浮世絵師一覧

水野年方

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浮世絵師でありながら日本画家でもあった「水野年方」(みずのとしかた)。見逃されがちな水野年方ですが、絵を通じて風俗画の地位向上や近代文学の発展にも貢献し、門下から数多くの有名画家を輩出しています。
ここでは、そんな水野年方に焦点を当て、その生涯や作品を紹介します。

水野年方の生いたち

「最後の浮世絵師」の弟子

水野年方

水野年方

浮世絵師と言えば江戸時代のイメージがありますが、明治時代にも浮世絵師は活躍していました。水野年方は、明治の浮世絵師を代表する絵師のひとりです。

水野年方の師匠は、凄惨な場面を描いたことから「血みどろ月岡芳年」とも呼ばれる「月岡芳年」(つきおかよしとし)。月岡芳年の師匠は、奇想天外な作風で人気が高い「歌川国芳」(うたがわくによし)です。

武者絵を得意としていたことから「武者絵の歌川国芳」とも呼ばれ、江戸時代末期を代表する浮世絵師として活躍しました。

偉大な先代と先々代を持つ水野年方ですが、一般的な知名度はそれほど高くありません。短命で43歳にして没し、活躍年間が短かったこと、またその活躍が江戸時代ではなく、浮世絵の一般的なイメージと離れていることが、その原因と思われます。

しかし、浮世絵界における大きな功績を残した人物なのです。

彼の師匠・月岡芳年は「最後の浮世絵師」とも呼ばれます。幕末にデビューし、明治初期にかけて大活躍した浮世絵師である月岡芳年は、江戸という時代が生み、育てた「江戸の浮世絵師」。

その弟子である水野年方は明治維新の直前に生まれ、物心がついたときにはすでに時代は明治へと移り変わっていました。浮世絵史上初の「江戸時代を知らない浮世絵師」だったのです。明治時代と言えば、西洋文明が怒涛のように押し寄せ、社会の仕組みや人々の価値観が激変していった時代。激変する社会のなかで、浮世絵の人気も低迷し始めました。

すでに過ぎ去った江戸文化の担い手である浮世絵師達にとって、明治は決して生きやすい時代ではなかったのです。明治を絵師として生きていく決心をした水野年方は、師匠の月岡芳年だけでなく多くの先達の絵に学びながら、明治の浮世絵師の活躍の場を広げていきました。

「江戸のメディア」であった浮世絵の版元が衰退していくなか、代わりに登場したのは「活版印刷」によるメディア。そこで新聞や雑誌、書籍といった新しいメディアに「挿絵」を提供することで人気を集め、「挿絵画家」として一世を風靡します。

さらに水野年方は、浮世絵の芸術的価値を見出す活動を展開。浮世絵師達は明治に輸入された「画壇」の文脈に自らを位置付けていく必要があったのです。

浮世絵は、庶民のメディアとしてすでに200年近くもたゆまぬ努力と工夫を続け、進化を続けてきました。その洗練された技術と発想で描いた作品を「日本画壇」の展覧会に持ち込み、その芸術的な価値を問うたのです。

浮世絵で培った水野年方の技術は、「日本画壇」でも高い評価を獲得。芸術を競う画壇の世界で浮世絵師が十分勝負できることを示したのです。この功績によって、明治時代でも浮世絵師が「画壇」で生き残る道筋が作られました。

それは、浮世絵産業の衰退期にあった明治の浮世絵師達に、希望を示すことにもなったのです。浮世絵師であり続けながらも、日本画家として画壇で活躍した絵師・水野年方。

水野年方の生涯を追いながら、代表作を紹介します。

江戸時代を知らない浮世絵師

水野年方は、明治維新の2年前である1866年(慶応2年)に、江戸・神田に生まれました。本名は「野中粂次郎」(のなかくめじろう)。

彼が幼年期を過ごした頃、日本は激動の時代を迎えていました。満1歳の年に大政奉還や王政復古があり、満2歳の年には戊辰戦争、江戸無血開城など歴史的な大事件が次々に起こり、ついには江戸幕府が倒れ明治新政府が誕生。

水野年方は、文明開化の激流で日々変化する江戸(東京)の街で育ちます。満6歳のときに学校制度がスタートし、近代教育を受けた最も早い世代となりました。

こしかたの記

こしかたの記

水野年方の生涯について語るとき、絶好の資料となるのが、彼の弟子「鏑木清方」(かぶらぎきよかた)が残した自伝『こしかたの記』。

鏑木清方は、水野年方の門人のなかでも特に名の知れた弟子で、文才にも恵まれ多くのエッセイを残しました。

彼の自伝には、師匠である水野年方のことが数多く書かれています。それも、幼少期から43歳で亡くなるまでのほぼ全生涯を網羅して記録してあるのです。

その事細かな記録量もさることながら、文章の端々から、鏑木清方が師・水野年方を深く敬愛していたことが窺えます。

鏑木清方の資料を参考に、水野年方の生涯を紐解いてみましょう。

14歳で月岡芳年に入門

水野年方の父「野中吉五郎」は、左官の棟梁でした。水野年方を産んだ母は早くに父と離れてしまっており、水野年方は父の後妻と異母兄弟(人数不明)と暮らしていました。

ちなみに、異母弟の「栄之助」(えいのすけ)は、のちに「水野呂童」(みずのりょどう)という名で尺八の大家となります。

(水野年方の)父は野中吉五郎と云って左官の棟梁であったから、塗家造りの土間には、大小様々の竈(へっつい)が列んでいた。(略)
ちいさいときから父の仕事を継ぐように仕込まれていたのだが、画工(えかき)になりたい一心から、十四歳のとき月岡芳年の内弟子に住み込み(略)

鏑木清方「こしかたの記」

水野年方は、幼い頃から家業を継ぐために左官の仕事を手伝っていました。しかし、彼は暇さえあれば絵を描いているほど絵が好きで、やがて絵師を志します。

14歳の頃、高名な浮世絵師・月岡芳年の内弟子となり、浮世絵師としての人生を歩み始めました。しかし、師匠は「血みどろ月岡芳年」の二つ名で呼ばれる人物。アバンギャルドな作風で知られ、実生活でも破天荒で暴力的な人物だったのです。

運の悪いことに、水野年方の入門は、その生活が特に乱れていた時期と重なってしまいました。例えば、水野年方のことを名前ではなく「左官」と呼んだり、気に入らないと六尺棒を振り回したりといった、横暴な事件が伝えられています。それどころか、次のようにそもそも絵さえろくに教えてはいなかった模様。

(月岡芳年は)近所の遊郭に入り浸っていた時分なので、職人気質の(水野年方の)父親は我慢し切れず、出世前の者を預けて置けるところじゃアねえ、と怒って退げて了ったのはその翌年の、先生が十五歳のときと聞いている

鏑木清方「こしかたの記」

左官職人の跡を継がせるつもりだった息子が「どうしても絵師になりたい」と言うから、父親は月岡芳年のところに通わせたつもり。

しかし肝心の先生・月岡芳年が吉原に入り浸って女にうつつを抜かし、ろくに絵も教えないのでは話になりません。江戸っ子で職人気質の父親は激怒し、翌年には息子を連れ帰ってしまいます。

父の死、そして月岡芳年への再入門

月岡芳年の内弟子を辞めさせられた水野年方でしたが、決意が揺らいだわけではありません。

その後も絵師になる勉強を継続し、陶器に絵を描く「陶器画」や「南画」(なんが:中国絵画の影響を受け、日本で江戸時代中期以降に興った絵画)を学んでいました。

しかし、水野年方が16歳のとき、父が早逝。水野年方は父の死後、広尾にあった義母の実家・猪岡家に身を寄せ、そこで陶器の下絵を描く仕事を始めました。このときに出会った猪岡家の末娘「房」(ふさ)は、のちに水野年方の最初の妻となります。

数年後、水野年方は月岡芳年のもとに再入門。かつて水野年方を連れ戻した職人気質の父が亡くなったことで、水野年方は再び絵師の道を歩み始めたのです。

幸いこの頃には、月岡芳年も以前のような堕落した生活から立ち直って生活態度も改まり、再び画業に取り組むようになっていました。

1882年(明治15年)、師匠・月岡芳年は、第一回内国絵画共進会に「藤原保昌月下弄笛図」を出品。これが評判となり、出版もされて画家としての評価が高まります。

しかし、粗暴で口が悪かった月岡芳年は、多くの弟子に逃げられていました。そんななかに真面目で努力家、堅実で芯に一本筋が通った水野年方が戻ったので、水野年方のことを高く評価します。水野年方の性格については、鏑木清方も次のような証言を残しています。

先生は芸事に趣味はあったけれど師の月岡芳年とは似もつかない堅人で、なんの道楽も持ち合わず、派手な生活、派手な振舞を嫌われた。
相撲が好きだったが、横綱、大関の花々しいのより、上りも下りもしない地道な角力を取るからと云って、若湊という力士に好意を有たれた。
江戸っ子で、然も職人の子でありながら、その人柄や志操には、どうしても士人の出としか思えない節があった。

鏑木清方「こしかたの記」

派手を嫌い、地道な努力を好み、職人の出身ながら武士出身のような気骨が感じられるという、明らかに月岡芳年とは正反対の性格。

月岡芳年は、いくら厳しく怒鳴っても、へこたれずに食らいついてくる水野年方を気に入り、再入門が実現することになりました。なお、このころ水野年方は姓を「野中」から「水野」に改めています。これは、水野家の養子になったことによる者。

この水野家がどのような家系かは詳しくは分かっていませんが、鏑木清方は「水野と云う姓は、明治初年にはよく行なわれた徴兵除けの改姓だということに聞いている」と記録しています。

明治の初期には、こうした徴兵除けがしばしば行なわれていました。徴兵免除の条件に合う家庭に養子縁組したり、徴兵義務のなかった北海道に籍を移したりして徴兵を逃れるのは、合法的な手段と認められていたのです。

例えば明治の大文豪「夏目漱石」(なつめそうせき)や彫刻家「高村光雲」(たかむらこううん)なども、水野年方と同様に養子縁組で徴兵を回避しています。

19歳で画家としてデビュー

水野年方の画家としての本格的なデビューは、1884(明治17年)。満19歳のときです。

日本橋室町の版元・秋山武右衛門(滑稽堂)から、大判3枚続の錦絵(「佐々木盛綱備前国藤戸ノ渡ニテ平軍ヲ襲ハント漁人ニ水之浅深ヲ問フ図」)を出版します。

それまで、月岡芳年の助手として絵本の挿絵を分担するなど、小さな仕事はしていました。それがいきなり「3枚続」(3枚で一揃い)の錦絵を本人の作品として描くことになったのですから、非常に華々しいデビュー。

まだ無名の青年であった水野年方が版元に投資してもらえたことについて、鏑木清方は「月岡芳年の口添えがなければ望めないことだったろう」と考えています。

異例の厚遇は続き、デビュー作に続いて、「雪月花」という3枚続の錦絵3編と、「楠木正成が天皇を迎える図」を描いた3枚続の錦絵が発表されました。

新人絵師として、破格の高待遇。これは、師匠・月岡芳年が水野年方の才能や技量に強い信頼と期待を持っていたからこそ実現したことでした。

なお、鏑木清方はこの2作のうち、「明治17年の出版届のある分が恐らく「水野年方」の署名を持つ最初の錦絵と見てよかろう」と推測しています。

挿絵画家として名を上げる

デビューの翌年1885年(明治18年)以降、激増した依頼に応え、続々と作品を発表。作品も一枚絵、刊本の挿絵など多岐に亘り、題材も様々。

はじめに評判を得たのは刊本挿絵でした。戯作小説では「勇立春若駒」、「絵本徳川十五代記」、「関ケ原軍記」、「通俗忠義水滸伝」、「赤穂忠義伝」、「絵本徳川十五代記」、「関ケ原軍記」といった歴史物に多く挿絵を提供します。

また、「嘉永水滸伝国定忠治実伝」、「清水治郎長伝」などの博徒物、「小間物屋彦兵衛之伝」、「白子屋阿熊之記」、「煙草屋喜八之伝」、「松前屋五郎兵衛伝」といった商人を主人公にした物語など、様々な題材を手がけました。

一方で、「一枚絵」の錦絵でも「和漢十六武者至」、「人皇十五代 三韓征伐の図」、「明智左馬之助湖水を渡るの図」などの歴史物を発表し、こちらも高い評価を受けます。

また、1883~1889年(明治16~22年)に刊行された「教導立志基」(きょうどうりっしのもとい)というシリーズでは、月岡芳年や「井上探景」(いのうえたんけい)、「小林清親」(こばやしきよちか)など、明治時代を代表する著名な浮世絵師達との合作に参加しました。

その急速な人気獲得を窺い知ることのできる資料が、当時の様々なお店や商売のランキングを掲載した「東京流行細見記」という本。

このなかに、人気絵師のランキングも掲載されています。ランキングのトップは師匠の月岡芳年なのですが、水野年方は新人ながら12位に名が挙がるほど、瞬く間に人気を得たのです。

1886年(明治19年)に日刊新聞「やまと新聞」が創刊されると、水野年方は師匠とともに挿絵画家として参加。「やまと新聞」は時事ニュースの他に小説や芸能、ゴシップ記事といった、娯楽性の高い記事も掲載していました。今日で言うタブロイド紙にあたります。

そのなかでも人気を集める二枚看板がありました。ひとつは師匠・月岡芳年による「大判新聞錦絵」です。もうひとつは怪談噺の名手「三遊亭圓朝」(さんゆうていえんちょう)の「噺」を口述筆記した記事。水野年方は、月岡芳年とともにこの挿絵を担当します。

この記事は、噺家・三遊亭圓朝の落語や怪談噺、講談などを、語ったそのままの言葉で文章に起こしたものでした。

読みやすく分かりやすいと大好評を得ると単行本化もされ、空前の大ヒットを記録。その人気ぶりは、それを読んだ小説家「二葉亭四迷」(ふたばていしめい)が、話し言葉そのままの口語体による小説を書くという「言文一致運動」を提案したことにも見て取れます。

三遊亭圓朝「福禄寿」挿絵1889年(明治22年)やまと新聞連載、「圓朝全集」(国立国会図書館ウェブサイトより)

三遊亭圓朝「福禄寿」挿絵1889年(明治22年)
やまと新聞連載、「圓朝全集」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

「やまと新聞」を創刊した「条野採菊」(じょうのさいぎく)はジャーナリスト・作家で、水野年方の弟子・鏑木清方の父親。のちに美人画の名手として日本画壇の重鎮となる鏑木清方ですが、このときはまだ子どもで、月岡芳年のもとには入門していません。父を通じて水野年方や月岡芳年の仕事ぶりを見ていた鏑木清方は、のちに水野年方のもとに入門し、「やまと新聞」の挿絵画家となり、また水野年方の全生涯を書き残すに至るのです。

明治20年代になると、江戸時代からの手摺り「和本」の版元は、経営難から衰退。印刷機を使った「洋本」を発刊する「出版社」が登場しました。浮世絵師達もこの産業の変化に順応を余儀なくされます。

1895年(明治28年)に、博文館から文芸雑誌「文芸倶楽部」が創刊されると、水野年方は有名小説家の挿絵(口絵)を次々に担当。

「泉鏡花」(いずみきょうか)の「外科室」や「笈(おい)ずる草紙」、「巖谷小波」(いわやさざなみ)の「色風琴」、「幸田露伴」(こうだろはん)の「西行逢妻」「夢がたり」、「山田美妙」(やまだみみょう)の「鰻旦那」「孫右衛門」、二葉亭四迷の「親こゝろ」など、名だたる作家の挿絵を手がけました。

多数の魅力的な挿絵から、やがて挿絵画家「尾形月耕」(おがたげっこう)とともに、「挿絵の双璧」と讃えられ、「水野年方が描けば、雑誌の売上が上がる」とまで噂されたのです。

水野年方と師匠達

浮世絵の師・月岡芳年

水野年方は浮世絵の名門・歌川派の流れを継いでいました。

「歌川」と名乗ってはいませんが、歌川国芳から「芳」の字を引き継いだ月岡芳年、月岡芳年から「年」の字を引き継いだ水野年方というように、系譜が連なっているのです。また、水野年方の弟子達には清方、輝方、寛方……と「方」の字が与えられました。

水野年方は、歌川派の伝統を引き継いでいますが、同時に独自の工夫や表現、他の絵師から学んだ技法などを付け加えています。そもそも、歌川派は常識を覆す改革者の系譜。

先代の月岡芳年、先々代の歌川国芳は、ともに浮世絵の常識を壊し、新境地を切り開いた人物として知られます。

例えば師匠の月岡芳年は、浮世絵だけではなく日本画の四条流を学び、写生を重んじていました。また、戊辰戦争の戦場に赴き、兵士の死体を写生したことでも有名。

この狂気的な情熱に感銘を受けた小説家・「野村胡堂」(のむらこどう:銭形平次シリーズの作者)が、月岡芳年を主人公にした「月岡芳年写生帖」という小説を書いたほどです。

歌川国芳、月岡芳年という2人の改革者に続いた水野年方は、生来の生真面目さも手伝ってか、後世に伝わるような狂気じみた行動は取っていません。

しかし、水野年方をずっと見続けてきた鏑木清方は、「挿絵画家として、これだけ本格的に基本を勉強した人は水野年方の他はいない」と評します。

水野年方の改革は、他流派、他分野の基礎技術を学ぶという点に尽きます。その意味では、水野年方には月岡芳年以外にも複数の師がいたのです。他流派、他分野の師とも呼べる人々を紹介します。

陶画の山田柳塘

父の手で月岡芳年の元を引き離された折、水野年方は一時的に陶器の下絵を仕事にしていました。

このとき陶器画を学んだ「山田柳塘」(やまだりゅうとう)は、日本画家「鈴木鵞湖」(すずきがこ)の弟子です。

鈴木鵞湖は「谷文晁」門下で中国絵画の影響を受けた「南画」の系譜を継ぐ画家と推測されています。

南画(文人画)の柴田芳洲

水野年方は日本画家の「柴田芳洲」(しばたほうしゅう)にも学びました。

柴田芳洲は「喜田華堂」(きだかどう)に岸派の絵画を、「村田香谷」(むらたこうこく)に南画(中国絵画の影響を受けた絵画の一派)を学んだ画家。

月岡芳年一門の女流絵師「柴田年人」(しばたとしんど)の夫であり、そのつながりで水野年方に出会ったのだと思われます。

渡辺省亭(わたなべせいてい)

特に珍しいのが「渡辺省亭」から教えを受けたことです。渡辺省亭は花鳥画を得意とする日本画家で、孤高の絵師と呼ばれました。

ほとんど弟子を取らず、水野年方が学んだのが唯一であったと言われています。渡辺省亭が主幹の雑誌「美術世界」で月岡芳年とつながりがあったことから、教えを受けるに至ったようです。

水野年方は様々な画派の技法や知識を学び、自らのものとします。その末に、歌川派、あるいは浮世絵という枠さえも越えた、新たな境地を築くことになるのです。

水野年方が生きた時代

文明開化のなかで

順風満帆な絵師生活を始めたかに思われますが、明治時代が浮世絵師にとって受難の時代であったことに変わりはありません。

文明開化のなかであらゆる産業が劇的に変化し、「出版」や「メディア」の世界も大きく変化します。特に江戸のメディアとして君臨していた浮世絵の状況は深刻で、もはや風前の灯火でした。浮世絵の題材と言えば、人気の役者や力士、遊女など、民衆の「スター」達の姿や、観光名所。

それはニュースでもあり、広告でもあり、娯楽でもありました。しかし、スターを写し取るのは「写真」へと移り変わり、事件を描いた「時事絵」(時局絵)は「新聞」に取って代わられ、「絵本」も「活版印刷」の登場によって版画による生産は終わりを迎えつつありました。

当然、それらのメディアを支えていた人々……絵師、版木を彫る「彫師」、紙に摺る「摺師」、彼らを統括する「版元」もまた、新時代にその存在意義を失おうとしていたのです。

浮世絵の「終わりの始まり」

1887年(明治20年)は、日本の出版界にとって特別な年だと言われています。この年は「和本が滅びた年」とも呼ばれ、従来からの手摺りの本「和本」の発行部数が、舶来の新技術である活版印刷で作られた「洋本」に抜かれてしまった年。

その後、その順位が逆転することはありませんでした。

和本が衰退したということは、同時に木版印刷の文化や産業も衰退。「和本」は絵や文字の版下を彫師が版木に手で彫り、摺師が紙に手で摺るという、職人の手による完全な手作業で作られています。そのため版元も街の個人商店が多く、小規模な物でした。

一方の「洋本」は、金属の活字を組んで版を作り、それを機械で印刷(プレス)するため、大量生産が可能。明治も20年代になると、資本力のある版元が「出版社」として事業を行なうようになります。

「和本」の世界に活躍の場を見つけたばかりの、当時22歳だった水野年方にとっても、産業の変化は切実な問題でした。手摺りの版画技術を引き継ぎ「和本」にこだわれば、いずれ事業が縮小するのは間違いありません。

しかし、新しい出版メディアに取り組めば、摺師などの職人達には道は残されないのです。

日清戦争の戦争画を多作

そうした状況下で、1894年(明治27年)、日本と清(中国)との戦争が始まりました。水野年方は、版元の求めに応じて「大日本帝国万々歳 平壌激戦大勝利図」「海軍将校等征清の戦略を論ずる図」など、日清戦争の錦絵を数多く出版します。

いかにも勇ましい言葉が踊っていますが、これらは現地取材をしているわけではなく、新聞などから日々入ってくる情報をもとに想像で描かれたもの。

もともと浮世絵師は、版元の依頼を受け、お客さんが読みたいもの、時代が求めたものを描く商業作家という側面があります。同時に「今」という「時代の空気」を感じ取り、それを絵にして残す、時代の記録者としての側面も持っていました。

これらの戦争画も、当時の情熱や狂騒なども含めて、時代の空気を描き出す貴重な記録になっています。しかしこれこそが、版画による浮世絵の最後の輝きとなるのです。

「海軍将校等征清の戦略を論する図」1894年(明治27年)錦絵(国立国会図書館ウェブサイトより)

「海軍将校等征清の戦略を論する図」1894年(明治27年)錦絵
(国立国会図書館ウェブサイトより)

師匠、月岡芳年の死

日清戦争の2年前、1892年(明治25年)、水野年方の師匠、月岡芳年が亡くなります。それはひとつの時代、浮世絵の時代の終わりを意味していました。

月岡芳年、水野年方、周延、月耕と、次々に新版は店頭を飾って、絵草紙屋はまだ庶民に親しまれていたようだったが、(明治)二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減って行った。
役者絵は何といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見せて来たことと、(明治)三十四五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし続けていた店も、絵葉書に席を譲らなければならなくなった。

鏑木清方「こしかたの記」

鏑木清方の追想によると、浮世絵師の本を売る「絵草紙屋」は、1894年(明治27年)頃に大流行した日清戦争の「戦争物」を最後に、目に見えて衰退が始まります。

「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年は、浮世絵の最後を見届けずにこの世を去ったのです。月岡芳年の死後、水野年方が「月岡芳年」の名を継ぐという案もありましたが、それは実現しませんでした。

しかし、月岡芳年の後継者が水野年方であることは誰しも認めるところ。浮世絵の最後にあって、最有力者の弟子が次の一手をどう打つのか、注目を集めたことが想像にかたくありません。

浮世絵師の活躍する場が減っていくなか、水野年方は、勃興し始めた「出版社」が発行する新聞や雑誌、書籍の挿絵を描くようになります。それらは「和本」を滅ぼした対抗馬に違いありませんでしたが、選択の余地はありませんでした。

水野年方は真面目に地道に、数々の小説の挿絵や口絵を描き、その活躍はやがて「本の売上げを左右する挿絵絵師」と呼ばれるに至ります。挿絵画家の尾崎月耕と並ぶ人気挿絵画家となっていったのは前述の通り。

「最後の浮世絵師」の弟子達、またその孫弟子達は、浮世絵が滅びつつある時代を生き抜いていかねばならなかったのです。

水野年方と浮世絵

美人画の名手

水野年方は、「清楚で上品な女性を描かせたら右に出る者はいない」と言われるほど、美人画の名手として知られています。

著名なシリーズのなかから、代表的な美人画を紹介します。

「三十六佳撰 苦津わや 明和頃婦人」錦絵 1893年(明治26年)(国立国会図書館ウェブサイトより)

「三十六佳撰 苦津わや
明和頃婦人」
錦絵 1893年(明治26年)
(国立国会図書館ウェブサイトより)

「三十六佳撰」は36枚の揃物で、代表作のひとつ。1枚ごとに「○○(江戸時代の元号)頃婦人」という副題がついており、それぞれ江戸時代の異なる時代における服装や髪型を忠実に再現した美人の姿が描かれ、例えば上の絵だと明和頃(1764~1772年)の女性の姿が忠実に描かれています。

「三井好都のにしき」は三井呉服店(現在の三越)のお客に配布する広告用の錦絵で、明治30年代ごろ、水野年方が晩年に描いた作品。この作品では「土用干し」(どようぼし:衣類や書籍に風をよく通し、陰干しすることで虫やカビがつくことを防ぐために行なう)をする風景を描いています。

季節ごとの女性の装いを描き、登場する衣服にはその時々の流行ファッションを取り入れ、観た人の購買欲をそそるように工夫されているのです。

「茶の湯日々草」は、茶道のしきたりを紹介する揃物です。それまで男性の世界だった「茶道」を女性にも広めるための一種のガイドブックでもありました。

「今様美人」は、毎月ごとに女性の生活を描いた揃物です。今様の名の通り、「今」を生きる女性達の姿を写したもので、服装や髪型も明治30年代の流行をとらえたものでした。

まさに「時代の空気」を切り取り記録する浮世絵師らしい仕事と言えます。

本領は「歴史画」

美人画の名手として名を上げた水野年方ですが、愛弟子の鏑木清方によれば、水野年方の本領は美人画ではなく、本当に描きたい物は別にありました。

浮世絵の系統に育った為めに、(水野年方)先生はとかく美人画家として見られ勝ちだけれど、親炙(しんしゃ)した者から云うとそれは決して正しい見方とは云えない。
(中略)
処女作時代すでに歴史画に発足してから晩年まで、肉筆にも版画にもそれは終始一貫して少しも変りがなかった。
明治三十年に始めて日本画会の展覧会に「佐藤忠信参館図」を発表されてから、絵画協会と美術協会へ相当大作を続けられたけれど、凡てが歴史画で、美人風俗は僅か二、三作に過ぎなかった。

鏑木清方「こしかたの記」

 

水野年方は、デビュー作から歴史画を描いています。肉筆・版画にかかわらず、明治30年代以降に日本画壇の展覧会で発表した作品もほとんどが歴史画でした。間違いなく、水野年方の本領は歴史画にあります。

歴史画に熱心な先生は、したがって武具、甲冑(かっちゅう)に興味が深く、家名は忘れたが、京橋弥左衛門町か、佐柄木町かの東側に在った武具屋から腹巻だの、籠手(こて)脛当(すねあて)やら買い込まれるのが、参考品とは云え、唯一の道楽でもあったのだろう。
紺屋町の家の蔵と、画室のある二階屋とのつなぎにあたる狭いところには、いろいろ蔵書が収めてあったが、あとのように調法な覆刻本のない時分なので「集古十種」や「貞丈雑記」「軍器考」などが、かなり場を取って積み重ねられていた。

鏑木清方「こしかたの記」

まじめで道楽のない水野年方にとって唯一の趣味が、歴史資料の収集でした。江戸の長きに亘る泰平で実用からは遠ざかっていた武具・甲冑を買い揃え、絵の参考としたのです。歴史画にはひとかたならない熱意を燃やしていたことが窺い知れます。

実際、水野年方は「有職故実」(ゆうそくこじつ:古い時代の儀式や文物についての詳細に調べる学問)についての教えを有職家「松原佐久」(まつばらすけひさ)に乞うています。

また水野年方は画家で有職家の「小堀鞆音」と「歴史風俗画会」を結成しており、歴史に対する知識や情熱は相当の物でした。

日本画壇とのかかわり

岡倉天心らとともに日本画団体を結成

水野年方は、1897年(明治30年)頃より新たな挑戦を始めます。

日本美術の権威・「岡倉天心」(おかくらてんしん)らが設立した「日本美術協会」や、「日本絵画協会」といったアカデミックな日本画家の団体での活動を活発化し、それらの展覧会に自らの作品を出品するようになるのです。

すでに挿絵画家として画壇でも相応の地位を築いていた水野年方が、なぜアカデミックな美術団体に急接近したのかは分かりません。

しかし、鏑木清方の手記によると、水野年方はある時期から、自分の作品を日本画壇の展覧会に出したいという希望を持っていました。展覧会に出した絵は次々に高い評価を受けます。

1898年(明治31年)には「第5回 日本絵画協会展」に「夕暮」「御殿女中」「養老」を出品し、「夕暮」が一等褒状を獲得しました。

1898年(明治31年)、日本画会による第1回の展覧会が開催されました。水野年方は「佐藤忠信参館図」を出品し、「御物」(皇室への献上)の栄誉を得ます。

(明治)三十一年の五月に、末松子爵を会頭とする、日本画会の第一回展覧会があって、先生はその評議に推されたときに、始めて大作を出品された。それは御物に収まっている「佐藤忠信参館図」で、私には御新造さんを喪った先生が、まだ紅顔の少年であった、あとの池田輝方を傍に、この大作に打ち込んでいられた姿を忘れない。先生はかぞえて三十三歳であった。

鏑木清方「こしかたの記」

この作品は、水野年方が妻を亡くしてすぐに描かれたものでした。

歴史画の大作を描く

1895年(明治28年)5月、手狭になった神田紺屋町の生家を引き払い、谷中清水町に移りました。しかしその直後の6月末、夫人がチフスで亡くなったのです。

1892年(明治25年)には師匠の月岡芳年を亡くしていましたが、それから3年のうちに妻も亡くした水野年方。次々と身近な人々の死に直面した水野年方は、自分が本当に描きたかった歴史を題材に取った大作へと挑むようになります。

それらの作品は、日本画の展覧会に出品され、水野年方はたびたび受賞を果たしました。1899年(明治32年)には「第7回 日本絵画協会展」に「平忠度」「小楠公」「李将軍」を出品し、「平忠度」が銅牌を受賞。

1902年(明治35年)には「第12回 日本絵画協会展」に「弥生」「江畔美人」「春の夜」を、第13回に「橘逸勢女」「旅途雨」「少女摘花」「美人聴雨」「横浜遊鶴」を出品し、「橘逸勢女」が銀牌を受賞しました。

もともと歴史画を描きたかったとは言え、水野年方はなぜ浮世絵としてではなく、アカデミックな展覧会に作品を出したのでしょうか。それには浮世絵をめぐる状況がかかわっていたと考えられます。

水野年方は、浮世絵師達が200年以上に亘って向上させてきた技術が衰退しつつある状況で、狩野派や円山派のような伝統的な御用絵師、あるいは東京美術学校(のちの東京藝術大学)出身の画家などに比べ、浮世絵師の立場が低く見られていることを感じていました。

その状況下で、浮世絵師を代表する水野年方が日本画壇に入り込み、評価を得ることの意義は計り知れません。浮世絵や風俗画の地位を向上させ、浮世絵師も日本画壇で腕を競い合うという新たな道を作り出したのです。

水野年方の弟子達

鏑木清方

鏑木清方

鏑木清方

水野年方は多くの弟子を育てました。その筆頭が、本稿でも度々登場した鏑木清方。

師匠の月岡芳年とともに水野年方が挿絵を掲載していた「やまと新聞」の主催・条野採菊の息子であり、水野年方への入門もその縁によるものです。

鏑木清方は、水野年方の指導の詳細なメモを残しています。鏑木清方は1891年(明治24年)13歳のときに入門。住み込みではなく、学校が終わったあとに水野年方のもとに通う形を取りました。水野年方はこのとき26歳。弟子を取るにもずいぶんな若さでした。

教室は、神田東紺屋町の土蔵で行なわれました。左官屋だった亡父の物で、蔵のなかにたくさんあるかまどを縫って2階に上がると、そこに水野年方の画室兼教室があります。

弟子達が絵の練習をする部屋は、水野年方の仕事部屋。それゆえ、大作に取り組む際は教室を休みにするか、弟子の来ない日を選んで作業していました。それほどに狭い部屋で作業と指導をしていたのです。

水野年方の指導はずいぶん優しいものでした。水野年方自身が、月岡芳年の苛烈な指導でずいぶん苦しめられたことの反動かもしれません。

3時になると水野年方の妻、房がおやつを出したり、みんなで雑談をしたりしたという、ほのぼのとした雰囲気が記録されています。鏑木清方は、あれこれ世話を焼いてくれた房にはひとかたならない感謝を抱いており、亡くなったときには大きなショックを受けました。

鏑木清方は、17歳で水野年方の後釜としてやまと新聞の挿絵を任され、そのあとは押しも押されもしない日本を代表する画家に成長していきます。

それでも鏑木清方は、師の水野年方を深く敬愛し続け、その水野年方教室の風習を受け継いで自らの弟子にも教えを施しました。

池田輝方

「池田輝方」(いけだてるかた)は鏑木清方から4年遅れて1895年(明治28年)に水野年方に弟子入り。のちに鏑木清方らと「烏合会」を結成する、優れた画家となる人物です。人物画、風俗画を得意として名を上げました。

水野年方以外に「川合玉堂」(かわいぎょくどう)にも師事した他、女流日本画家「池田蕉園」(いけだしょうえん)の夫でもあります。蕉園との間には婚約をめぐるトラブルがあり、それで自らがゴシップ記事のネタにされ痛い思いをしました。

鏑木清方と同じ築地育ちだった池田輝方の妙な縁を、作家の「薄田泣菫」(すすきだきゅうきん)が書き残しています。池田輝方は、子どもの頃によく通りがかった家の葡萄を盗んで食べていました。

しかしあるとき、家の者に捕まって頬をつねられてしまいます。それを大人になって鏑木清方に話したところ、ほかならぬ鏑木清方の家の葡萄だと発覚したのです。

鏑木清方は「君にならくれてやっても良かったのに」と笑い合ったと言います。

池田(榊原)蕉園

池田蕉園は、さらに6年遅れて1901年(明治34年)、水野年方36歳のときに入門。

池田蕉園は「上村松園」(うえむらしょうえん)のような女流画家になりたいという本人の願いから、水野年方が命名したものです。早くも入門翌年には「桜狩」を発表して画壇デビューを飾ります。

同門の池田輝方と婚約するも、彼が別の女と失踪する事件が起きました。この事件は雑誌記事にもされ世間の注目を浴びます。

しかしそれをバネにしてか、芸術家としての才能を開化させ、憧れの上村松園と並び「東の蕉園、西の松園」と称されるに至りました。

その後、一時は煮え湯を飲まされた池田輝方と結婚。おしどり夫婦として知られるようになりました。

荒井寛方

「荒井寛方」(あらいかんぽう)は、紋所や提灯の絵を描く職人を父に持ち、1899年(明治32年)に水野年方のもとに入門。

当初は歴史画を描いていましたが、大正5年にインドの詩人・タゴールに招かれ、アジャンタ壁画に出会います。こののち、しだいにインド的趣向や仏画を描くようになりました。

法隆寺金堂壁画の修復などにもかかわったことから、仏画において高い評価を得たことが分かります。

水野(市川)秀方

水野秀方(みずのしゅうほう)は、女流浮世絵師。可愛らしい美人画や挿絵が特徴的です。のちに水野年方の妻となり、1908年(明治41年)、水野年方が43歳で亡くなったあとも水野年方一門をまとめ上げ、塾を存続させました。

鏑木清方、伊東深水、川瀬巴水……日本画壇に残る浮世絵師のDNA

水野年方門下からは、他に「小山光方」(こやまみつかた)、「竹田敬方」(たけだけいほう)、「大野静方」(おおのしずかた)といった、多くの画家を輩出。

歌川国芳から月岡芳年へと続いていた浮世絵師の系譜は、明治維新という大変革の時代に直面しましたが、水野年方の地道な努力によってその命脈をつなぎとめました。

そしてその系譜は、浮世絵から日本画・画壇へとつながり、浮世絵師達に新たな活躍の場を与えたのです。

水野年方は43歳の若さでこの世を去りましたが、池田輝方・池田蕉園・荒井寛方など、多くの弟子を育てました。

その熱意は愛弟子・鏑木清方に伝わり、そこからさらに「伊東深水」(いとうしんすい)、「川瀬巴水」(かわせはすい)が登場。近代日本美術に多大な影響を与える一大勢力へと成長するのです。

それは、江戸時代のはじめに現れた浮世絵がたどり着いた最後の到達点でした。大和絵師を自認した「菱川師宣」の活躍により登場した浮世絵が、水野年方によって再びその本流である日本画の流れと合流したとも言えます。

長い年月のなかで浮世絵が培ってきた技術は、舶来の西洋芸術とともに、日本画壇に刺激と活力をもたらしたのです。

水野年方は、師の月岡芳年のように浮世絵師として浮世絵の世界に生き、死ぬことは叶いませんでした。

しかし彼は浮世絵師として日本画の世界に生き、画家・芸術家という新しい評価を得て死んでいったのです。

水野年方

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