浮世絵の基礎を学ぶ

武者絵を描いた浮世絵師

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「浮世絵」と言えば、浮世絵師「葛飾北斎」(かつしかほくさい)が描いた風景画「富嶽三十六景」(ふがくさんじゅうろっけい)や、浮世絵師「歌川広重」(うたがわひろしげ)の「東海道五十三次」(とうかいどうごじゅうさんつぎ)などが世界的にも有名ですが、浮世絵にもいろいろなジャンルがあります。
ここで取り上げるのは、浮世絵師が描いた武将や合戦にまつわる浮世絵「武者絵」です。浮世絵ならではの多彩な色使いや大胆な構図によって合戦の迫力が見事に表現されています。浮世絵師が描いた武者絵は、江戸時代の人々にはどのように受け入れられていたのでしょうか。当時の評判と、武将や合戦を題材に描いた著名な浮世絵師と作品についてご紹介します。

武将浮世絵写真武将浮世絵写真
武将を描いた迫力ある浮世絵[武者絵]や、著名な浮世絵師を紹介します。

武者絵

浮世絵は、江戸時代に生まれた絵画様式で、浮世(変わりやすく、はかない世の中)を描いた風俗画です。当初は、日常の生活や風景などを描いていましたが、木版の単色刷りから多色刷りになるにしたがって、歴史や伝説的なテーマも多く扱われるようになりました。

そのひとつが、江戸時代の後期となる19世紀から人気を博した「武者絵」(むしゃえ)です。「美人画」や「役者絵」などと並んで描かれて、注目を集めています。

武者絵では、軍記物などに登場する武将の有名なシーンや、後世に語り継がれる合戦の様子が描かれました。その源流は、江戸期初期に活躍した最初の浮世絵師「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)にあると考えられています。

武者絵ブーム到来

江戸時代前期から中期にも武者絵は描かれていますが、あまり評価は高くありませんでした。江戸時代に入って平和な世の中になり、合戦とは縁遠くなったため、民衆の興味が新しい文化や色事に向けられていったのがその理由です。

しかし、18世紀後半に「寛政の改革」で庶民の風紀も取り締まりの対象となりました。そこで人気を集めたのが、「豊臣秀吉」の出世物語である「太閤記」(たいこうき)です。太閤記の流行に合わせて、戦国時代の武将を描いた武者絵もブームとなります。

合戦を描いた浮世絵は、明治時代に入ってからも注目を集め、「西南戦争」や「日清戦争」などが浮世絵で描かれました。

浮世絵師

江戸時代から近代までたくさんの浮世絵師がいました。その中でも特に人気の高い「歌川国芳」「歌川芳年」といった浮世絵師をご紹介します。

歌川国芳

歌川国芳の生涯
武者絵の第一人者を挙げるなら、この人「歌川国芳」(うたがわくによし)です。1797年(寛政9年)、江戸の日本橋で生まれた生粋の江戸っ子で、本名は「井草孫三郎」(いぐさまごさぶろう)。15歳のときに初代の「歌川豊国」(うたがわとよくに)に才能を見出され、浮世絵の世界に入門しています。

画号は「一勇斎」(いちゆうさい)、「彩芳舎」(さいほうしゃ)、「朝桜楼」(ちょうおうろう)など。同じ世代には「歌川広重」(うたがわひろしげ)がいますが、歌川国芳も同じように高く評価されており、「風景浮世絵の広重、武者絵の国芳」と称されました。歌川広重、「歌川国貞」(うたがわくにさだ)と並ぶ「歌川3巨匠」のひとりです。

歌川国芳の魅力とは?
歌川国芳の浮世絵、特に武者絵は、現代の日本を代表する文化になった漫画に大きな影響を与えたと言われています。とりわけ幻想世界の表現は群を抜いており、奇抜なアイデアの構図と、圧倒的な迫力、闘争心剥き出しの登場人物の表情、躍動感は現代のファンタジーアニメに勝るとも劣らぬ想像力みなぎる作品ばかり。単純にその武者を印象的に描くのではなく、誇張されているような伝説的な場面を、想定をはるかに上回る驚くべき構図で描き上げているのです。

武者絵が浮世絵様式のひとつとして世間に認められたのは、歌川国芳の功績が大きかったと考えられます。歌川国芳は、日本を代表する浮世絵師と表しても決して大げさな表現ではありません。

歌川国芳の作品
歌川国芳の武者絵のなかでも迫力満点な作品が、3枚続きの「宮本武蔵と巨鯨」(みやもとむさしときょげい)です。主役の剣豪「宮本武蔵」(みやもとむさし)は、中央の絵の上部に剣を振りかざした姿で小さく描かれており、8割以上は巨大鯨の姿で占められています。しかもそれでも収まり切らずにはみ出してしまうほどです。

わずかに隙間に見える背景の荒波も激戦の迫力を物語っています。現実にはあり得ないファンタジーの世界ですが、それ以上に観る者の目をくぎ付けにし、興奮させる力作。こうした構図は現代のアニメでは珍しくない戦闘シーンですが、江戸時代にこのような表現をした歌川国芳の発想力は際立っています。

ここで挙げるもう1作品は、赤を印象的に活用している武者絵「甲越勇将伝 本庄越前守繁長」(こうえつゆうしょうでん ほんじょうえちぜんのかみしげなが)。「本庄繁長」(ほんじょうしげなが)は、戦国大名として最強とも言われた「上杉謙信」の家臣で、その武勇から「上杉家に鬼神あり」とまで呼ばれ怖れられた武将です。自立心もあり、主君である上杉謙信に逆らったり、戦ったりしたこともありました。

その本庄繁長が、「川中島の戦い」において「武田信玄」と激戦を繰り広げた際に、盾を構えて、敵の銃撃を果敢にも受け止めた、その一瞬が描かれています。花火のように火薬が飛び散り、戦闘の激しさや本庄繁長の勇敢さを見事に表現。強さと美しさを併せ持つ武者絵の名作と言えます。

歌川貞秀

歌川貞秀の生涯
歌川貞秀」(うたがわさだひで)は、本名を「橋本兼次郎」(はしもとけんじろう)と言い、1807年(文化4年)に下総国布佐(しもうさのくにふさ:現在の千葉県我孫子市)で生まれました。歌川国貞の門人で、14歳にしてすでに挿絵を描いていたほどの天才肌です。のちに西洋人風俗を描く「横浜絵」の第一人者となっています。「五雲亭」(ごうんてい)、「玉蘭斎」(ぎょくらんさい)などと号していました。

坂本龍馬」が暗殺された1867年(慶応3年)、幕府は最初で最後の万国博覧会に参加しますが、それがパリ万国博覧会です。歌川貞秀は、浮世絵師総代として出品しています。

偽名絵とは
豊臣秀吉の活躍を描いて一大ブームとなった「絵本太閤記」(えほんたいこうき)が、1804年(文化元年)に禁止になりました。豊臣秀吉人気は、幕府の統治を否定することに繋がるおそれがあったからだと考えられます。これによって絵本太閤記を描いた浮世絵師は処罰されることになりました。そして、1573年(天正元年)以降を題材とした武者絵を描くことは禁じられてしまいます。

1573年(天正元年)が境目なので、上杉謙信と武田信玄が戦った川中島の戦いは規制の範囲外ですが、「本能寺の変」や「関ヶ原の戦い」は規制対象です。

浮世絵師は、それでも武将の名前を変えて記載することで、武者絵や合戦の浮世絵を制作しました。これが「偽名絵」(にせなえ)です。織田信長は小田信長、豊臣秀吉は真柴久吉などと表記されています。そのため、歌川貞秀の武者絵にも偽名が使用されているのです。

歌川貞秀の作品
1847年(弘化4年)から1852年(嘉永5年)に描かれた大判の3枚続の木版に「川中嶋大合戦越後方之図」(かわなかじまだいかっせんえちごかたのず)があります。作者名は「玉蘭斎貞秀」(ぎょくらんさいさだひで)と記されました。

甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄が、信濃国(しなののくに:現在の長野県)に勢力を拡大し、越後国(えちごのくに:現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信と軍事衝突した戦です。

「川中嶋の合戦」(川中島の戦い)は合計5回、12年間に亘り行なわれています。両軍の先陣がぶつかる寸前を描いていますが、画面の中央右、最前線で馬を駆る武将が上杉謙信。上杉謙信は敵の槍衾(やりぶすま:大勢がをすき間なく並べた状態)の目前におり、観る者にとっては、このあとの展開が気になる構図となっています。

槍や甲冑(鎧兜)も色とりどりで鮮やかですが、両陣共に整然とした陣形ながら勢いを感じさせ、激しい戦になることを予想させる見事な作品です。

他にも同時期に描かれたとされる大判の6枚続の木版に「山崎大合戦之図」があります。これは1582年(天正10年)6月に起こった「山崎の戦い」です。ここで豊臣秀吉が「明智光秀」(あけちみつひで)を破り、天下統一への道を切り拓いていくことになります。

中央右の図の上に描かれているのが「天王山」。右手側には「北方山名方本陣」と記載があります。1573年(天正元年)以降の武将を描くことが禁じられていましたので、代わりに「応仁の乱」に参戦した武将の名が用いられているのです。

それでも、色鮮やかな旗が立ち並んでいるなかに、「桔梗紋」に見える旗印があるため、明智光秀の本陣を描いていると推測できます。

月岡芳年

月岡芳年の生涯
月岡芳年」(つきおかよしとし)は、1839年(天保10年)に江戸で生まれました。旧姓は「吉岡」、名前は「米次郎」(よねじろう)と言いましたが、姓が月岡に変わり、12歳で武者絵の第一人者である歌川国芳に入門すると「芳年」の名を与えられています。15歳で最初の作品とされる「文治元年平家の一門亡海中落入る図」を完成させました。

月岡芳年と言えば、過激な血みどろ絵や無残絵の印象が強く、幻想的な幽霊、妖怪などの絵も有名です。精神的な病を患い、苦しみながらの半生でしたが、そんななかでも武者絵の名作を数多く残しています。月岡芳年の作品数は1万を超えるとされており、「豊原国周」(とよはらくにちか)、「小林清親」(こばやしきよちか)と共に「明治浮世絵界の3傑」のひとりとして広く世に知られました。

大蘇芳年とは?
月岡芳年は「一魁斎」(いっかくさい)や「玉桜楼」(ぎょくおうろう)と号しています。一時期は人気が低迷し、かなり精神的に追い込まれたようですが、新たな蘇りを望んで、1873年(明治6年)から「大蘇芳年」(たいそよしとし)と名乗りました。

1877年(明治10年)に西南戦争が勃発すると、戦場を題材にした絵が評判となり、翌年に発表した「大日本名将鑑」が大人気となります。その後、1885年(明治18年)には浮世絵師人気番付で1位になるなど人気を集め、第2次月岡芳年ブームを巻き起こしました。

月岡芳年の作品
1885年(明治18年)に制作された「教導立志基 羽柴秀吉」(きょうどうりっしのもとい はしばひでよし)は、忠誠や孝心のある英雄を取り上げた歴史教訓の揃物(そろいもの)。大判の木版です。豊臣秀吉の家紋として有名な「桐紋」(きりもん)も描かれています。

豊臣秀吉のまとっている陣羽織は、孔雀の羽の絵柄が豪勢です。豊臣秀吉が語り聞かせている状況ですが、豊臣秀吉は横顔しか描かれておらず、それを神妙に聞き入る僧姿の人物の表情が目を引きます。

また、合戦物としては「川中島大合戦之図」が有名。作者名は一魁斎芳年となっています。3枚続の大判で木版。描かれている状況は、「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん:武田氏の戦略・戦術を記した軍学書)にある第4次川中島の戦いにおける大将同士の激突。白馬に跨り川に入った上杉謙信が刀剣・日本刀を振り下ろし、武田信玄がその刃を軍配で受け止めている様子。また、主君を救わんとする武田信玄の家臣「原大隅守」(はらおおすみのかみ)がおり、上杉謙信の馬に槍を突き出して撤退させる場面です。白波の描き方はまさに浮世絵と言える表現で、青色が巧みに用いられています。迫力と共に美しさを感じさせる名作です。

月岡芳年は、武将を単独で描いた武者絵も残しています。「芳年武者无類 弾正少弼上杉謙信入道輝虎」(よしとしむしゃぶるい だんじょうしょうひつうえすぎけんしんにゅうどうてるとら)では、「川中島大合戦之図」にも登場している上杉謙信の勇猛果敢な姿が表されました。その強さから「軍神」と称された上杉謙信にふさわしい、躍動感あふれる筆致に目を奪われます。

歌川国芳門下の浮世絵師による武者絵

歌川芳虎の作品
歌川芳虎」(うたがわよしとら)は、武者絵の第一人者である歌川国芳の門人で、歌川国芳風の武者絵を受け継ぎました。

1849年(嘉永2年)、織田信長と明智光秀が餅をつき、豊臣秀吉がこねた餅を「徳川家康」が食べるという「道外武者御代の若餅」(どうけむしゃみよのわかもち)を発表し、幕府を風刺したとして半日で没収、歌川芳虎は手鎖50日の処罰を受けています。

これは徳川家康の天下取りを揶揄した落首(らくしゅ:世相を風刺した匿名の詩歌)からアイデアを得て作成した作品ですので、罪に問われることを承知で描き上げたと考えられるのです。なかなか肝の据わった人物だったと言えます。

また、師匠である歌川国芳との仲が険悪となった歌川芳虎は、1858年(安政5年)には破門を言い渡されました。明治維新後は西南戦争などの戦争画の作成に携わっています。

楊洲周延の作品
歌川芳虎と同じ歌川国芳の門人で、武者絵の名作を残した浮世絵師が「楊洲周延」(ようしゅうちかのぶ)です。明治維新の際には、幕府の御家人として「上野彰義隊」(うえのしょうぎたい)に加わり、新政軍と戦い捕縛されました。

のちに東京へ戻り、武者絵の作成に尽力しつつ、西南戦争の戦争絵なども描いて評判を得ています。楊洲周延の代表作としては、1582年(天正10年)の「賤ヶ岳の戦い」で「加藤虎之助」(かとうとらのすけ)が、柴田方の「山路将監」(やまじしょうげん)を、崖を転げ落ちながら討ち取る「賤ヶ獄合戦 加藤虎之助 山路将監」(しずがたけかっせん かとうとらのすけ やまじしょうげん)が挙げられます。加藤虎之助は「加藤清正」(かとうきよまさ)、山路将監は「山路正国」(やまじまさくに)のことです。

武者絵としては独特な、水墨画のようなタッチが特徴的。甲冑(鎧兜)姿の武将2人だけが艶やかな色合いで描かれており、迫力と共に自然の静寂さも無常観も表現されています。

武者絵を描いた浮世絵師

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