武将浮世絵
うたがわとよのぶ さく「しんせんたいこうき じゅうよくごうをせいす」 歌川豊宣 作「新撰太閤記 柔能勢剛」

本武将浮世絵は、1582年(天正10年)に尾張国(現在の愛知県西半部)の「清洲城」で行なわれた「清洲会議」における一場面を描いた絵図。
絵図の左側で刀剣に手をかけているのは、織田家家臣「佐久間盛政」。中央にいるのは、「鬼柴田」の異名を持つ織田家の重臣「柴田勝家」。そして、絵図の右側にいるのが「豊臣秀吉(羽柴秀吉)」です。
清洲会議は、「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれた「織田信長」の後継者を誰にするか、また遺領(いりょう:残された領地)をどのように分配するかを決める会議です。
織田信長の後継者候補は3人。ひとり目は、織田信長の次男である「織田信雄」(おだのぶかつ)。2人目は、織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか)。織田信孝を推薦したのは柴田勝家で、自身の勢力を拡大するために織田信孝を推しましたが、それに待ったをかけたのが豊臣秀吉でした。
豊臣秀吉は、3人目の後継者候補として「三法師」(さんぼうし:のちの「織田秀信」[おだひでのぶ])の名を出します。
三法師は、織田信長の嫡男「織田信忠」(おだのぶただ)の長男。織田信長の後継者だった織田信忠は、本能寺の変の際に自害しているため、織田信忠の子である三法師が家督を継ぐのは自然なことでした。
豊臣秀吉は、明智光秀の討伐合戦である「山崎の戦い」において最大の武功を挙げていたため、誰も反対することができなかったと言います。
そして、この後継者決めにより豊臣秀吉と柴田勝家の対立が激化。豊臣秀吉の天下取りの緒戦と言われる「賤ヶ岳の戦い」へと繋がるのです。