浮世絵師一覧

落合芳幾
 - 刀剣ワールド/浮世絵

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「英名二十八衆句」を弟弟子の月岡芳年とともに作り上げたことで知られる落合芳幾は、活躍の場を浮世絵だけにとどめなかったスケールの大きい浮世絵師です。「毎日新聞」の前身となる「東京日日新聞」の創業や歌舞伎雑誌の創刊など、浮世絵や挿絵のスキルをもとに様々な挑戦をした、落合芳幾の波乱万丈の生涯や幅広いジャンルの作品をご紹介します。

落合芳幾の生涯

落合芳幾

落合芳幾

「落合芳幾」(おちあいよしいく)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。浮世絵師としてのデビューは遅咲きであったものの、同じ「歌川国芳」(うたがわくによし)門下生の「月岡芳年」(つきおかよしとし)と双璧を成すほどの実力をもつ浮世絵師でした。

また、浮世絵師としての活躍の場を多方に広げただけでなく、事業家としての一面も持つマルチな才能を発揮した人物でもあります。落合芳幾は歌川を名乗ってはいませんが、有名浮世絵師の歌川国芳の門下生です。

しかし当時の活躍度合いに比べれば、今日の落合芳幾の知名度は低く止まります。というのも、同時期に活躍した月岡芳年や「小林清親」(こばやしきよちか)、「河鍋暁斎」(かわなべぎょうさい)らの陰に隠れてしまっているからです。

存命中も、活動後期からは注目を集めることはありませんでした。

生まれ、幼少期等

落合芳幾、本名「落合幾次郎」(おちあいいくじろう)は、1833年(天保4年)4月、吉原遊郭近くの浅草田町にある引手茶屋の息子として生まれたとされています。引手茶屋とは、遊郭に入る客が顔を隠すために使用する編笠の貸し出しを行う茶屋のこと。

絵や芸術に携わる家の生まれではなく、幼少期から質屋へ奉公に出されていました。しかし、幼い頃から好んで絵を描いてもいました。とりわけ近所に歌川国芳の門下である絵師「歌川芳兼」(うたがわよしかね)の息子であり、のちの彫刻家「竹内久一」(たけうち/たけのうちきゅういち/ひさかず)とよく遊んでいました。

この縁により、歌川芳兼が実際に浮世絵を描いている姿を間近に見ていたとされています。

歌川派、歌川国芳との出会い

転機が訪れたのは1849年(嘉永2年)頃。17~18歳で実家に戻っていた落合芳幾に、幼い頃からの知り合いであった絵師の歌川芳兼が声をかけます。歌川芳兼が自らの師匠である歌川国芳を紹介し、落合芳幾は歌川国芳の門下に入ることとなったのです。

これを機に落合芳幾の強い思いが両親に認められ、念願だった浮世絵師になることが許されました。歌川派に入門して以降、落合芳幾は画姓を「一蕙斎」(いっけいさい)、「蕙斎」(けいさい)、「朝霞楼」(ちょうかろう)、「洒落斎」(しゃらくさい)などと称します。

「一○斎」の画姓は、歌川一門の伝統でもあります。例えば師匠の歌川国芳は「一勇斎」(いちゆうさい)を名乗りました。落合芳幾の入門から1年後、のちにライバルとなる月岡芳年も歌川国芳のもとに入門。このとき月岡芳年は12歳と若く、落合芳幾とは、およそ6歳も年齢が開いています。

入門時期自体はわずか1年しか違わないことから、互いに競い合いながら成長を重ねる関係が早くも始まりました。2人のライバル関係は月岡芳年の晩年まで長い間に及ぶため、落合芳幾について語る際には欠かせない関係です。

挿絵師としての活動

1857年(安政4年)頃には、落合芳幾は浮世絵だけでなく「合巻」(ごうかん)の挿絵も手掛けるようになります。合巻とは、当時の一般的な書籍の装丁で、1冊でひとつの物語を楽しめるようにした小冊子のような物です。こうした挿絵の活動が、のちの幅広い活躍の下地となっていきました。

しかし、挿絵での活動が多くなったことで、浮世絵師というよりは挿絵師と目されるようにもなります。当時を振り返って、作家の「淡島寒月」(あわしまかんげつ)は「芳幾は錦絵としては出さずに、[安愚楽鍋]、[西洋道中膝栗毛]なぞの挿絵で評判だった」と記しました。他の浮世絵師が錦絵について言及される中で、特殊な認識を受けていることが分かります。

西洋道中膝栗毛 (国立国会図書館ウェブサイトより)

西洋道中膝栗毛 (国立国会図書館ウェブサイトより)

師匠歌川国芳死去、幕末の浮世絵第一人者のひとりとなる

落合芳幾が29歳となった1861年(文久元年)、師匠である歌川国芳が他界。このとき彼は、歌川国芳の「死に絵」を手掛けています。自らの師匠の死に絵を手掛けることは、一門の中で認められた者の証でもありました。

歌川国芳が亡くなって以降、知己が多く才能に溢れた落合芳幾の本格的な活躍期が始まりました。落合芳幾が描いた浮世絵ジャンルは幅広く、その技量も高く評価されています。

人気絶頂期に描いた浮世絵は、主に「遊女屋風俗」や、文明開化真っただ中の横浜を舞台とした「横浜絵」と呼ばれる浮世絵の一種に加え、「美人画」、「戯画」、「源氏絵」、「役者絵」など、幅広い作風の浮世絵を手掛けました。

特に、弟弟子の月岡芳年と組んで1866年(慶応2年)に制作した「英名二十八衆句」(えいめいにじゅうはっしゅく)という「無残絵」28枚シリーズは、無残絵の代表作であり、傑作と評価されています。師匠の歌川国芳の無残絵を踏襲したこの作品は、民衆の心を掴み、発行後から瞬く間に大人気作品となったのです。

東京日日新聞・歌舞伎雑誌の創刊にかかわり挿絵を担当

東京日日新聞(国立国会図書館ウェブサイトより)

「東京日日新聞」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

1872年(明治5年)、落合芳幾は記事の挿絵を錦絵にした「東京日日新聞」(とうきょうにちにちしんぶん)の発起人となりました。発起人のひとりということもあり、挿絵を提供するだけでなく自ら出資を行うなど事業家としての一面も覗かせたのです。

また、翌々年の1874年(明治7年)には浮世絵師としての経験を活かし、東京日日新聞の錦絵版「東京日日新聞大錦」(とうきょうにちにちしんぶんおおにしき)を発行。「新聞錦絵」という新たなジャンルの先駆者となるのです。

ライバルの月岡芳年をはじめとする浮世絵師達が、彼のあとを追いこぞって新聞錦絵の世界に足を踏み入れていくことになりました。

さらに1879年創刊の歌舞伎雑誌「歌舞伎新報」(かぶきしんぽう)の発行にも関与。歌舞伎俳優の特徴をとらえた「似顔絵」を挿絵として描き大ヒットとなりました。

落合芳幾は歌舞伎新報の創刊から廃刊に至る18年の間、表紙や挿絵のほとんどを描いています。東京日日新聞の錦絵を手掛けて以降、他の媒体でほとんど錦絵を描くことがなかったため、新聞は落合芳幾の錦絵における活躍の代表的な媒体となりました。

隠居後、人形制作を営むも失敗

新聞錦絵で大きな富を得た落合芳幾ですが、その晩年は時流に逆らえず惨めなものとなります。新聞錦絵の全盛期に蓄財に励んだ彼は、レンガ造りの3階建ての立派な家を借り、再婚した妻、息子、娘夫婦と共に生活していました。

しかし頼みにしていた新聞錦絵のブームも短い期間で衰退してしまいました。転落の端緒となったのは、彼が発起人となった「東京絵入新聞」(とうきょうえいりしんぶん)が1890年(明治23年)に終刊を迎えたことです。これを機に新聞錦絵の衰退が本格化。

新聞錦絵が衰退してからは、落合芳幾は事業家経験を活かして様々な事業を試みました。その代表格が、美術人形制作の店舗経営です。浅草の仲見世で美術人形制作の店舗を開きましたが、経営は上手くいかず失敗に終わります。

美術人形制作以外にも様々な事業を展開し、なかには画業とは無縁なパン屋の経営も含まれていました。手を尽くして生計を立てようとした落合芳幾ですが、事業はどれも失敗に終わり多額の借金が残りました。

事業に失敗しても諦めなかった彼は、1890年(明治23年)再び錦絵を描き始めます。しかし、彼の作風には新しい時代に必要だった目新しさが欠けており、これも失敗に終わってしまったのです。落合芳幾の窮地を救おうと、彼の親しい友人達が「先師歌川国芳の四十回忌及び追善書画会」を提案します。

落合芳幾はこれを主催して成功させるも、収入を得たことがかえって裏目に出てしまい、借金取りに追われることとなってしまいました。最終的に一家離散ののち、夜逃げの憂き目に追い込まれます。結果として落合芳幾は向島の長命寺付近のあばら家に住むこととなりました。

困窮の末に耄碌も重なった落合芳幾は、1904年(明治37年)に72歳であばら家に没することになります。

英名二十八衆句

落合芳幾の代表作は、弟弟子の月岡芳年と組んで1866年(慶応2年)に制作された、英名二十八衆句です。無残絵と呼ばれるジャンルの浮世絵が28枚で構成された揃物。無残絵とは、江戸時代末期から明治時代にかけて描かれた浮世絵のジャンルを指します。

無残絵の中心的なテーマは、歌舞伎や講談などの芝居の劇中で起こる「殺し」の場面。まるで本当に血がしたたり落ちるようなおどろおどろしい表現方法から、「血みどろ絵」とも呼ばれます。

落合芳幾と月岡芳年の師である歌川国芳も無残絵の揃物を描いており、その有力な弟子である2人の競作となった英名二十八衆句にもその特徴が残されていますが、師の歌川国芳よりも表現を過激にしているのが特徴です。歌川国芳は直接的な殺しの場面を描くことより、そうした凄惨な場面を思わせる表情や凶器を含む構図を好みました。

その弟子である2人が手掛けた英名二十八衆句において、無残絵は血みどろ絵へと昇華されたのです。目を背けたくなるほどの凄惨な場面を描いた作品達は、今日でもグロテスクな絵画作品の金字塔として高く評価され続けています。この強烈なインパクトは当時から高い人気を集め、落合芳幾の名前を一躍世に知らしめることとなりました。

原点となった安政の大地震での無残絵

落合芳幾による無残絵の原点となったのは、彼の妻と子が一度に亡くなった「安政の大地震」です。1855年(安政2年)10月2日に発生した「安政の大地震」は、記録などからマグニチュード7.0~7.1の大地震と推測されます。

震源は江戸の直下であり、規模としても1995年(平成7年)1月17日に発生した直下型地震「阪神淡路大震災」のマグニチュード7.3とほぼ同じです。現代社会でも大規模な被害をもたらす大地震ですが、建物も脆弱な江戸での被害は甚大なものでした。

2018年に整理された資料「内閣府防災情報」における「安政江戸地震」によると、「安政の大地震」による死者は武士や町人とも合わせて7,000人以上を数えます。火災も30ヵ所以上で発生し、江戸幕府公認の遊郭がある新吉原(現在の台東区)の周辺だけでも1,000人以上が亡くなりました。落合芳幾はデビューの翌年にこの大災害に見舞われました。

身重にもかかわらず家業の編笠茶屋を手伝っていた落合芳幾の妻は、そこでのお客を新吉原に送った際、地震で倒壊した建物の中で亡くなったとされています。大きな喪失に見舞われた落合芳幾ですが、崩壊した江戸の只中でも彼の絵師魂は燃え尽きませんでした。

地震の惨状を写生し、すぐに3枚続きの錦絵に仕上げたのです。この錦絵が世間の反響を呼び、彼を有名絵師へとのし上げていきます。

その作品は現存が確認されていませんが、作者不詳の「安政二稔十月二日夜亥剋大地震焼失市中騒動図」がそれではないかと推測されています。

ユーモラスな作品達

落合芳幾が他の浮世絵師と異なるのは、「文明開化」や「開国」をテーマにした浮世絵作品を手掛けていた点にもあります。師匠の歌川国芳の作風を引き継いだ「擬人法」を用いた作風など、落合芳幾はユーモアあふれる作品を多数残しています。

題材としての文明開化

落合芳幾が絵師として活動した期間は、1854~1889年(安政初期~明治22年)頃。これは1853年(嘉永6年)ペリー来航によって「鎖国」が終わりを告げ、異国の文化が日本に入ってきた激動の時代と重なっています。移ろいゆく時勢を描く浮世絵の世界にあって、異文化の受容と共に変わりゆく町並みも好んでモチーフとされました。

最初期に異国人居留地として解放された横浜を題材にして、文明開化や開国を描いた錦絵を横浜絵と呼びます。落合芳幾も横浜絵を描いた浮世絵師のひとりです。

横浜に現れた異国文化は、それまでの画法が通じない挑戦的な主題であり、浮世絵の新たな分野となりました。彼はペリーの日本来航後、横浜の外国人居留地や異国情緒あふれる町並みの錦絵を好んで描いています。

その中でも代表的な作品は1861年(文久元年)に発表された3枚つづりの横浜絵の大作「亜米利加国大船之図 其余五箇国大船之写生遠景」です。

落合芳幾「亜米利加国大船之図 其余五箇国大船之写生遠景」国立国会図書館Webサイトより

落合芳幾「亜米利加国大船之図 其余五箇国大船之写生遠景」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

時代の転換期を描いたこの作品では、江戸から改められた「東京」という地名を早くも用いています。しかしその作風は江戸期と変わりないのが特徴です。

一方、ライバル関係にあった月岡芳年は積極的に西洋絵画の技法を取り入れていました。浮世絵の伝統的な手法にしたがって横浜絵を描くという落合芳幾の方針は、のちに彼を追い込むこととなってしまいます。

影絵や擬人法などの奇抜なアイデア

ただし、落合芳幾の画風が陳腐なものだったわけではありません。師匠の歌川国芳の影響か、落合芳幾の作品には奇抜なアイデアが光っています。

海外の絵画表現を取り入れたり、影絵や動物の擬人化を試みたりするなど、遊び心溢れる作品も個性のひとつです。とりわけ「影絵」は落合芳幾の代名詞とも言えます。代表的な影絵作品が、当時の人気歌舞伎役者の横顔を影絵で描いた「真写月華之姿絵」(まことのつきはなのすがたえ)という全38枚の揃物です。

このシリーズが発刊された当時、落合芳幾は浮世絵師としての全盛期に入っていました。この時期に作成した浮世絵は同様の手法を用いた作品が多いのも特徴です。

影絵のような遊び心のある構図の他にも、ユーモラスな着眼点でも観る者を楽しませてくれます。そうした作品の代表として挙げられるのが、女湯の光景を描いた浮世絵「時世粧年中行事之内 競細腰雪柳風呂」(いまようねんちゅうぎょうじのうち くらべこしゆきのやなぎゆ)です。

その大部分で入浴シーンが美しくも艶やかに描かれていますが、左端では全く異なる光景が描かれています。そこには女性同士が裸で桶を振りかざして激しく喧嘩する姿がユーモアたっぷりに描かれているのです。

また、落合芳幾の特徴として、師匠である歌川国芳の手法を受け継いだ「戯画」(ぎが)もそのひとつに挙げることができます。戯画の代表作「見立似たかきん魚」(みたてにたかきんぎょ)は、魚の顔を人間の顔に置き換えたインパクトの強い作品です。人面魚は今日でも目にすることのあるモチーフですが、江戸時代には流行のモチーフでした。

しかし落合芳幾の描いた人面魚は、ただの人面魚ではありません。魚の顔は当時の人気歌舞伎役者で、身体の模様としてそれぞれ歌舞伎役者の紋があしらわれています。

落合芳幾がこのような擬人絵を描いたのも、やはり師匠である歌川国芳の影響あってのことです。歌川国芳の活躍した天保期は、当時の老中「水野忠邦」(みずのただくに)が行った天保の改革の一環であった出版統制令による文化の厳しい統制がありました。

しかし歌川国芳は厳しい統制にも屈せず、カムフラージュや画題を変えた暗喩的な表現を駆使して作品を発表し続けます。このときに利用された手法のひとつが戯画に他なりません。

浮世絵界を超えた活躍

落合芳幾の活躍の場は、浮世絵だけに止まりません。作画期の後半である明治期は、浮世絵師としての活躍の場を大衆新聞にまで広げます。

欧米の先進的な文化が流入し始める江戸末期から明治期には、文明開化が巻き起こります。その波は浮世絵界にも押し寄せ、浮世絵にとって代わって「写真」が使われ始めました。

この結果、浮世絵師の仕事はどんどん減っていき、衰退の一途をたどることになります。落合芳幾もまた、他の浮世絵師達と同様、迫りくる浮世絵師の仕事の激減に対処しなければなりませんでした。

そうした状況下で、「新聞社を立ち上げ、新聞の挿絵を錦絵として描く」という活動方法を開拓。この方法は職を失いつつあった浮世絵師達に新たな道を開き、多くの追随者を生み出しました。同じ歌川国芳門下だけでも弟弟子の月岡芳年をはじめ、「歌川芳虎」(うたがわよしとら)、「歌川芳富」(うたがわよしとみ)が新聞浮世絵に活躍の場を移します。

他にも「豊原国周」(とよはらくにちか)、「小林永濯」(こばやしえいたく)、「三代目歌川国定」(さんだいめ うたがわくにさだ)、「三島蕉窓」(みしましょうそう)などが活躍した他、月岡芳年の門下から「山崎年信」(やまざきとしのぶ)、「水野年方」(みずのとしかた)が、新聞浮世絵を継ぎました。

東京日日新聞の発起人

「東京日々新聞 八百三十三号」国立国会図書館Webサイトより

「東京日々新聞 八百三十三号」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

1872年(明治5年)、落合芳幾はジャーナリストで実業家など幅広く活躍していた「条野採菊」(じょうのさいぎく)、「西田伝助」(にしだでんすけ)と共に東京日日新聞の発起人となります。

明治初期に東京で発行された「新聞」は東京土産として大流行。しかし、私達の考える新聞と「当時の新聞」には大きな差がありました。

当時の新聞は知識人や富裕層向けとして発刊され、挿絵もなければ振り仮名もありません。そもそもほとんどの人は平仮名しか読むことができなかったため、新聞が一般大衆に読まれるためには多くの課題が残されていました。

そこに目を付け、落合芳幾達はさらに人気を得る手法を編み出します。すでに親しまれてきた錦絵をコンテンツの中心に据え、絵の余白に記事を書き込むという方法です。

一般大衆をターゲットにしていたことから、平易な言葉遣いを用いることはもちろん、大衆が親しんできた戯作調の言い回しもしばしば用いられました。課題とされた可読性についても、漢字にも読み仮名を振ることで誰でも理解できる物に仕上げられています。こうして生まれたのが東京日日新聞大錦です。

それはもはや新聞というよりは錦絵であり、江戸で長らく親しまれてきた浮世絵の主題が、世を賑わす事件報道に切り替わった物でもありました。新たな媒体でありながら慣れ親しんだ形態でもあった東京日日新聞大錦は、狙い通り大衆に広く受け入れられます。

こうして「錦絵新聞」という新しいジャンルが定着。波に乗った落合芳幾は、1875年(明治8年)自らが発起人となって「平仮名絵入新聞」(ひらがなえいりしんぶん)を創刊し、挿絵画家へと転向します。東京日日新聞大錦は東京日日新聞の記事を再録する形を取っていましたが、平仮名絵入新聞は日本で初めて単独の錦絵新聞として発行されました。

錦絵新聞の性質は、今日の新聞とはやや異なります。単なる事件報道を目的にした新聞とは異なり、刺激的な事件に血みどろ絵を添えることで大衆の耳目を集めることが目的となっていました。その点で今日の分類で言えば、新聞と言うより週刊誌に近い物だったのです。

記事にちなんだ挿絵を毎号掲載した平仮名絵入新聞は人気を博し、翌年1876年(明治9年)には「東京絵入新聞」と題名を変え、1890年(明治23年)まで発刊され続けました。

歌舞伎雑誌の創刊

落合芳幾の新たな挑戦は、新聞錦絵にとどまりませんでした。1879年(明治12年)2月3日には、歌舞伎作者などで活躍していた「久保田彦作」(くぼたひこさく)と「3代目鳥居清満」(とりいきよみつ)と共に、雑誌歌舞伎新報の創刊に携わります。

落合芳幾は歌舞伎新報の表紙、挿絵、口絵を担当しました。雑誌歌舞伎新報は歌舞伎界からの期待を集めます。当時雑誌は新しい媒体であり、伝統の歌舞伎を主軸にした雑誌の発刊は注目に値するものでした。

発刊に際して「五代目尾上菊五郎」(おのえきくごろう)、「市川左団次」(いちかわさだんじ)、「九代目市川團十郎」(いちかわだんじゅうろう)など6名の当時を代表する有名歌舞伎役者から祝辞が寄せられました。その期待に沿うかたちで歌舞伎新報は高い人気を得ます。当初は毎月3号の刊行予定でしたが、人気に応えて毎月5号、毎月10号と刊行数を増やしていきました。

落合芳幾自身が初めて歌舞伎新報の表紙を担当したのは1879年(明治12年)12月に刊行された「歌舞伎新報 第49号」です。以降の18年間で、彼の挿絵を含む号は1,191冊にのぼり、歌舞伎新報全1,576冊のうちの75%に達します。

落合芳幾の描いた歌舞伎役者の錦絵は、俳優の特徴を見事にとらえていることで高評価を得ました。「役者絵」ではファン心理を満たすために、役者を美化させて描くという特徴があります。当然、彼の描く歌舞伎役者も美化されてはいますが、役者の顔の特徴を捉えながら上手く役者絵に落とし込んでいるのです。

月岡芳年とのライバル関係

落合芳幾を語る上で欠かせないのは、同時期に歌川国芳の門下生になった弟弟子、月岡芳年の存在です。落合芳幾が歌川国芳の門下生となったのは、1849年(嘉永2年)頃、17歳のとき。この入門時の年齢はかなり遅いもので、翌年に入門した月岡芳年は11歳で入門しています。

入門が許された年齢が6歳も離れているのは、落合芳幾にしてみれば歯痒いこと。元服後も労苦を重ねてようやく入門を果たした彼に対し、弟弟子は少年のうちに入門して訓練を重ね、頭角を現していきます。そうした姿が身近にあって、ライバル意識を抱かないのは難しいことでした。

月岡芳年

月岡芳年

一方、月岡芳年の側でも、落合芳幾を強く意識していました。特に師匠・歌川国芳の死後、同門の2人はしばしば比較される存在となります。

自らの画才に自信を持っていた月岡芳年にとって、人気を二分する兄弟子の存在は面白いものではありません。

こうした2人の長年にわたる関係を決定付ける事件があります。

師匠である国芳の葬儀で月岡芳年を足蹴に

2人の師匠である歌川国芳が、1861年(文久元年)に息を引き取ります。現在でも著名人の死はマスメディアが報じますが、江戸時代の後期にその役目を担ったのは他ならぬ浮世絵です。

「死に絵」と呼ばれる物で、人気だった歌舞伎役者や浮世絵師などが亡くなった際に、故人の似顔絵とともに命日と戒名(法名)、墓所、そして辞世の句を添えて、浮世絵版画として発行していました。もちろん、当時人気の浮世絵師でもあった歌川国芳の「死に絵」も描かれます。

そしてその大役を担ったのは落合芳幾でした。自らの師匠の「死に絵」を描くことは、浮世絵師にとってこの上ない名誉であり、一門の中でその実力が認められている証拠となります。実際、落合芳幾は最も実力を認められた弟子でした。

しかし一目置かれる弟子であったからこそ、葬儀の一幕で起こった小さな争いが大きな禍根を残すことになってしまいます。葬儀の際、月岡芳年が人の行き来のある場所に座っていたため、それを邪魔に思った落合芳幾が「どけ!」と言わんばかりに月岡芳年を足蹴にしたと言われています。

この些細な衝突は、人気を二分する2人の名誉にかかわる対立を引き起こしました。とりわけ月岡芳年は、このぞんざいな扱いを深く根に持ち、後年まで落合芳幾の活躍に水を差し続けたのです。

明治期に新聞で蓄財する落合芳幾を月岡芳年が批判

明治期に入っても、落合芳幾と月岡芳年は新聞錦絵という新ジャンルに舞台を移して互いの力量を競っていました。しかし、月岡芳年は新聞挿絵として活躍する落合芳幾を良くは思っていませんでした。

月岡芳年は落合芳幾について「江戸っ子の出来損ひが金をため」という言葉を残しています。もとより豪快で金遣いの荒かった月岡芳年にしてみれば、落合芳幾が新聞挿絵で蓄財に励む様は鼻につきます。画業が充実する一方で、床板を切り取って薪にするほど困窮することもあった月岡芳年の、僻みと恨みが滲む言葉です。

しかし、落合芳幾の方では根深い恨みを持っているわけでもありませんでした。1892年(明治25年)に月岡芳年が若くして亡くなった際、落合芳幾は髪を剃った姿で月岡芳年の家を訪問し、遺族にお悔やみの言葉を伝えたという話が残っています。

生前に痛烈な批判をしていたことは当然耳に入っていたことでしょう。それでもライバルの月岡芳年へ逆恨みを向けることもなく、弟弟子として敬意を払い続けていたのです。落合芳幾の人柄を語る資料が少ない中、このエピソードは落合芳幾のお人よしな性格を感じさせてくれます。

落合芳幾の功績

こうした人間性と活躍にもかかわらず、落合芳幾の名は今日広く知られてはいません。月岡芳年が時に「最後の浮世絵師」として語られることとは対照的です。

月岡芳年も新聞をはじめ画壇など多岐にわたる活躍を見せましたが、それでも浮世絵として売ることを辞めはしませんでした。それゆえ月岡芳年の水脈は水野年方、その弟子の「鏑木清方」(かぶらぎきよかた)、さらにその弟子の「伊東深水」(いとうしんすい)へと連なって日本画壇を彩り、浮世絵師達の新たな活躍の場を作り上げたのです。

しかし落合芳幾は活躍の場を浮世絵から新聞へ転向し、挿絵の世界で活動することを選んでいます。この転向は、浮世絵師としての落合芳幾の存在を世間から忘れさせるに至ります。とは言え、このことは落合芳幾を軽んじる理由にはなりません。

彼の功績はむしろ浮世絵と異なるところにあります。新聞や雑誌といった今日でも親しまれているメディアの嚆矢となり、浮世絵師達に新たな活躍の場を築いたことこそ、落合芳幾の功績に他なりません。

落合芳幾

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歌川芳虎

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東洲斎写楽

東洲斎写楽
江戸中期に彗星のごとく現れた浮世絵師、「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)。活動期間はわずか10ヵ月あまりながらも145点もの作品を生み出し、その後忽然と姿を消した謎多き人物。独特のデフォルメを用いた役者絵は世界中で高い評価を受けており、大正時代にはドイツの美術研究家ユリウス・クルトが「レンブラント、ベラスケスと並び東洲斎写楽を世界三大肖像画家と紹介した」とも言われたのです。今もなお謎が多い東洲斎写楽の人生や魅力ある役者絵等をご紹介します。

東洲斎写楽