浮世絵師一覧

鳥居清信

文字サイズ

江戸歌舞伎の見せ場、豪傑の強さを見せるための荒々しい演技「荒事」は江戸歌舞伎の象徴とされます。しかし、映像のなかった時代にその様子を表現する手段は絵画しかありません。芝居絵の名家鳥居派の祖「鳥居清信」が描いたとされる芝居絵「市川団十郎」は、江戸歌舞伎の荒事の猛々しさが見事に表現された作品です。
歌舞伎などを題材にして江戸歌舞伎の魅力を今に伝える芝居絵「鳥居派」の祖、鳥居清信の芝居を愛した人生と歴史的にも価値がある作品たちをご紹介します。

鳥居清信の生涯

「歌舞伎」と「浮世絵」を結び付けた男

鳥居清信

鳥居清信

「浮世絵」と切っても切れない関係にあるのが「歌舞伎」。両者が密接な関係を築くきっかけとなったのが、「鳥居清信」(とりいきよのぶ)を祖とする「鳥居派」の「浮世絵師」達です。

彼らは歌舞伎の世界と密接な関係を持ち、歌舞伎について深い専門知識を持っていました。

そのため芝居小屋に掲げられる絵看板や番付絵を描く、いわば「専属絵師」の座を長期間に亘って独占していたのです。その関係は江戸時代中期(18世紀初頭)から、明治、大正、昭和、平成と続き、令和の現在にまで続いています。

では、その歌舞伎と浮世絵との関係をつくった鳥居派の創始者、鳥居清信とはどのような絵師だったのでしょうか。その生涯とその作品について迫ってみましょう。

まず「役者・絵師」父・鳥居清元ありき

鳥居派の祖・鳥居清信は1664年(寛文4年)、大坂で生まれました。俗名は庄兵衛。署名も初期には「鳥居庄兵衛」、「絵師鳥居庄兵衛」、「大和鳥居庄兵衛」と俗名が用いられ、のちに「清信」と号して「和画工鳥居庄兵衛清信」などと記すようになりました。

「大和」や「和画」といった言葉が入るように、鳥居清信の活動時代が浮世絵の黎明期だったことを窺わせます。江戸中期当時は、「浮世絵の祖」と呼ばれた「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)がのちに浮世絵と呼ばれることになったジャンルを切り拓いたばかりの時代です。それゆえ浮世絵という言葉もそれほど定着しておらず、当の絵師達も伝統ある「大和絵」の流れに属していると自認していました。

「鳥居派の祖」と言われる鳥居清信の生涯を辿る前に、紹介しておかなければならない人物がいます。それは、「役者」であり絵師でもあった鳥居清信の父親、「鳥居清元」(とりいきよもと)です。鳥居清元は、俗名を庄七と言い、「小旦」(しょうたん)の名で上方歌舞伎の若女形の役者をしていましたが、大成せず、志半ばで役者の道を諦めました。

普通なら、鳥居清元はそのまま歌舞伎の世界から去ったことでしょう。しかし、彼が持っていたある類まれな才能が、彼を歌舞伎界に引き止めることになります。それが「絵を描く」という才能でした。役者の夢をあきらめた鳥居清元でしたが、「絵」の才能を認められたために、絵師として歌舞伎の世界に残ることになります。そして劇場の「看板絵」や「番付絵」などを描く絵師となったのです。

歌舞伎座の看板絵

歌舞伎座の看板絵

看板絵とは、芝居小屋に掲げられる看板に描かれた絵で、大きく2種類がありました。

ひとつは演目となる芝居の名場面を切り取った絵。もうひとつは出演する役者の名前とともに描かれる役者の絵姿です。当初は紙に描いた物を木の看板に貼り付けていましたが、時代が進むにつれ看板に直接描かれるようになりました。

一方番付絵というのは、芝居の日取りや上演される演目・出演者名などを記載した物で、いわばパンフレットやポスターのような宣伝物用の刷り物のことです。

鳥居清元は、歌舞伎役者の夢を諦め、「絵」の世界に活路を見出します。結果として看板絵と番付絵は鳥居家の家業となり、浮世絵界の名門のひとつへと成長することになりました。現代まで代々受け継がれる鳥居派の始まりは鳥居清元の才能と決断によるものだったのです。

こうして生まれた鳥居派は歌舞伎界と浮世絵界双方の発展にとっても、非常に大きな存在となっていきます。

はじめ、鳥居清元は大坂の道頓堀にあった劇場で看板絵を描く仕事に就きましたが、1687年(貞享4年)、一家で大坂から江戸に移住。父・鳥居清元は、当時23歳の息子・鳥居清信の中に、自分を凌ぐ才能があることを見抜いており、その才能を活かす舞台として、発展著しい新興の大都会・江戸を選んだとされています。

これも、鳥居清元の優れた決断のひとつに数えられます。この鳥居清元の決断がなければ、歌舞伎界と浮世絵界の堅い関係を結ぶことはなく、鳥居派がその名を轟かせることもなかったということです。

菱川師宣など、日本を代表する有名な浮世絵師達をご紹介します。

父・鳥居清元が歌舞伎界の専属絵師に

江戸に移り住んだ鳥居清元の一家は、近隣に芝居小屋の多い難波町(なにわちょう、現在の中央区日本橋人形町)に居を定めます。

江戸入りから3年後の1690年(元禄3年)、45歳の鳥居清元は「市村座」の看板絵を描き、好評を得ました。もともと江戸の劇場には看板がなく、新たに鳥居清元が描いた役者絵の看板を設置したために、大評判を得たとの説もあります。

市村座は、当時「江戸三座」と呼ばれた江戸の三大劇場のひとつで、葺屋町(ふきやちょう:現在の中央区日本橋堀留町、人形町界隈)にありました。大劇場での名声を得たことで、鳥居清元は歌舞伎の興行主から重宝され、他の劇場でも看板絵を任せられるようになります。こうして江戸歌舞伎の看板絵師として地歩を確立します。

鳥居清元が重宝された背景には、彼がもともと歌舞伎役者だったという経歴がかかわっていました。鳥居清元が歌舞伎界の「しきたり」に通じていたのはもちろんですが、それ以上にその知識が重要な役割を果たします。

演目の内容、筋書きや登場人物の詳細はもちろんのこと、名場面や名ゼリフ、衣装や舞台装置、演出などを熟知していたため、要領を得た看板絵や番付絵を描くことができたのです。

鳥居清元は、1702年(元禄15年)4月に58歳で没するまでに、江戸歌舞伎の看板絵などを描き続けました。しかし、残念ながら看板絵という性質上、鳥居清元の作品は後世にあまり残っていません。その仕事は、息子の鳥居清信やそれに続く鳥居派と呼ばれる子孫の絵師達に引き継がれるという形で現代に残されているのです。

浮世絵師としての鳥居派は、鳥居清元の子である鳥居清信を始祖とするのが一般的。鳥居家でも、鳥居清元を別格、鳥居清信を初代として当代の「鳥居清光」(とりいきよみつ)氏を9代目と数えています。歌舞伎に精通した専属絵師鳥居派の原型はこうして誕生したのでした。

鳥居清信、「看板絵師」から浮世絵師へ

1687年(貞享4年)、鳥居清信が住み慣れた大坂から江戸難波町に父と共に移住したのは23歳のとき。父・鳥居清元は、歌舞伎の知識と絵師としての技術を息子に伝授し、「歌舞伎絵師」として家業を継がせるために教育しました。

この英才教育が功を奏したのか、鳥居清信は父の鳥居清元を超える才能を発揮。のちの研究者は鳥居清信を「父清元にまさり出藍のほまれあり」と評価しています。

他に鳥居清信の師と目される人物として、「鳥居清高」(とりいきよたか)なる絵師の名を挙げる書物([風流鏡ヶ池])もありますが、この人物については、ほとんど記録が残っておらず詳しく分かっていません。

また、幼少期に京都で浮世絵師の大御所「吉田半兵衛」(よしだはんべえ)に絵を学んだという説もありますが、詳細は不明です。若き鳥居清信は父の仕事を手伝い、芝居小屋に出入りをしながら、歌舞伎業界の「内側」へと入っていきます。やがて父と同じく芝居小屋の看板絵や番付を描く職に就きました。

鳥居清信「仮名草子/本朝二十四孝」1697年(元禄10年)(国立国会図書館Webサイトより)

鳥居清信「仮名草子/本朝二十四孝」1697年(元禄10年)
(国立国会図書館ウェブサイトより)

そのまま活動していれば、彼は父・鳥居清元と同様に看板絵師として一生を終えたことでしょう。ところが、江戸入りから10年近く経った頃から、鳥居清信は家業である看板絵や番付絵以外の仕事を引き受け始めます。

当時江戸で活発になっていた出版文化の潮流に乗りながら、本の挿絵や美人画などの仕事を始めました。

この結果、その業績が看板絵に限られなくなり、浮世絵師と呼ばれるようになるのです。

鳥居清信「風流四方屏風」1700年(元禄13年)(国立国会図書館Webサイトより)

鳥居清信「風流四方屏風」1700年
(元禄13年)
(国立国会図書館ウェブサイトより)

1697年(元禄10年)刊の仮名草子「本朝二十四孝」は、判明している鳥居清信の最初期の仕事。浄瑠璃や歌舞伎の演目として有名な本朝二十四考の挿絵を描いています。

本朝二十四考は武田信玄と上杉謙信の両家の対立を描く物語。仮名草子、あるいは絵入り狂言本とも呼ばれる、庶民に向けた娯楽読み物でした。同じ1697年(元禄10年)には浮世草子「好色大福帳」、「好色松はやし」の挿絵も描いています。

1700年(元禄13年)には当時の歌舞伎役者達の姿を集成した絵本「風流四方屏風」を刊行。

鳥居清信「娼妓画牒」1700年(元禄13年)(国立国会図書館Webサイトより)

鳥居清信「娼妓画牒」
1700年(元禄13年)
(国立国会図書館ウェブサイトより)

これは、以前から随時発行されていた細判の役者絵を1冊にまとめた物と推測されており、鳥居清信の本業である看板絵や番付絵の延長線上にある物でした。一方、同年に出版された遊女絵本「娼妓画牒」(けいせいえほん)は当時の有名な遊女を描いた絵本です。

このような「家業」の歌舞伎絵とはそれほど関係ない仕事も行なうようになりますが、それにはある大物の浮世絵師からの影響がありました。

「浮世絵師の祖」菱川師宣からの影響

鳥居清信がどのような経緯で「家業」以外の挿絵や美人画を描き始めたかは明らかではありません。ただ、彼がある有名な浮世絵師に憧れ、その作品や技法を研究して自らの画風に取り入れていたことは間違いありません。

その絵師の名は菱川師宣。「浮世絵師の祖」と呼ばれ、浮世絵文化成立の礎を作った浮世絵界の巨人です。菱川師宣は1694年(元禄7年)に亡くなっており、入れ替わるように1697年(元禄10年)に鳥居清信が絵師としてのデビューを迎えます。

もちろん、鳥居清信が菱川師宣に弟子入りしたわけではありません。鳥居清信の方から、一方的に彼に憧れて私淑し、その作品から技法を学んだと考えられています。実際、鳥居清信の画風には、父から受け継いだ鳥居派の技法とともに、菱川師宣の影響が強く見受けられます。

しかし鳥居清信が菱川師宣から受け継いだのは、技法だけではありません。父・鳥居清元から引き継いだ家業の看板絵や番付絵に対し、本の挿絵や美人絵、武士絵などは菱川師宣が一生をかけて切り拓いた領域です。

菱川師宣は死後に有力な弟子を残しませんでした。そのためその業績を継いだのは直接の師弟関係を持たない鳥居清信達新世代の浮世絵師だったのです。菱川師宣が大きく膨らませた浮世絵への需要を満たすべく若い絵師達が活躍し、浮世絵の世界を担うことになりました。

鳥居清信と歌舞伎・役者絵

「元禄」の江戸・歌舞伎に合致した鳥居清信の画風

鳥居清信は木版絵本の挿絵や一枚絵の役者絵、美人画、「遊女絵」、「春画」などを描きました。当時の版画は墨1色の「墨摺絵」、そして墨と赤と数色で摺る「丹絵」などで、特に丹絵に優れた作品が多いと言われています。

なかでも、やはり好評をもって迎えられたのは役者絵。彼の役者絵は大胆なデフォルメを用いた明快な構図と、無造作で強弱のある線で描かれた勇壮な表現で知られています。太く力のある描線や、誇張され迫力ある筋肉描写は、いかにも看板絵に適した画法でした。

劇場に高く掲げるので、下から見上げたときに迫力を増すように描く必要がある看板絵。鳥居清信の画風には父譲りの看板絵の技法が織り込まれていたため、そうした豪快で力強い画風が実現したと考えられます。その画風は荒々しい江戸歌舞伎の雰囲気にも、そして元禄の時代の雰囲気にもピッタリ合致して、江戸の人々に受け入れられました。

浮世絵において役者絵が重要な画題として確立されたのは、鳥居清信の大きな功績のひとつだと言われています。

鳥居派歌舞伎のことを内から知り尽くした絵師

父・鳥居清元と同じく、鳥居清信もまずは歌舞伎の世界で筆を振るい始めました。歌舞伎のことを知り尽くしていた父親は興行主に重く用いられており、唯一無二の看板絵師となっていました。その子である鳥居清信もまた父譲りの歌舞伎の知識を活かして、歌舞伎界との繋がりを強固な物にしていきます。

歌舞伎の知識に通じていることは、歌舞伎公演を準備する段取りの上でも重要でした。興行主(芝居小屋)が次の演目と役者を決定すると、その前宣伝のために看板絵や番付絵を用意することになります。当然興行前であり、実際に公演の様子を見て描くことはできません。また演目についての詳しい資料が揃っているとも限りません。

しかし鳥居派にとっては事情が異なります。興行の演目や役者の名前を聞いただけで看板絵を描くことができました。元役者であり絵師であった父・鳥居清元が鳥居清信に歌舞伎に関する教育を熱心に施したことからも、その知識こそが鳥居派の地位を確固たる物にした重要な要素だったことが伺えます。

その後何代にもわたって知識と経験が蓄積・伝承され、歌舞伎業界の慣例や人間関係にさえも精通。鳥居清信はその経験や知識が一代限りでなく、次の世代へ継承されているという信頼を歌舞伎界との間に築いたとも評価できます。

鳥居清信と歌舞伎界とのかかわりで特徴的なのは、「芝居絵」や役者絵に取り組んだことです。鳥居派は歌舞伎の面白さと演目の見所を視覚的に描き、観客を集める宣伝のための看板絵を描いていました。

しかし歌舞伎文化が庶民に人気を集めるとともに芝居絵、役者絵の需要が高まります。歌舞伎の熱気を絵とともに持ち帰るというまたひとつの新しい娯楽が生まれたのです。

名場面とともに名台詞・名歌詞を刷り込んだ一枚絵を出版

歌舞伎を描いた一枚絵の中には、歌舞伎の演目の名場面や名台詞、あるいは劇中歌である浄瑠璃の歌詞を書き込んだ物があります。

録音や録画の機材が存在しない時代にあって、歌舞伎の音声情報を持ち帰る手段として利用されました。これらの「声」の入った一枚絵の版画を誰が開発したのか、正確なところは不明ですが、鳥居清信の時代から描かれはじめ、彼も実際にそのような絵を残しています。

役者絵や芝居絵の出版によって、鳥居清信は「看板絵師」鳥居派の頭領としてとして歌舞伎界に主軸を置きつつも、多くの版元と組んで出版用の絵を描く浮世絵師としても活躍の場を拡大。

この背景には歌舞伎文化と出版文化双方の成熟と成長が互いの協力関係を強めていったことが深くかかわっていました。注目すべきは、これらの一枚絵の版画が歌舞伎の座元(興行主)ではなく、外部事業者に当たる一般の版元が販売していたことです。

公演を盛り上げてスターを作り出したい座元と、人気ある役者の絵で利益を得たい版元との思惑が一致し、両者は連携して役者絵を展開することになります。それゆえ、こうした一枚絵は興行前から準備され、公演の盛り上がりに合わせて販売できるように出版されていました。

歌舞伎の演技様式「荒事」とは

江戸歌舞伎の見どころのひとつに「荒事」があります。豪傑や神仏など超人的な登場人物の強さや勇猛さを表現するために、非現実的で過剰な誇張表現をする演出です。

初代市川団十郎が創始したもので、今では当然の演出として受け入れられているものも荒事として組み込まれていました。例えば顔に模様を描く「隈取」や、派手なかつらや衣装を身に付けることもその一例です。発声や動作にもメリハリを付けた演技が組み込まれて人気を集めていました。「暫」(しばらく)、「矢の根」、「国性爺合戦」(こくせんやかっせん)の和藤内、「車引」の梅王丸などが荒事の典型例です。

鳥居清信が特に得意としたのが、この荒事の驚きや興奮を描き出すことでした。看板絵、番付絵、役者絵のすべてに荒事のシーンを巧みに取り入れます。その絵のもつ躍動的でまた刺激的な魅力は江戸の人々を魅了し、劇場の周辺に止まらず広く流通して歌舞伎の魅力を伝えることになります。浮世絵を通じて歌舞伎や役者を身近にしたというのも、鳥居清信の実績のひとつなのです。

独自の描法「瓢箪足」(ひょうたんあし)、「蚯蚓描」(みみずがき)を確立

瓢箪足(ひょうたんあし)

瓢箪足(ひょうたんあし)

鳥居清信は、役者達の鬼気迫る演技や気迫を役者絵の中に描き出すために、様々な手法を編み出しました。その代表的な物が「瓢箪足」(ひょうたんあし)と「蚯蚓描」(みみずがき)です。

いずれも役者の引き締まった筋肉を表すための手法で、まとめて「瓢箪足蚯蚓描」(ひょうたんあしみみずがき)とも言われます。

瓢箪足は腕脚の筋肉を誇張し、まるでひょうたんのようにデフォルメした膨らんだ姿で描く技法です。一方蚯蚓描はそうした筋肉隆々の輪郭を太さの変化の強いミミズのような描線で描き出す技法でした。

いずれも鳥居清信によって開発され、江戸町人の間で非常に評判となりました。以降瓢箪足、蚯蚓描は鳥居派のお家芸となります。それゆえ今日の我々にとってもこれらの技法は親しみあるもので、特に劇場の看板絵には時代を越えて現代にまでこれらの技法が踏襲されています。

鳥居派以前の「歌舞伎絵」

歌舞伎の役者絵を大衆に広めたのは鳥居清信の功績のひとつ。しかし、歌舞伎を版画出版し、流通させ始めたのは、鳥居清信が最初ではありません。

幅広く浮世を描いたことで浮世絵の祖と評される菱川師宣も、歌舞伎を描き出版していました。例えば「歌舞伎図屏風」、「北楼及び演劇図巻」などで芝居小屋の情景を客観的に描いてその様子を伝えています。

また、絵の主題として歌舞伎を扱うこと自体は菱川師宣にとっても新しいことではなく、歌舞伎の祖である「出雲阿国」(いずものおくに)の「かぶき踊り」がすでに他の絵師によって描かれていました。その点で、歌舞伎の世界を浮世絵として出版したことの功績は、菱川師宣らの浮世絵師にもあると言えるでしょう。

しかし、菱川師宣の没後に登場した鳥居清信にも画期的な取り組みがあります。

菱川師宣は、歌舞伎の舞台裏を含む様子を知りたいという外側からの好奇心を満たすべく、芝居小屋の客観的な情景を描くという手法を用いました。一方で鳥居清信は、役者の個性や演目の面白さを伝えるべく筆を執っています。それゆえ歌舞伎の作り手側である内側から、その魅力を伝えるための技法が編み出されることとなったのです。

鳥居派が編み出した表現技法は、歌舞伎絵を描くそれまでの表現技法の単なる高度化ではありません。従来と同じモチーフであっても、歌舞伎の作り手側の視点を表現に取り入れることで、それまでにはない独自の描写となっています。

その点でもやはり、歌舞伎の世界と特殊な関係性を結び、その内部に深く入り込むことのできた鳥居派の独自の立ち位置は重要な役割を果たしているのです。

謎の「筆禍事件」

1911年(明治44年)に発行された「筆禍史」(著・宮武外骨)という本の中に、鳥居清信が登場します。「筆禍」(ひっか)とは、出版物の内容によって問題となり出版禁止などの処分を受けたという意味。鳥居清信も出版禁止の処分、筆禍にさらされたひとりです。

実際に、1693年(元禄6年)に刊行された鳥居清信の「古今四場居百人一首」という本が出版禁止になったと記録されています。古今四場居百人一首は1693年(元禄6年)5月に発売されました。当初は「芝居百人一首」という題名でしたが、そこに時の書物奉行・脇部甚太夫から沙汰があります。

なんでも「河原者[役者を蔑んで言う言葉]を、天皇や皇族が名を連ねている、やんごとない小倉百人に模しているのは、大変けしからん」ということで、「四場居色競」(しばいいろくらべ)への改題を余儀なくされたと言うのです。

しかも町奉行の能勢出雲守からは、タイトルを変えても体裁を変えなければ販売禁止という沙汰を出され、さらに出版者は軽追放の刑に処されてしまいます。依頼を受けて描いただけの鳥居清信にはお咎めはありませんでしたが、この顛末により、古今四場居百人一首はわずか数十部が販売されたのみで発売禁止となり、世紀の稀書となります。

ところが「筆禍史」の著者、宮武外骨がやっとの思いでこの本を入手してみると、首をかしげることになりました。その内容は市村竹之丞、中村伝九郎、市川団十郎、生島新五郎、上村吉弥、猿若山左衛門、坊主小兵衛、森田勘弥といった、当時の名歌舞伎俳優100人の評判記だったのです。

現在では、格調高い伝統芸能の伝承者として、歌舞伎役者の社会的地位は比較的高く認知されています。しかし当時の役人達にとっては、社会的な地位の低い存在として蔑まれていたのでしょう。実際には評判記であっても、ただ百人一首に一度なぞらえられたというだけで発禁処分にされるほど、歌舞伎役者は軽視されていたのです。

発行年月が鳥居清信の活動期間より数年早いため、この作品への鳥居清信の関与には若干の疑問点は残ります。しかし鳥居清信という名の絵師が、このような筆禍事件に巻き込まれたことが複数の記録に残っているのは間違いありません。

鳥居清信の美人画・春画

大柄で豊満な美人を曲線的に描く

鳥居清信はやはり役者絵の印象が強い浮世絵師ですが、美人画も残しています。鳥居清信の代表的な美人画には「傘差し美人図」や「立ち美人図」があり、初期こそ菱川師宣の影響が色濃いものの、やがて独自の画風を獲得していきました。

菱川師宣の美人画と比べ、鳥居清信は大柄で豊満、丸顔で鼻筋が通った明るい顔つきの美人を描いています。優美な曲線で構成された装飾的な衣装が特徴的です。

ちなみに、この美人画の特徴は、鳥居清信の役者絵における、「女形」の描き方にも共通しています。そもそも鳥居清信が活躍した「歌舞伎絵」の世界は、俳優が役を演じている姿を描くわけで、女形の役者を描いた場合、それを男が女装した女形の役者絵と取るか、本当の女性を描いた美人画と取るかは、鑑賞者次第です。

実際にあとの時代、鳥居清信の時代ではありませんが、女形の役者絵として描かれた絵が版元の手によって役者名の文字を削り落として美人画として売られたこともあります。女形を描くときには野郎帽子という女形が身に付ける帽子を描くのが通例でしたが、そうした背景があり、享保年間(1716~1736年)ごろを境に、女形に野郎帽子が描かれなくなりました。

その後、似顔絵を発明した「勝川春章」の時代になると、役者の個性が絵に克明に描かれ、そのようなこともできなくなりますが、鳥居清信の時代には、まだ女形の役者絵と美人画は明確に描き分けられてはいませんでした。

春画でも「役者の世界」を描く

役者絵の祖であり、浮世絵界の大名跡とも言える鳥居清信ですが、実は春画の世界でも作品を残しています。その春画の特徴もやはり歌舞伎に由来するものです。春画でも歌舞伎界のシチュエーションに焦点を合わせ、当時の性風俗を描きました。

当時、裕福な女性が好みの役者を指名して「役者買い」をするということがありました。奥女中や後家(未亡人)だけでなく、芸者や商家の奥方も役者を買ったそうです。そういった特殊な恋模様が鳥居清信の春画の主な対象となりました。露出は控えめで美しい模様の衣服を躍動的に描き、ふくよかな肢体が描かれています。

鳥居清信と鳥居派

世襲で300年続く唯一の画派鳥居派

歌舞伎界と密接な関係を築き、以後の浮世絵に多大な影響を与えた鳥居清信は1729年(享保14年)、66歳でこの世を去ります。その墓所は浅草南松山町法成寺にありましたが、現在は改葬されて豊島区駒込の染井墓地にあります。

鳥居清信とその一門は鳥居派と呼ばれ、江戸中期より世襲で300年にわたって歌舞伎界で公式の絵師の座を占め、現在も歌舞伎座の絵看板を制作し続けています。鳥居派が鳥居清信、その父・鳥居清元の時代から、世襲を基本として現代まで続いてきているのは、同じく世襲を重んじる歌舞伎の世界からの影響が強くあると思われます。

鳥居清信には「2代目 清信」、「2代目 清倍」、「初代 清忠」、「清重」、「清朝」ら多くの門弟がいました。他にも「初代 清経」、「2代目 清元」、「清朗」といった名も残っていますが、その作品は今日では残されていません。

また弟子ではありませんが、奥村政信、西村重長、近藤清春、羽川珍重、懐月堂安度、常川重信らも、鳥居清信及び鳥居派の大きな影響を受けていることから、鳥居派に分類されることもあります。

鳥居派スタイルを大成するも早世 鳥居清倍

鳥居派の祖と言われる鳥居清信には、多くの門弟がいました。なかでも鳥居清信とほぼ同時期に活躍し、鳥居派の画風を決定づけたのが鳥居清倍(とりいきよます)です。

鳥居清倍は俗名を庄三郎と言い、鳥居清信が確立したスタイルをさらに進化させ、元禄時代の歌舞伎役者を荒々しく描きました。鳥居派の代名詞である瓢箪足や蚯蚓描の手法を巧みに用いたダイナミックな作品は歌舞伎絵の代表格と言っても過言ではありません。

作品の数、質ともに鳥居清信に劣らない実績を残しており、現在も残る鳥居派の画風を確定させた人物です。鳥居派にとっては重要な絵師であるにもかかわらず、鳥居清倍には謎が多く、生没年も含めてその素顔は詳しく分かっていません。

彼は鳥居清信の弟、もしくは長男と推測されています。弟ならば父・鳥居清元の弟子で鳥居清信からすると弟弟子にあたり、長男であれば鳥居清信の弟子にあたります。

また、鳥居清倍には「2代目」が存在するのです。2代目・鳥居清倍は、享保の初期(1720年前後)に襲名をして名前を継承。のちに鳥居清信にも2代目が登場しますが、2代目・鳥居清倍の方が先に登場しています。

このような襲名は、彼らが懇意にしていた歌舞伎のしきたりに倣ったものです。名を継ぐことで、初代が引退したあともその名声を継ぐことができるという利点があり、以後の浮世絵の世界でも広く行なわれる慣習となりました。

もうひとりの清信 2代目・鳥居清信

一枚絵の版画(役者絵、美人画、武人画)、肉筆画などが残っている鳥居清信ですが、やはり一番多いのは役者絵です。

現在判明している中で、最も早い一枚絵の役者絵は、1698年(元禄11年)の「沢村小伝次の露の前」という作品で、中村座で行なわれた公演に伴い発行された物です。

なお、鳥居清信の最後の作品はどれか判然としていません。鳥居清信には本稿で扱う「初代・鳥居清信」と、その名を継いだ「2代目・鳥居清信」がいます。この2人の絵柄が酷似しており、かつ絵の署名には「初代」、「2代目」などという代数を書き込みませんでした。そのためどこまでが初代で、どこからが2代目かという線引きが専門家の間でも定まっていないのです。

2代目・鳥居清信は、初代・鳥居清信の三男であると伝えられています。しかし彼も謎の多い人物で、一説には鳥居清倍と同一人物であるとも言われています。享保10年代(1725年~)ごろ、初代の引退や死亡に際して、間をおかずにその名を継いだと考えられ、その後1761年(宝暦11年)まで「鳥居清信」の名で活躍しました。

初代・2代目をあわせると、その活動期間は60年以上。襲名によって鳥居清信の名を途切れさせなかっただけではなく、確かな技術で大浮世絵師である先代の名を汚すことなく活躍し続けました。その点では、鳥居清信の名を高め、現代に続く鳥居派の隆盛を作り上げたのは、2代目の力によるところも大きいと評価できます。

優美な男女を描く紅摺絵時代の名手 鳥居清満

鳥居清信や鳥居清倍の大活躍のあと、しばらくの安定期になりました。その後再び鳥居派の名前を大きく挙げた絵師が鳥居清満(とりいきよみつ)です。

2代鳥居清倍の次男と言われ、1735年(享保20年)に生まれた鳥居清満は、弱冠13歳でデビューを迎えます。以後、家業の看板絵や番付絵を描く一方、草双紙(くさぞうし)の挿絵や細判役者絵などを描き、人々の心をつかみました。

鳥居派の祖・鳥居清信や、初代・清倍が活躍した時代と大きく変わったことがあります。かつては黒1色の「墨摺絵」(すみずりえ)や、丹(たん)を使用した赤と他数色を使用した「丹絵」(たんえ)が主流でした。

しかし鳥居清満が活躍した1751~1772年ごろ、宝暦から明和にかけての時代には、植物性の紅を使用した「紅絵」の時代を経て、紅や緑などの数色を使用した「紅摺絵」(べにずりえ)が全盛期を迎えていました。また、人気を集める画風も移り変わっていました。

この時代には、鳥居清信や初代・鳥居清倍のような雄渾で荒々しい画風よりも、繊細な表情や風情の浮世絵が好まれるようになっていたのです。そのため鳥居清満は両方の画風を描き分けます。劇場の看板絵や番付絵では鳥居派の家風に則った絵を描き、自らの作品では端正で優美な画風で描いているのです。

「錦絵」と「似顔絵」の流れに乗り遅れた鳥居派

江戸歌舞伎の世界と密接な共存関係によって、浮世絵界にも独自の立場を築いていた鳥居派ですが、その立場は安泰というわけではありませんでした。

1765年(明和2年)には、鈴木春信らが多色摺り「錦絵」の浮世絵を発表します。この技術はそれまでの黒と赤と他に数色という限られた色彩世界だった浮世絵に、革命的変化をもたらしました。しかし鳥居派はそれまでの常識を覆した錦絵の技術革新に乗り遅れてしまい、そのため活躍の場を新星の鈴木春信らに譲ることになってしまったのです。

また、多色摺りを可能にした錦絵の技術は、印刷可能な描写精度を急激に高めました。このため緻密な表現が可能となり、それまでのデフォルメした技法だけではなく、個人を描き分ける精緻な描写が人気を集めます。

この変化の中で「一筆斎文調」や「勝川春章」がその卓越した描写力を発揮し、役者の特徴を捉えた「似顔絵」で一斉を風靡することになりました。

それまでの役者絵はパターン化された類型的な顔を描き、名前や描かれた家紋などで個人を判断する物でした。歌舞伎絵において鳥居清信以来の伝統を守り続けた鳥居派は、錦絵と似顔絵双方の流れに乗り遅れてしまいます。

このため鳥居派中興の祖である鳥居清長が登場するまで、浮世絵界の主役の座から遠ざかることになったのです。

名門鳥居派の中興の祖 鳥居清長

勝川春章や一筆斎文調ら、役者似顔絵を得意とする新勢力に破れ勢いを失いつつあった鳥居派ですが、「鳥居清長」(とりいきよなが)の登場により再び勢力を盛り返しました。この功績から、鳥居派における「中興の祖」と評価されています。

鳥居清長は1752年(宝暦2年)に生まれます。鳥居派は、鳥居清信から始まる「鳥居家」の人々による世襲によって続いてきた画派ですが、鳥居清長は鳥居家の血縁者ではありません。

俗名を関市兵衛(せきいちべえ)と言い、生家は江戸・本材木町の書店・白子屋です。幼少時から本や浮世絵に親しみつつ育ち、「いつか浮世絵師になりたい」と願うようになりました。

成長し鳥居派3代目当主・鳥居清満の弟子となった市兵衛は、「清長」の名をもらい、1767年(明和4年)ごろから鳥居派伝統の役者絵を描き始めます。当時はまだ鳥居家の人間ではありませんので、絵師としては清長もしくは「関清長」と名乗っていました。

鳥居清長と名乗るようになるのは、後継者として鳥居家に養子に入った1787年(天明7年)以降ですが、ここでは便宜上すべての業績について鳥居清長と記載します。鳥居清長は1775年(安永4年)ごろから、美人画や版本の挿絵、肉筆画などを描いた他、大判2枚続きの美人画を発表して、鳥居派の新機軸を打ち出します。

さらに美人画や役者絵などでは、画面の上下いっぱいにすらりとした8頭身の人物群を描き人気を呼びました。彼の描く長身の美人画は、現代では「江戸のヴィーナス」と呼ばれています。

またそれまで人物ひとりを描いていた美人画や役者絵に写実的な実景を持ち込んだことも功績のひとつです。美人画の背景に写実的な江戸の文物を描き、役者絵でも背景や小道具、あるいは舞台の出語りや三味線奏者などといった裏方の人々を緻密に描いています。これが美人画や役者絵の世界に新たな流行を巻き起こすきっかけとなりました。

鳥居清長において、先代まで続いてきた鳥居派の血族主義が一旦途絶えることになります。しかし幼少期からただ純粋に浮世絵や役者絵を描くことが好きでたまらないという絵師が入ったことで、沈滞していた鳥居派に新風を巻き起こすことになったのです。

鳥居清長は鳥居派の伝統を学びつつも、時代の流れを巧みに乗りこなしました。例えば蘭学の影響によりもたらされた写実的な画風や、何枚にも渡り空間の広がりを表現した大画面の続き絵などの新機軸にも臆せず挑戦。古いものの代名詞となりつつあった鳥居派を再び表舞台に呼び戻す大活躍を見せ、鳥居派は息を吹き返すことになるのです。

鳥居清長の50年に亘る長い活動期間の中でも、絶頂期は1782~1784年(天明2~4年)頃です。「当世遊里美人合」(とうせいゆうりびじんあわせ)、「美南見十二候」(みなみじゅうにこう)、「風俗東之錦」(ふうぞくあずまのにしき)の揃物三作は、鳥居清長の三大揃物と呼ばれています。

これら三作は人間観察に基づく人々の表情や仕草の描写と、巧みな遠近法を使用した風景描写にその卓越した技術を感じることができる、鳥居清長の最高傑作。これらの活躍により、鳥居清長は鈴木春信、喜多川歌麿東洲斎写楽葛飾北斎、安藤広重と並んで「六大浮世絵師」のひとりに数えられています。

  • 喜多川歌麿など、日本を代表する有名な浮世絵師達をご紹介します。

  • 葛飾北斎など、日本を代表する有名な浮世絵師達をご紹介します。

鳥居派、断絶の危機

鳥居清長が大活躍している最中の1785年(天明5年)、鳥居派に継承問題が勃発。鳥居派3代目当主の鳥居清満が亡くなりますが、鳥居清満には跡継ぎになるべき子がいませんでした。一説には男児がいたとされますが、絵を学ばなかったとされています。

そんな最中に鳥居清長は座方(興行主)から劇場の絵看板の仕事を頼まれます。しかし、そのタイミングで鳥居派の本業である絵看板を描くことは、別の意味を持ちかねませんでした。

つまり、鳥居清長が実質鳥居派の棟梁を継いだというメッセージが発されてしまいかねなかったのです。それまで血族で跡を継いでいた鳥居派の伝統に敬意を払っているからこそ、鳥居清長にとってこれは望まない事態。それでは師匠の遺族に顔が立たないとして、この依頼を固辞しました。

そこで座方は仕方なく、鳥居派以外の人気絵師である、「歌川豊春」に看板絵と番付絵を頼みます。しかしその歌川豊春が、あろうことか大物役者の名前を書き忘れるというミスをしてしまうのです。これにより役者方から苦情が百出してしまい、大きなトラブルへと発展しました。

この一件で「絵看板の鳥居派」との呼び声は一層高まります。しかし当の鳥居派では継承問題が起こっており、誰が引き受けるのか定かではありません。そこで座方は先代の遺族にも了承を取ったうえで、再度鳥居清長に看板絵を頼むことにします。

折良く先代の娘に男児・庄之助が生まれたこともあり、鳥居清長は主家に養子入りし、先代の孫にあたる庄之助が5代目を継ぐまでの繋ぎという条件付きで、4代目を襲名することに決まったのです。

鳥居清長はこの際、後年の跡継ぎ争いの種にならないよう、すでに絵師としての才能を認められつつあった彼の息子・清政に、絵の道を捨てさせたとされています。いかにも鳥居清長の義理堅さが強調されるエピソードです。

しかし、細かい部分でいくつかの矛盾が指摘されており、正確な顛末は明らかにはなっていません。とは言え実際に後継騒動に巻き込まれ、不本意ながら繋ぎという条件で襲名したことは間違いないようです。

鳥居家の4代目を襲名した鳥居清長は、その役目を忠実に果たします。伝統のお家芸である瓢箪足、蚯蚓描きといった鳥居派様式の看板絵・番付絵を描きました。その一方で、自身の特徴である写実的で革新的な画風も捨てることなく保持し続けました。

晩年の鳥居清長は、版画などの作品数が激減します。これは師匠・鳥居清満の孫で鳥居派5代目となる「鳥居清峰」の教育に専念したためだと言われています。しかしながら、それほどまでの英才教育を受けた5代目にあたる鳥居清峰でしたが、鳥居派伝統の看板絵師としては活躍したものの、浮世絵師としてはあまり活躍することはありませんでした。

現代に続く鳥居派

鳥居清元が基礎を築き、鳥居清信が画風を確立した鳥居派は、江戸歌舞伎と密接な関係を築きながら発展しました。役者の看板絵や番付絵などを家業として300年にわたって世襲され、現代でも続く流派となっています。

鳥居派のお家芸である看板絵や番付絵の画風には開祖・鳥居清信からの伝統は守られていましたが、同時に取り組んだ浮世絵師としてのそれぞれの画風では、個性を活かしつつ時代の要求にしたがって多様な作品を生み出してきました。

鳥居派は現在も歌舞伎絵界の「家元」として継承されています。

現在でも、9代目当主で鳥居派初の女性絵師である鳥居清光氏が東京歌舞伎座の看板絵を描き続けており、これからもその歴史は続いていくことでしょう。

鳥居清信

鳥居清信をSNSでシェアする

「浮世絵師一覧」の記事を読む


菱川師宣

菱川師宣
「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)は、それまで本の挿絵でしかなかった浮世絵版画をひとつの作品と捉え直し、「浮世絵」と言うジャンルを確立した人物です。この功績から「浮世絵の祖」と呼ばれることとなった菱川師宣は、どんな時代に生き、どのような生涯を送ったのでしょうか。菱川師宣の作品やエピソードとともに解説します。

菱川師宣

歌川芳虎

歌川芳虎
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川」という風刺の歌をご存じでしょうか。「織田信長」や「豊臣(羽柴)秀吉」の尽力により成し遂げられた天下泰平の恩恵を「徳川家康」が独り占めしているという有名な風刺です。これを徳川の治世下である江戸時代に浮世絵にした驚きの浮世絵師がいます。その名も「歌川芳虎」(うたがわよしとら)。「歌川国芳」(うたがわくによし)の門下にして幕末の人気浮世絵師でした。幕末とは言え封建社会の江戸時代に、これほど痛烈な風刺を芸術で行なった歌川芳虎。その波乱の生涯や作品をご紹介します。

歌川芳虎

歌川国芳

歌川国芳
幕末の人気浮世絵師であった「歌川国芳」。「武者絵の国芳」と称されるほど人気であった武者絵に加え、多くの作品に見られるその発想力やユーモアは江戸時代だけでなく、現在の人々をも魅了しています。ここでは、歌川国芳の生涯や作品、エピソードをご紹介します。

歌川国芳

喜多川歌麿

喜多川歌麿
美人画と言えば「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)。国内での評価はもとより、海外では「葛飾北斎」(かつしかほくさい)と並び著名な浮世絵師です。しかし、その芸術活動は幕府の禁制との闘いでもありました。そんな喜多川歌麿の波乱万丈の人生や生み出され続けた数々の美人画をご紹介します。

喜多川歌麿

水野年方

水野年方
浮世絵師でありながら日本画家でもあった「水野年方」(みずのとしかた)。見逃されがちな水野年方ですが、絵を通じて風俗画の地位向上や近代文学の発展にも貢献し、門下から数多くの有名画家を輩出しています。ここでは、そんな水野年方に焦点を当て、その生涯や作品を紹介します。

水野年方

葛飾北斎

葛飾北斎
葛飾北斎と言えば、江戸時代を代表する浮世絵師。日本国内のみならず世界でも高評価を受け、「ジャポニズム」という現象まで巻き起こしました。そんな天才と呼ばれた葛飾北斎について、その生涯や作品についてなど、様々なエピソードをご紹介します。

葛飾北斎

月岡芳年

月岡芳年
江戸時代を代表する浮世絵師が「葛飾北斎」や「歌川広重」だとすれば、明治時代を代表する浮世絵師が「月岡芳年」(つきおかよしとし)。歌舞伎の残酷シーンや「戊辰戦争」の戦場等を題材にした無残絵から「血まみれ芳年」の2つ名で知られます。月岡芳年は、その2つ名の陰で、ジャンルを問わず幅広い題材をテーマにした多作の絵師として、幕末から明治期の浮世絵界をリードしました。そんな月岡芳年の生涯や数々の傑作をご紹介します。

月岡芳年

歌川広重

歌川広重
「東海道五十三次」は、日本人なら誰もが知る浮世絵の傑作であり、不朽の名作のひとつです。そこに描かれた東海道の風景は発表当時から好評を博し、江戸に空前の旅行ブームを引きおこしました。さらにその余波は日本国内にとどまらず、19世紀後半にはヨーロッパ美術界におけるジャポニスムの火付け役にもなったのです。 「歌川広重」の名は世界に轟きました。いまや浮世絵界に止まらず世界の美術史でも取り上げられる歌川広重の生涯と魅力的な風景画の数々、そして風景画以外の領域での活躍をご紹介します。

歌川広重

東洲斎写楽

東洲斎写楽
江戸中期に彗星のごとく現れた浮世絵師、「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)。活動期間はわずか10ヵ月あまりながらも145点もの作品を生み出し、その後忽然と姿を消した謎多き人物。独特のデフォルメを用いた役者絵は世界中で高い評価を受けており、大正時代にはドイツの美術研究家ユリウス・クルトが「レンブラント、ベラスケスと並び東洲斎写楽を世界三大肖像画家と紹介した」とも言われたのです。今もなお謎が多い東洲斎写楽の人生や魅力ある役者絵等をご紹介します。

東洲斎写楽