合戦浮世絵

うたがわよしとら さく「みののくにかっせん」 歌川芳虎 作「美濃の國合戦」

美濃の國合戦

本合戦浮世絵は、江戸時代に一大ブームを巻き起こした「絵本太閤記」に書かれた「織田信長」による「美濃侵攻」を描いた1枚です。

織田信長は、1544年(天文13年)に美濃国(現在の岐阜県)の守護代「斎藤道三」の娘「濃姫」(帰蝶)と婚姻し、同盟を結んでいました。しかし、その斎藤道三が嫡男「斎藤義龍」と争って、1556年(弘司2年)に敗死すると、再び織田信長と斎藤家は険悪な関係に。

織田信長は、1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」で「今川義元」を破って勢いに乗り、「徳川家康」と同盟を結んで、美濃侵攻に着手。ここから活躍したのが、織田信長の家臣「豊臣秀吉」だったのです。

本合戦浮世絵のいちばん左にいるのが「小田弾正春永」と書かれた織田信長。軍の先頭で、長いを武器に、茶色の馬に乗り、勢い良く戦っているのが「中浦猿吉郎」と書かれた豊臣秀吉です。

一方、いちばん右側の白馬に乗った敵将は「比根野備中守」と書かれた「日根野弘就」(ひねのひろなり)。日根野弘就は、斎藤家の家老で、斎藤道三、斎藤義龍、「斎藤龍興」の3代に仕えた名武将でした。この絵の通り、何度も織田信長軍を撃退していたのです。

しかし、1561年(永禄4年)に斎藤義龍が病のため急死。息子の斎藤龍興が14歳で家督を継ぎます。そこで、今が好機だと、豊臣秀吉は調略を開始し、「森可成」、「明智光秀」、「竹中半兵衛」など、斎藤家の有力家臣を織田側の味方とすることに成功したのです。

結局、1567年(永禄10年)「稲葉山城の戦い」で、斎藤龍興は敗戦。織田信長が美濃を攻略しました。

本合戦浮世絵を描いたのは、幕末から明治時代にかけて活躍した「歌川芳虎」。江戸時代は、織豊政権以後の武家に関する出来事を描いてはいけないと、幕府の禁令が出されていましたが、この時代の人々は創意工夫して、史実を伝えようとしたのです。

美濃の國合戦の浮世絵

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詳細情報

浮世絵師 歌川芳虎 浮世絵の題材 美濃侵攻

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