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勝川春章

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「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)は、「葛飾北斎」の師匠にして江戸中期を代表する浮世絵師です。浮世絵様式のひとつである「役者絵」に、役者の姿や顔など「役者の個性」をリアルに描き込むことで、新たに「似顔絵」という役者絵を生み出したことから「似顔絵の祖」と言われています。また美人画や相撲絵など、様々な作品を残しましたが、その生涯はあまり明らかにはなっていません。断片的な記録と資料から、勝川春章の人生や魅力ある浮世絵に迫ります。

勝川春章の生涯

「似顔絵の祖」 役者の個性を描き分けた男

勝川春章

勝川春章

勝川春章は、世界中に知られる浮世絵師「葛飾北斎」(かつしかほくさい)や、謎に包まれた天才絵師「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)と比べれば、その知名度はやや劣ります。

しかし、勝川春章が浮世絵に果たした役割は極めて大きく、葛飾北斎や東洲斎写楽の「役者絵」や「大首絵」も、勝川春章が発明した「似顔絵」の流れにあります。もし彼がいなければ、葛飾北斎や東洲斎写楽の作品も異なる作品となっていたかもしれません。知名度こそ劣りますが、功績の点では浮世絵の歴史に欠かせない重要な絵師のひとりなのです。

そもそも役者絵が大衆文化として多くの人に広まったのは、歌舞伎界で専属絵師の地位を得た「鳥居清信」(とりいきよのぶ)とその子弟達による「鳥居派」の功績によります。

歌舞伎小屋や舞台などを風景として描いた絵ではなく、当時の歌舞伎界のスターであった役者や、彼らが演じる演目の名場面を描くことで歌舞伎の集客に寄与し、鳥居派の役者絵が人気を得たのです。

その後、役者絵は、芝居や役者を紹介する広告物、あるいはファンのためのブロマイドや観劇の記念品として人々に愛され、様々な絵師達によって描かれることとなりました。

しかし、それらの役者絵は、歌舞伎役者個人の特徴を捉えた物ではなく、歌舞伎役者や舞台、歌舞伎を楽しむ人々などが描かれており、複数の役者が登場していても、判で押したように同じ顔が並んでいることも少なくありませんでした。

これは役者絵の技法上の伝統でもありましたが、印刷技術上の限界もかかわっていました。浮世絵の初期にあたる江戸中期の印刷術では、細かい線や色使いは難しく、版画に個性を描きこむのが技術的にも不可能だったのです。

個性を描いた浮世絵がなかったので、当時の人々もそれを求めることはなく役者絵を楽しんでいました。ところが、その役者絵の世界に革命を起こす絵師が現れます。それが、人物の特徴を捉えた役者絵(似顔絵)を描く勝川春章でした。


葛飾北斎葛飾北斎
江戸時代を代表する浮世絵師「葛飾北斎」に関するエピソードをまとめています。

謎多き修行時代

役者絵の世界に似顔絵という新しい考え方をもたらした勝川春章の前半生をたどりましょう。

勝川春章は画号であり、本名は藤原正輝と言います。号は「春章」以外に「旭朗井」(きょくろうせい)、「酉爾」(ゆうじ)、「李林」(きりん)、「六々庵」(ろくろくあん)などを使用している他、「縦画生」(じゅうがせい)と書かれた物もあります。

これは「画法に依らず欲しいままに描く」という意味で、彼の信条を表したものだとされています。なお、浮世絵以外に俳諧も嗜んでおり、「宜富」(のぶとみ)の俳号も持っていました。

勝川春章の生涯には不明瞭な点が多く、何歳から絵を描き始めたのかは分かっていません。明らかになっているのは、宮川派の祖「宮川長春」(みやがわちょうしゅん)の門人「宮川春水」(みやがわしゅんすい)に弟子入りしたということです。

弟子入り後は、宮川を画姓として活動しましたが、その後度々改名し、「勝宮川」を経て、「勝川」([勝]とも)と名乗るようになりました。

勝川春章の家族構成や幼少期についても同様に記録が少なく、生年にはいくつかの説があります。長らく定説となっていたのは、1726年(享保11年)生まれとする説。

これは没年である1792年(寛政4年)に67歳であったという記述からの逆算によるもので、最も有力な説とされていました。この他に、1729年(享保14年)生まれという説もありますが、いずれにしても、30代も半ばを過ぎてデビューした、「遅咲きの絵師」と考えられてきました。

ところが、2016年に没年50歳という説が発表され、従来より17歳若い1743年(寛保3年)の生誕説が登場したのです。それまで大器晩成型のイメージで語られてきた勝川春章ですが、この新説によって、10代デビューの早熟の画家だった可能性も出てきました。

「享保生まれ」と「寛保生まれ」のどちらが正しいかの結論は出ていませんが、今後の研究の結果が待たれるところです。また、勝川春章の出生地は江戸とされていますが、その生い立ちについても定かではありません。

唯一の資料としては、勝川春章と知り合いであった「高嵩月」(こうすうげつ)という絵師が著した書物で、有名な浮世絵師の情報が掲載されている「画師冠字類考」(えしかんじるいこう)があります。

宮川長春「十二ケ月風俗絵巻」(国立国会図書館Webサイトより)

宮川長春「十二ケ月風俗絵巻」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

その中に、勝川春章は江戸の葛西の生まれ、父親は医者であったとの記述があり、それが今のところ、彼の出自を示す唯一の資料となっています。ちなみに、この高嵩月の師匠は高嵩谷(こうすうこく)と言い、一時期、勝川春章が絵を学んでいたことがありました。

勝川春章の師匠である宮川春水は、宮川長春の流れをくむ名門の絵師集団・宮川派の門弟でした。勝川春章自身、自ら画姓を変えることなく宮川派であり続けましたが、宮川から勝宮川と名乗り、最終的に「勝川」を名乗っています。

この変更は勝川春章自身が行なったものではなく、師匠である宮川春水の改姓に、弟子である勝川春章が従う形で生じた改姓でした。そして、この改姓には、ある事件が関係していたのです。

大和絵師VS浮世絵師 「宮川長春事件」とは

勝川春章の師匠・宮川春水は、名門・宮川派の弟子ですが、ある事件のせいで宮川を名乗ることができなくなった不遇の絵師でした。1750年(寛延3年)、勝川春章の師・宮川春水と、浮世絵界全体をも揺るがす大事件が起こります。

宮川長春を祖とする名門・宮川派は、肉筆美人画を得意とし、多くの門人を抱えていました。宮川長春は伝統的な「大和絵」の一門である土佐派の出身で、浮世絵初期に肉筆美人画で一世を風靡。土佐派の流れを汲んだこともあり、宮川派は浮世絵師よりも、幕府や寺社などから仕事をもらう「御用絵師」としての仕事を好みました。

浮世絵は、庶民の生活などを描いた木版画であった一方、御用絵師は、伝統的な物語や神話的な画題を描く肉筆画で、主たる依頼者が特権階級であったことから、浮世絵初期において両者は一線を画した存在でした。

日光東照宮

日光東照宮

1750年(寛延3年)、そんな宮川長春とその一門のもとに、願ってもみない大きな仕事の依頼が舞い込んできました。日光東照宮の彩色修理です。

依頼主は大和絵の名門・狩野派で、幕府の表絵師である稲荷橋狩野家の「狩野春賀」(かのうしゅんが)でした。いわば幕府からの孫請であり、神君家康公を祀る日光東照宮の仕事だったことから、極めて名誉ある仕事と言えます。

宮川長春は一門とともに意気揚々と日光東照宮に赴き、この彩色改修に参加。見事にその仕事をやり遂げ、その評判も上々でした。ところが、依頼主の狩野春賀からは、いつまでたっても報酬が支払われません。しびれを切らした宮川長春は、宮川派の頭領として自ら稲荷橋にある狩野家の屋敷に乗り込み、報酬の催促をします。

すると、宮川長春は大勢の男達に取り囲まれ、あろうことか、狩野家の者達が老齢の宮川長春を取り囲み、集団で暴行したうえ、荒縄で縛ってゴミ捨て場にうち捨てたのです。

宮川長春は一命をとりとめましたが、宮川長春の息子である宮川長助と門弟達はこの所業に激怒。報復のため、狩野邸に夜襲をかけました。そして、宮川長助と門弟達は狩野春賀を殺害し、門人3名に傷を負わせたのです。

この「宮川長春事件」は江戸を震撼させます。当然ながら事件はすぐに奉行所の知るところとなりました。取り調べの結果、奉行所の裁定は「喧嘩両成敗」。宮川派、狩野派の両者がともに裁かれることで決着としたのです。未払い報酬の督促に訪れた老絵師・宮川長春に対し集団で暴行に及んだ「稲荷橋狩野家」は断絶とされました。

一方、宮川派の関係者も厳しい刑罰が課され、狩野春賀を殺害した宮川長助は死罪となり、弟子の宮川一笑は遠島への流刑となりました。発端となった暴行事件の被害者である宮川長春も、宮川派の頭領として数年間の江戸所払い(追放)に処され、やがて暴行の傷がもとで亡くなりました。

こうして絵師の名門・宮川派は、報復のためとは言え、「人殺し」をした絵師の集団として広く世間に知られ、断絶してしまうこととなったのです。

もちろん、この事件に関与していなかった弟子も多く、勝川春章の師匠である宮川春水もその1人でした。取り潰しを受けた宮川派の生き残りとなった宮川春水は、宮川から勝宮川に画姓を変更し、さらに宮の字を取って「勝川」を名乗りました。このような事情で宮川派は衰亡の一途を辿り、多くいた弟子は散り散りとなったのです。

事件の際、勝川春章がすでに入門していたのかどうかは不明ですが、事件以前であれ以後であれ、宮川春水の弟子として絵を学んだのは事実であり、ほぼ師匠1人、弟子1人という状況だったことが窺がえます。

師の宮川春水は、自筆で書く宮川伝統の「肉筆画」を手がけ続けました。その伝統にしたがって、浮世絵の主流であった「版画」には手を出さなかったこともあり、大成せずに終わります。

一方、弟子の勝川春章は宮川派で学んだ肉筆画の技術を活かしつつも、本の挿絵として庶民に人気が高かった「版画」の世界に活躍の場を広げます。その後、印刷技術が向上して、木版多色刷りの「錦絵」が登場したことにより、似顔絵という新境地を開いていったのです。

この版画の世界で大きな足跡を遺したことで、勝川春章は多くの弟子を持ち、やがては「勝川派」として浮世絵界に一大派閥を構えることになりました。

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勝川春章の無名時代

勝川春章が宮川春水のもとでどのような弟子時代を送ったのか、資料が乏しく判然としていません。しかし、1764~1772年(明和元年~明和9年)の初めごろ、無名の勝川春章は、人形町(江戸日本橋)の地本問屋・林屋七右衛門の家に身を寄せていました。

その頃描いていた細判の役者絵に、林屋の「仕切判」(壺形の中に林の字がある印)を画印として転用していたため、「壺屋」や「壺春章」と呼ばれたと言います。

しかしながら、「林家」という地本屋が存在したかどうかは不明で、林は勝川春章の「氏」であるという説もあります。また、勝川春章の知己であった「大田南畝」(おおたなんぽ)によると、勝川春章が最初に評判を取ったのは、1768年(明和5年)に中村座で上演していた「操歌舞伎扇」という演目の「浪花五人男」の似顔絵であったと記しています。

絵暦の例(国立国会図書館Webサイトより)

絵暦の例
(国立国会図書館ウェブサイトより)

いずれにしても、明和の初期に勝川春章が浮世絵版画の世界に身を置き、役者絵を描いていたことには違いありません。すでに「版元」(本や版画の出版業者)と親しい関係にあって、少ないながらも仕事を得ていたことを窺がい知ることができます。

この同時期、版元の界隈で大きな変化が起こりはじめていました。そのめぐり合わせが、彼の今後の運命を変えていくことになります。

1765年(明和2年)、それまでの黒1色の刷画とは全くレベルの違う木版多色刷りの錦絵という印刷術が誕生します。

イラスト入りのカレンダー「絵暦」の愛好家であった旗本の「大久保甚四郎」と「阿部八之進」、薬商人の「小松屋三右衛門」といった富豪達が、より美しい絵暦を求め、印刷術の開発に費用を投じたのです。

彼らから発注を受け、錦絵の制作に参加した「鈴木春信」(すずきはるのぶ)や若手の浮世絵師達は、まるで「錦」のような美しい色彩に驚愕することとなります。こうして誕生した錦絵によって、浮世絵の世界は革新期を迎えることになりました。

浮世絵の革命 「錦絵」にかけた絵師達

浮世絵が誕生した17世紀の後半は、黒一色の「墨摺絵」(すみずりえ)によって発行されていましたが、その後、鉱物由来の顔料「丹」による朱色を使った「丹絵」(たんえ)、植物由来の「紅」を使った「紅絵」(べにえ)、さらに紅に加えて緑などの数色を使用した「紅摺絵」(べにずりえ)などが開発され、浮世絵の流行とともに、印刷技術も向上していきました。

その後、1765年(明和2年)に登場した錦絵は、多色摺り、すなわち「カラー」での制作が可能になったのです。色数が増えれば増えるほど、彫らなければいけない版木の数は増加していくため、浮世絵師の技術向上も不可欠でした。

錦絵の生産現場では、「絵師」、「彫師」、「摺師」と完全な分業体制が敷かれます。絵師は、下絵を描くと同時に、配色を決定して全体の絵を色毎に分解し、彫師は絵師が描いた下絵を板木に彫り、その板木を使って、摺師が紙に一色ずつ印刷して擦ります。

現在の印刷業界ではコンピューターで処理している「多色分解」を、当時は協業体制で実現していたのです。このため、絵師には高度な知識と技術、色彩感覚も必要となりました。

こうしてカラーの精緻な描写が可能になった錦絵によって、浮世絵は大変革の時代を迎えます。その技術革新の中心にいた絵師が、「鈴木春信」です。美人画の名手であった彼は、いち早く自らの作品に取り入れ、錦絵の第一人者となっていきました。

流通を始めた錦絵は、上方をはじめ、日本各地で驚きをもって受け入れられ、「あずま錦絵」として珍重されることになります。この技術革新の波に乗り、いち早く錦絵に対応した絵師と、乗り遅れた絵師との間で明暗が分かれていきました。

錦絵の技術をいち早く身に付けた若い絵師達は、カラー化や精密化によって得られた新たな表現力を駆使して大躍進を果たした一方、その技術革新に乗り遅れた旧来絵師達は、新世代の錦絵世代の絵師達に活躍の場を譲ることになったのです。

勝川春章も、いち早く錦絵の技術を習得した1人となります。属していた宮川派という画派は宮川長春事件で取り潰しとなり、いわば孤立無援状態にあった勝川春章でしたが、彼は版元に下宿するなど出版業界と密接な関係にあり、後ろ盾はないものの、「独立派」の浮世絵師仲間がいました。

その仲間の1人である「一筆斎文調」(いっぴつさいぶんちょう)は、狩野派を学び、浮世絵に転向した絵師で、勝川春章とは「絵本舞台扇」を共作しています。

また、「磯田湖龍斎」(いそだこりゅうさい)は、元武士(浪人)だった美人画の名手です。書店の息子でのちに北尾派の祖となる「北尾重政」(きたおしげまさ)も、勝川春章との共作「青楼美人合姿鏡」(せいろうびじんあわせすがたかがみ)があります。

勝川春章は、気鋭の若手絵師達と共に錦絵の技術を習得します。商業的な本や版画の出版をしながら互いの技を磨き、工夫を共有していきました。ひとりひとりは独立派とも言える絵師でしたが、「錦絵研究会」とも言えるコミュニティが実現していたことで、新しい技術を吸収し適応していったのです。

勝川春章と役者絵

錦絵の第1人者・鈴木春信が描かなかった「役者絵」に専念

錦絵世代の代表的な絵師で、美人画の名手として知られる鈴木春信は、日本画を描く「大和絵師」と自ら名乗っていました。

主に宮廷や幕府の御用絵師だった土佐派や狩野派が大和絵師と名乗っており、つまり自分は庶民に向けて流行り物の絵を描くような「浮世絵師」ではないと主張していたのです。鈴木春信はとりわけ役者絵を嫌い、「歌舞伎役者のような下賤な者は描きたくない」と公言していたほどでした。

当時、歌舞伎の芝居小屋は、遊郭とともに「悪所」と呼ばれていました。もちろん庶民からは好かれていましたが、武士階級からは下賤な場所だと蔑まれることが少なくありませんでした。それゆえ悪所たる歌舞伎を描いた役者絵も、格調高い大和絵師が描くべき物ではないという考えがあったのです。

しかし、これは別の絵師にとっては活躍のチャンスとなります。このチャンスをつかみ、「役者錦絵」の第1人者の座に納まったのが他ならぬ勝川春章です。

勝川春章には御用絵師へのこだわりがなかったため、富裕層のためではなく、庶民の楽しみのために流行の役者絵を描くことに徹したのです。

「一筆斎文調」と協力し、似顔絵を創出

勝川春章は、役者個人の特徴を捉えた似顔絵という新しい様式を打ち出します。この似顔絵は、錦絵の精緻な描写技術を使って、人気の歌舞伎役者や力士達の特徴を捉えながら、写実的な作風で描き、一世を風靡したのです。

手段を選ばない勝川春章は、出版媒体にもこだわりませんでした。似顔絵の媒体として一枚絵として描くだけでなく、歌舞伎にかかわる「絵本」や「芝居絵本」に、挿絵として似顔絵を入れることで、出版の幅を広めていきます。

勝川春章「絵本舞台扇」(国立国会図書館Webサイトより)

勝川春章「絵本舞台扇」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

1770年(明和7年)には、「一筆斎文調」と共著し、「絵本舞台扇」を発表します。これが大評判となり、当時としては記録的な発行部数である1,000部をたちまち売上げたのです。

この異例の事態に、版元は浅草の酒楼・巴屋で「千部祝宴」というパーティーを開いたと記録されています。共に筆を振るった一筆斎文調は、勝川春章とともに似顔絵を定着させました。

狩野派に学んだことから本来は大和絵師を志していたものと思われますが、このあとも勝川春章と共に、浮世絵の世界で役者絵や美人画の似顔絵を発展させていきます。

1776年(安永5年)には、役者の上半身を扇形の中に描いた「東扇」を発表します。

「東扇 中村仲蔵」は、役者の目や眉、鼻、口、耳の形、髪の生え際やひげの剃り跡までを細密に写実的に描いています。他にも、市川団十郎、中村松江、岩井半四郎、市川門之助、瀬川菊之丞、松本幸四郎、大谷広右衛門などが発売されました。

この扇型の錦絵は、いわばファングッズという側面を持っており、実際に切り取って扇として使うことはもちろん、屏風や襖などに貼るポスターとしても好まれました。役者の姿を仔細に模したことで、ファン心理を刺激したのです。

なお、扇や団扇の中に役者の上半身を大きく描いた構図は、やがて首から上を紙面いっぱいに描く大首絵という様式を生み出していくことになります。

「役者の素顔が見たい」という要望に応じる

勝川春章の発明は似顔絵だけにとどまらず、役者の「舞台裏」を描く新しい様式の役者絵へと展開していきます。それまでの役者絵は、舞台上で役を演じる役者を描いた物が一般的でしたが、勝川春章は、楽屋でくつろぐ役者をはじめ、舞台以外での役者も描いたのです。

勝川春章がこのような役者絵を描いたきっかけは、「役者 夏の富士」という役者絵本の序文で、「役者の素顔がみたいという読者の要望に応じて、役者の平常の姿などを描いてみた」と語っており、役者のファンからの要望に基づいて描いた物だったのです。

その役者 夏の富士という役者絵本のタイトルも、化粧を落とした役者の素顔を、冠雪が溶けて地肌が見える夏の富士山に例えて付けられたものです。役者の素顔を見てみたいというファンの欲求に答えるための作品であることが表題からも読み取れます。

1780年(安永9年)に発表されたこの役者絵本は、またしても大評判を呼び、同じ趣旨の大判錦絵も次々に発行されました。

この5代目市川団十郎の錦絵では、一般人が見ることができない楽屋の様子が描かれています。舞台の合間に衣装を着て、隈取りの化粧をしたままの団十郎が煙草を吸ってくつろいでいる姿は、舞台上の姿を描いた役者絵とは一線を画しています。

傍らには拍子木と冊子を持った裏方の姿が見えますが、これは人気戯作者の桜田治助であると言われています。また、かつらや鏡台、衣装を入れる長持など、舞台裏らしい小道具がそのままに描かれているのも特徴です。

このように似顔絵と「楽屋絵」を通し、勝川春章は浮世絵界で大きな名声を得ます。歌舞伎文化の定着と印刷技術の向上という時流に乗ることで、歌舞伎愛好者達にとって欠かせない浮世絵師の地位を確立したのです。

個性のない役者絵は古びた物になり、写実的で実際の役者の顔にそっくりな似顔絵が歌舞伎を愛する庶民が求める浮世絵となっていきました。

「もっと役者を近くで見たい!」大首絵の流行

もとは観劇の記念品だった役者絵でしたが、ファンの要望に応えた勝川春章によって、役者絵から似顔絵、楽屋絵へと移り変わりました。しかし、役者の素顔を描いた楽屋絵は、ひとつのファン心理に応えたに過ぎません。応えるべきもうひとつのファン心理が、さらなるジャンルを切り開きます。

すなわち、役者の姿を最も近くで描いた大首絵の登場です。役者絵では、それまで全身を描くことで名場面の演技を躍動的に表現していました。だからこそ筋肉を描く技法が鳥居派で発達し、形式化していたのです。

しかし庶民が望んだのは、歌舞伎の演目という文脈から切り離された、ヒーローとしての役者の姿でもあったのです。大首絵は、役者の胸から上を紙面いっぱいに描きます。

もともと、大首絵のようなアップの役者絵は、「役者絵の祖」と言われる鳥居清信も描いていましたが、本格的に人気を博し、大量に描かれるようになったのは、勝川春章とその一門による作品が現れてからのことでした。

勝川春章の代にはいわゆる大首絵というよりも、扇形の中に役者の上半身を大きく描いた扇絵が多く描かれました。

その後、「勝川春英」(かつかわしゅんえい)、「勝川春好」(かつかわしゅんこう)といった弟子達がそれを発展させ、紙面いっぱいに上半身、あるいは首から上を描き、大首絵を完成させました。とりわけ大首絵の名手として知られたのは、勝川春好でした。

勝川春好や勝川春英など、勝川一門によって、大首絵は役者絵の一ジャンルとして定着します。その人気は役者絵の世界に止まらず、「美人画」などでも定番となっていきました。

そして、東洲斎写楽や喜多川歌麿、歌川豊国といった浮世絵師がこの大首絵に挑戦し、数々の名作を残すことになります。また、首から上を描いた大首絵よりも、さらにアップにした「大顔絵」も勝川春好によって試みられました。

「黄金時代」の力士も似顔絵で描く

勝川春章は「相撲画」の世界にも似顔絵を持ち込みました。力士の個性を写実的に描くことで、これまた相撲ファンからの人気を得ます。

作品としては、「谷風梶之助・小野川喜三郎・行事木村庄之助」や、「両国勧進大相撲晴天大當繁昌之」、「加治ヶ浜力右衛門」、「関戸八郎治」などを描いた物が名作とされています。勝川春章らが錦絵の最前線で奮闘していた時期は、江戸の大相撲が発展した時期でもあります。

この絵には、仙台藩のお抱え力士で4代横綱である「谷風梶之助」と、久留米藩のお抱え力士で5代横綱である「小野川喜三郎」、さらに歴代最強と言われる松江藩お抱え力士「雷電為右衛門」が描かれており、この3名の力士が角界を盛り上げていました。名力士3名の鼎立という稀代の状況は、江戸大相撲の「黄金時代」とも言える全盛期を迎えていたのです。

歌舞伎役者同様に庶民のヒーローである大相撲の力士は、錦絵の格好の題材となります。勝川春章も、似顔絵で培った精緻な人物描写を活かし、多くの相撲絵を描きました。

その作品からは、今でも「古今十傑」に挙げられる名力士である谷風と小野川の特徴的な身体つきや表情、しぐさ、くせが見て取れます。こうして勝川春章の筆は力士の姿までも写実的に描き、相撲絵の世界にも似顔絵の流れを作り出したのです。

遊郭の美人も共作で出版

勝川春章「青楼美人合姿鏡」(国立国会図書館Webサイトより)

勝川春章「青楼美人合姿鏡」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

勝川春章と言えば、似顔絵で有名ですが、「美人画」も名品として知られます。

1776年(安永5年)には、遊女達の似顔絵を大形彩色本として描いた青楼美人合姿鏡を、盟友の北尾重政と共同で出版しました。

青楼美人合姿鏡では、吉原の各妓楼に実在した遊女達を紹介しています。著名な版元・蔦屋重三郎の企画による物で、美人画として楽しむこともできますが、評判の遊女を知るための情報誌的な側面もあったと考えられています。

各妓楼からも「宣伝費」として援助を受け、広告をかねて出版されたと言われています。

時代の風潮を反映した錦絵と似顔絵

明和のはじめに出現した錦絵は、またたく間に人々の心を掴み、1781~1801年(天明元年~寛政13年)にかけての約20年で発展し、鈴木春信や勝川春章などの多くの優れた絵師が育ち、素晴らしい作品が作られました。それがのちの葛飾北斎や東洲斎写楽などが活躍する「浮世絵の黄金時代」へとつながっていったのです。

錦絵の発展期は、老中・田沼意次が専横を極めたという、いわゆる「田沼時代」の後半にあたります。歴史の教科書で田沼時代というと、幕府の綱紀がゆるみ、汚職が横行した暗黒の時代と言われ、庶民生活においても人々は贅沢な浪費生活を送り風紀が乱れ、怠惰な生活にふけっていたとされています。

しかし、浮世絵師にとって田沼時代は夢のような時代でした。庶民が浪費生活を送ったということは、民衆が書物や旅行、相撲見物、あるいは「悪所」と呼ばれた遊郭や芝居小屋などといった「娯楽」にお金を使うことができたということを意味します。

武家の価値観で見れば、世俗的で下賎な時代に違いありませんが、大衆文化という視点で見れば、とても豊かな時代だったのです。この時代に錦絵は広まり、庶民の手にわたりました。

人々は、それまで富裕層でしか味わえなかった美しいカラーの「絵」を所有する喜びを知ったのです。また、人々が似顔絵を求めた理由にも、実は社会的な要因があるとする説があります。田沼時代には、それまで幕府により禁止されていた洋書(蘭学)が解禁・推奨されました。

その影響で、科学的、合理的な考え方が一部の知識人・文化人に広まり、リアリズムを追求する似顔絵の流行に影響を与えたと論じられます。

田沼意次自身も蘭学に興味があり、「平賀源内」と交流を持ったとも言います。実は、錦絵自体の開発に、その平賀源内がかかわっているという話もあります。発明家として知られる平賀源内は、「錦絵の祖」鈴木春信と同じ町内に住んでおり、多色摺りの際に版のズレを防ぐための仕掛けを考案したと言われているのです。

印刷技術の進化と錦絵の誕生、歌舞伎や大相撲、遊郭などの娯楽の流行、そして似顔絵の発達など、これらは偶然起こったのではなく、実は社会や経済の動き、蘭学の解禁といった時代の風潮が大きく関係しているとも言えるのではないでしょうか。

しかし、その後田沼意次が失脚し、松平定信による綱紀の引き締めが起こると、状況が一変します。浮世絵や出版の世界は幕府による検閲を受けるようになり、表現の自由を失いました。

これにより多くの浮世絵師が罰せられ、自制を迫られますが、それでも浮世絵師達は密かに反骨精神を作品に描きこみ、庶民はそれを喝采で迎えました。

晩年は肉筆美人画に回帰

師匠譲りの「肉筆美人画」で高い評価を受ける

1781~1789年(天明元年~天明9年)に入ると、勝川春章はそれまで力を入れていた出版の世界から距離を置きます。代わりに、より実力を発揮できる「肉筆画」の世界で筆を振るうことを選んだのです。それは師匠である宮川春水、そしてその師である宮川長春が活躍した世界でもありました。

錦絵の出現により表現の精度が上がったとは言え、肉筆画に比べれば制約されます。完成までに彫師と摺師の手が入るため、「彫るための絵」、「摺るための色」を考えながら描かなければなりません。しかし肉筆画なら、自分の描いた線と色がそのまま作品となります。

勝川春章はデビューから20年近く経ち、絵師としての名も上がり、多くの門弟を抱えて「勝川派」の長となっていました。そこで大衆文化としての「浮世絵」を弟子達に任せ、武家や公家、豪商、大寺院からの依頼で絵を描く、いわゆる御用絵師的な仕事をするようになっていたのです。

このことは錦絵の祖である鈴木春信と対象的でした。鈴木春信は「絵師」としてのステータスを求め、役者絵ひいては「浮世絵師」との評判を拒み続けて早逝しました。一方、鈴木春信が下賤と嫌った役者絵ばかりを描いた勝川春章は、その晩年に自ら御用絵師の立場を選び取ることができたのです。

それは、師匠の宮川春水も得られなかった地位であり、宮川派の開祖である宮川長春も命を落とすことになった道でもありました。勝川春章の肉筆画も評価が高く、特に絶賛されたのが美人画です。

「雪月花三幅対」は、勝川春章の肉筆画の傑作のひとつで、重要文化財に指定されています。清少納言、小野小町、紫式部という平安時代の女流文学者に残る逸話を、江戸時代の当世風の女性に置き換えて描いています。

その精緻さと細やかな美しさは、鮮やかな色彩や微妙なグラデーションによって表現されており、いくら錦絵であっても版画では表現することはできない傑作です。

「雪月花三幅対」の左側にある絵は、中宮定子から「白居易の詩にある香炉峰の雪とはどんな物でしょう」という問いかけを受けた清少納言が、すぐに御簾を上げて外の雪景色を見せた、という故事に見立てた絵です。しかし、女性が話しかけているのは中宮定子ではなく、足元の子犬に変わっています。

中心の絵は、石山寺で書き物をしながら、月を見て考えごとをする武家の若い女性を描いています。これは紫式部に見立てた絵です。

右側の絵は、花を見つめる女性ですが、「花の色はうつりにけりないたづらに我が身よにふる眺めせしまに」と詠み、雨に打たれて色あせた花を見て、我が身に迫る老いを憂う小野小町の姿を当世の遊女に重ねています。

また、同じく重要文化財の「婦女風俗十二ヶ月図」は、1月から12月までの風物詩とともに美人を描いた12幅の連作です。勝川春章の熟練期における最高傑作であり、楢崎宗重(ならさきむねしげ)は「日本絵画史上トップレベルに列する神品」とまで讃えています。

しかし残念なことに、1月と3月が失われ、その後、歌川国芳によって補完された物の、現在では再び1月が失われています。

2月は「蹴鞠」、4月は「ほととぎす」を描くなど、美しくカラフルな衣装を着た女性達と、季節の花や風物詩とともに生き生きと描きだしています。この作品は平戸藩主松浦家に保存されていた物で、勝川春章が御用絵師として地位の高い人々や富裕層などに向けて絵を描いていたことが窺がえます。

「竹林七妍図」は、漢画の「竹林の七賢」の見立て絵で、竹林に集まった七賢者を、美しい女性7人に置き換えて描いています。その身分も様々で、武家の女房、商家の女房、町娘、妾、遊女などが集まっています。

勝川春章は、肉筆画においてもリアリティにこだわりました。かつて錦絵でもリアリティにこだわり似顔絵を描きましたが、肉筆画で描くことのできるリアリティは錦絵をはるかに超えており、細やかな着物の流れや髪の毛1本にいたるまで、執念とも言える筆致で優美に描きだしたのです。

このような勝川春章の肉筆画は絶賛され、「春章一幅値千金」(春章の絵の一幅は値千金の価値がある)と最上級の評価をされました。これは「春宵一刻値千金」(春の夜の一時は値千金の価値がある)をもじったものです。

浮世絵研究者である「楢崎宗重」も、「春章の肉筆画における技倆は浮世絵師中第1級であり、日本絵画史上でもトップレベルの1人」であり、「浮世絵史上屈指の大家」と勝川春章に対し、最大級の賛辞を贈っています。

勝川春章の死と、大派閥「勝川派」の門弟達

死亡年齢も諸説あり

絵師としての前半生を錦絵と似顔絵の発展に尽くし、後半生を、肉筆画の絵師として生きた勝川春章は、1792年(寛政4年)12月8日、享年67歳でその数奇な人生の幕を閉じました。ただし冒頭で述べた通り、死亡年齢についても謎に包まれており、享年50歳という説もあります。

その墓所は浅草南本町西臨寺にあり、法号は「将誉春章信士」となっており、「枯れゆくや今ぞいふことよしあしも」という辞世の言葉が石に刻んであります。

大繁栄する勝川派

勝川春章の絵師人生は、決して平坦なものではありませんでした。師匠の宮川春水が属する宮川派が「宮川長春事件」によって解散してしまうという最悪の状態からスタートしたことは、波乱の絵師人生の幕開けだったとも言えます。

しかし、それにも負けず、新しい技術を学び、自らの画力で随一の浮世絵師として名声を得ました。その成功した彼のもとには、晩年多くの弟子が集まり、堂々たる画派「勝川派」を成すまでになります。

主要な弟子としては、二大高弟と言われる「勝川春英」(かつかわしゅんえい)、「勝川春好」(かつかわしゅんこう)。他に「勝川春湖」、「勝川春山」、「勝川春旭」、「勝川春潮」、「勝川春常」、「勝川春林」ら多くの弟子が活躍しています。

門人の中で最も頭角をあらわした筆頭弟子・勝川春英は、師匠と同様に、版画では役者絵を中心に相撲絵、武者絵などで作品を遺し、また数は少ないながら肉筆画にも才能を発揮しました。また、彼は多くの門弟を育てて「勝川派」のさらなる繁栄をもたらします。

一方の勝川春好は、師匠の若い頃と同様に、壺型の印を用いたため「小壺」と呼ばれ、専ら役者の似顔絵、とりわけ大首絵で人気を博しました。勝川春好は役者の似顔絵が本人に非常に似ていたため、あえて役者名を書かないことさえ多かったと言います。

しかし不幸なことに勝川春好は病気で右手が使えなくなってしまい、その優れた作品を生み出せなくなってしまいました。それでも左手で描き続けた結果、奇妙な趣のある作品を生み出しました。そしてそれらが東洲斎写楽に影響を与えたという説もあります。

一門の中で他に注目すべき弟子を挙げるとすれば、「勝川春朗」(かつかわしゅんろう)です。

19歳で勝川春章に入門した彼は、16年間学んだのち、師匠が没した35歳に勝川派を離れました。兄弟子の勝川春好と折り合いが悪かったとも、無断で他派の絵を学んだから破門されたとも言われていますが、彼はその後、葛飾北斎として知られるようになります。

葛飾北斎は「富嶽三十六景」や「北斎漫画」などの作品で、浮世絵の歴史を変え、日本のみならず世界中に浮世絵のファンを作り出しました。

さらには、ゴッホやマネなど、海外の画家にも甚大な影響を与えることになり、世界で最も有名な日本人のひとりとなったのです。

勝川春章の影響を受けた絵師達

勝川春章やその一門勝川派が作り出した役者絵の似顔絵や大首絵に影響を受けた絵師は多くいます。その中で特に独自の大首絵を作り出し、一大旋風を巻き起こした絵師がいました。謎の絵師「東洲斎写楽」です。

彼は勝川春章と葛飾北斎のように直接の師弟関係があるわけではありません。しかし勝川春章に多大な影響を受けた浮世絵師のひとりであると言えます。他にも、役者絵は「歌川豊国」、美人画は「鳥居清長」や「喜多川歌麿」らに影響を与えています。

錦絵の表現力を十分に活用した似顔絵を生み出し、商業的にも成功した勝川春章の表現力と門人の育成という功績なしには、浮世絵の歴史を語ることはできないのです。

勝川春章

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