浮世絵を学ぶ

鎌倉殿の13人と浮世絵
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平安時代末期の1180~1185年(治承4年~元暦2年)に起こった「治承・寿永の乱」は、平氏政権に対して源氏を中心とする反対勢力が決起した内乱を指し、一般的には「源平合戦」として知られています。最終的には、「壇ノ浦の戦い」での敗北により平氏政権が崩壊。「源頼朝」が率いる源氏と坂東武士(関東生まれの武士)が構成する鎌倉幕府(関東政権)が樹立しました。1199年(建久10年)に源頼朝の跡を継いで「鎌倉殿」(鎌倉幕府の将軍)に就任した「源頼家」は当時まだ18歳。「北条時政」(ほうじょうときまさ)やその子「北条義時」(ほうじょうよしとき)をはじめとする幕府の有力者達は、若い鎌倉殿を補佐するために「13人の合議制」を発足させます。「刀剣ワールド財団」では、源平合戦の様子や13人の合議制に連なる武士達を描いた「浮世絵」を数多く所蔵。その優れた描写を味わいながら歴史をひもといていきましょう。

大河ドラマ 鎌倉殿の13人大河ドラマ 鎌倉殿の13人
大河ドラマ・鎌倉殿の13人のあらすじやキャストなど、基本情報をご紹介します。

源頼朝が九死に一生を得た「石橋山の戦い」

1180年(治承4年)、平氏政権に不満を持つ「以仁王」(もちひとおう)は、平氏追討の令旨(りょうじ)を発します。

以仁王は、平氏の棟梁である「平清盛」の子「平知盛」(たいらのとももり)と「平重衡」(たいらのしげひら)が率いる平氏軍との戦いで戦死しますが、以仁王の令旨を受けて、関東の源頼朝らが挙兵。

源平合戦の火蓋が切られたのです。

2代 歌川国久作「石橋山高綱後殿高名図」

源頼朝は、1180年(治承4年)の「石橋山の戦い」ではじめて平氏軍と交戦。しかし「大場景親」(おおばかげちか)を指揮官とする平氏軍との圧倒的な兵力差の前に大敗を喫することとなり、敗走を余儀なくされます。

本合戦浮世絵「石橋山高綱後殿高名図」(いしばしやまたかつなしんがりこうめいず)では、大将の源頼朝を無事に逃がすため、黒馬を駆って両手で太刀(たち)を振るい、殿(しんがり)の大役を果たす「佐々木高綱」(ささきたかつな)の勇猛な姿が描かれました。

江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師「2代 歌川国久」(にだい うたがわくにひさ)の筆が冴える1作です。

歌川国久(二代) 作「石橋山高綱後殿高名図」

歌川国久(二代) 作「石橋山高綱後殿高名図」(所蔵:刀剣ワールド財団)

楊洲周延作「源平盛衰記 四 梶原景時」

楊洲周延 作「源平盛衰記 四 梶原景時」

楊洲周延 作
「源平盛衰記 四 梶原景時」
(所蔵:刀剣ワールド財団)

源頼朝は敗走するものの、大場景親に追跡の手を緩める気はありません。

この追っ手には「梶原景時」(かじわらかげとき)も加わっていました。

逃走中の源頼朝は山中の洞窟へ身を隠しますが、梶原景時に気付かれてしまいます。

ところが梶原景時は源頼朝を見逃したばかりか、不審に思って近付く大場景親から身を挺して守ったのです。

このときの縁により、梶原景時は源氏へ下り、源頼朝の重臣となりました。

のちには「13人の合議制」にも名を連ねています。

作者の「楊洲周延」(ようしゅうちかのぶ)は本武将浮世絵にて、源頼朝が九死に一生を得た緊迫の場面を丁寧な筆致で見事に描き出しました。

「一ノ谷の戦い」での奇襲・鵯越の逆落とし

石橋山の戦いでは敗れた源氏勢でしたが、そのあと、軍を立て直して反攻に転じます。1181年(治承5年)に平氏の棟梁である平清盛が病死すると、三男の「平宗盛」(たいらのむねもり)が跡を継ぎますが源氏の勢いを止めることができません。

源氏が平氏を追い詰めていく大きな戦いのひとつとなったのが一ノ谷の戦いでした。

月岡芳年作「一之谷鵯越逆落之図」

1184年(寿永3年)2月、源氏軍は二手に分かれて摂津国(現在の大阪府北西部、兵庫県南東部)にある平氏の拠点を攻撃します。

源範頼」(みなもとののりより)率いる軍勢が東側から攻めたのに対し、「源義経」は西側から侵攻し、前哨戦となる「三草山の戦い」に勝利。さらに一ノ谷で源義経は、わずか70騎を率いて平氏本陣の背後から崖を駆け下る奇襲をかけ、平氏軍を敗走へ追い込みました。

これが世に言う「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし)です。本合戦浮世絵の作者である「月岡芳年」(つきおかよしとし)は、幕末から明治時代中期にかけてたいへんな人気を博しました。本合戦浮世絵の緻密にして躍動感あふれる描写も見事と言う他ありません。

月岡芳年 作「一之谷鵯越逆落之図」

月岡芳年 作「一之谷鵯越逆落之図」(所蔵:刀剣ワールド財団)

扇の的で知られる「屋島の戦い」

一ノ谷の拠点を失った平氏は、瀬戸内海を望む讃岐国屋島(現在の香川県高松市)と、長門国彦島(現在の山口県下関市)へ拠点を置きます。瀬戸内海の制海権は、いまだ強力な水軍を持つ平氏が握っていたのです。

1185年(元暦2年/寿永4年)、これを打開するため、源範頼は約30,000の軍勢を率いて九州征伐を実行。この戦いには、九州を押さえて平氏の退路を封鎖するという目的がありました。

九州征伐には、のちに「鎌倉殿の13人」こと13人の合議制に列することになる北条義時や、「三浦義澄」(みうらよしずみ)、「比企能員」(ひきよしかず)、「和田義盛」(わだよしもり)などの有力武将が顔を揃えます。

一方、源義経は屋島に構えた平家の本拠地を奇襲により攻略。海からの攻撃ばかりを警戒していた平氏軍は、暴風雨の中で上陸を果たし、背後から襲い掛かった源義経軍によって海へ追われました。

歌川芳員作「源平矢島合戦之図」

本合戦浮世絵では、源義経の奇襲によって混乱に陥り、沖に停泊している味方の舟へ逃げようとする平氏軍と、それを追う源氏軍との波打ち際での攻防を描いています。

作者の「歌川芳員」(うたがわよしかず)は、敵味方入り乱れて刃を交える武将達の姿を、その場で見ているような迫力で表現しました。

歌川芳員 作「源平矢島合戦之図」

歌川芳員 作「源平矢島合戦之図」(所蔵:刀剣ワールド財団)

楊洲周延作「那須与一」

本合戦浮世絵に描かれたのは、軍記物語「平家物語」の一節「扇の的」に登場した一場面です。「屋島の戦い」において、夕暮れを迎え源平両軍が休戦していたとき、平家方の小舟に乗った美女が扇の的を掲げ、射抜いて見せるようにと挑発します。

これに対して源氏方の弓の名手「那須与一」(なすのよいち)が馬を駆って進み出ると、見事に扇の的を射抜いたのでした。那須与一の成功によって弾みを付けた源氏軍は勝利を大きく引き寄せたのです。

江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した楊洲周延は、本合戦浮世絵をはじめとする武者絵を多く手掛けた他、美人画の作品でも広く知られています。

楊洲周延 作「那須与一」

楊洲周延 作「那須与一」(所蔵:刀剣ワールド財団)

「壇ノ浦の戦い」で平氏滅亡へ

月岡芳年 作「芳年武者无類 新中納言平知盛」

月岡芳年 作
「芳年武者无類 新中納言平知盛」
(所蔵:刀剣ワールド財団)

矢島の戦いののち、平氏は最後の拠点となった彦島へ撤退。

源範頼軍によって九州への退路が断たれているため、彦島のある関門海峡の壇ノ浦で源氏を迎え撃つことになりました。

序盤は強力な水軍を擁する平氏が優勢でしたが、阿波水軍の寝返りや、一説によると潮流の変化などがあり源氏軍が巻き返します。

敗北を悟った平氏方では、平氏が擁立した幼い「安徳天皇」(あんとくてんのう)や、その祖母「二位尼」(にいのあま:[平時子]とも)、そして武将達が次々と入水。平氏は滅亡しました。

落合芳幾作「源平盛衰記 長門国赤間の浦に於て源平大合戦平家亡びるの図」

幕末から明治時代にかけて高い人気を誇った浮世絵師「落合芳幾」(おちあいよしいく)は、本合戦浮世絵にて壇ノ浦の戦いの様子を詳細に描き込んでいます。

伝説的な「八艘飛び」(はっそうとび)を見せる源義経の背後には、安徳天皇や二位尼が乗る平氏の御座船(ござぶね)も描かれました。

滅びゆく平氏と、これから統治者となる源氏との最後の戦いには、40名を超える著名な武将達が登場。大舞台のクライマックスシーンを見るような構図が印象的です。

落合芳幾 作「源平盛衰記 長門国赤間の浦に於て
源平大合戦平家亡びるの図」

落合芳幾 作「源平盛衰記 長門国赤間の浦に於て
源平大合戦平家亡びるの図」(所蔵:刀剣ワールド財団)

源頼朝亡きあと13人の合議制が成立

平氏を滅ぼした源氏の棟梁・源頼朝は、鎌倉において統治体制を固め、1192年(建久3年)には「後鳥羽天皇」(ごとばてんのう)より征夷大将軍に任ぜられます。

そのあとの1199年(建久10年)、満51歳で没した源頼朝の跡を継ぎ2代将軍に就任したのは、まだ18歳という若き源頼家でした。

この若年の鎌倉殿を補佐するという名目で有力御家人らが13人の合議制を発足させます。幕府の有力者である北条時政は、息子の北条義時と共に13人の合議制へ参加。権力闘争の末にやがて執権として鎌倉幕府の実権を掌握していくのです。

月岡芳年作「芳年武者无類 遠江守北条時政」

月岡芳年 作「芳年武者无類 遠江守北条時政」

月岡芳年 作
「芳年武者无類 遠江守北条時政」
(所蔵:刀剣ワールド財団)

本武将浮世絵の作者である月岡芳年は、「芳年武者无類」(よしとしむしゃぶるい)シリーズで幻想的な世界観の北条時政を描いています。

子孫繁栄を願う北条時政の前に「弁財天」(べんざいてん)が現れ、神託を授けると、大蛇に姿を変えて海の中へ消えていきました。

北条時政は、大蛇が残した3枚の鱗(うろこ)を押し頂き、以降、北条氏の家紋は「三つ鱗」と定められたと伝えられています。

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