとして禁止。実は、浮世絵が規制されるのは初めてではなく、最初は「太閤記」(たいこうき)が流行したことにより、1804年(文化元年)「徳川幕府の禁令」が施行され、徳川家や天正年間以降の大名家を描く武者絵が禁止されていました。このときから、天正以前の事件に仮託して描く方法や、言葉の響きを人や物に置き換えた「判じ絵」、「謎解き絵」が流行していたのです。芝居絵は何とか許されたものの、人気役者を「猫」や「うさぎ」などの動物で表現した、パロディ芝居絵などに様変わりしました。
しかし、この改革は、幕府本位で厳しすぎるという理由から、2年で廃止。役者絵は復活します。明治維新後の浮世絵は、ひとつの新聞記事を浮世絵で表現した「新聞錦絵」へと移行し、「ジャーナリズム」(報道)の役割として位置付けられていくのです。しかし、1853年(嘉永6年)のペリー来航と共に「写真術」が伝わると、ジャーナリズムとしての浮世絵は、そのフィールドを写真に奪われ、徐々に衰退していきました。
役者絵が禁じられていた時代、役者を猫に見立てて描いた芝居絵の1枚です。題名にある「曲鞠」(きょくまり)とは、「菊川国丸」(きくかわくにまる)が一世風靡した、鞠(まり:ボール)を用いた曲芸のこと。かわいらしい猫が菊川国丸の技を見事にこなしています。
時代が明治になると、文明開化を感じさせる東京土産として、「新聞」が流行します。これに目を付けたのが、浮世絵の版元。人情沙汰など、大衆の興味をあおりそうな新聞記事を多色刷の浮世絵にすることを思い付き、新聞錦絵を発行したのです。最初は人気を博しましたが、本家の新聞よりも速報性に劣ること。写真が撮られるようになることで、ほとんど姿を消しました。