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東洲斎写楽

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江戸中期に彗星のごとく現れた浮世絵師、「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)。活動期間はわずか10ヵ月あまりながらも145点もの作品を生み出し、その後忽然と姿を消した謎多き人物。
独特のデフォルメを用いた役者絵は世界中で高い評価を受けており、大正時代にはドイツの美術研究家ユリウス・クルトが「レンブラント、ベラスケスと並び東洲斎写楽を世界三大肖像画家と紹介した」とも言われたのです。今もなお謎が多い東洲斎写楽の人生や魅力ある役者絵等をご紹介します。

謎多き東洲斎写楽の正体

「東洲斎写楽」浮世絵界の彗星的絵師

東洲斎写楽

東洲斎写楽

東洲斎写楽は「4大浮世絵師」の1人に数えられ、誰もが知る有名な浮世絵師。作品としては役者絵、とりわけ役者の顔をアップで描いた「大首絵」で知られます。

しかし「謎の浮世絵師」という異名でも呼ばれ、その本名や生没年、出生地、家族、師匠や弟子などすべてが謎であると言われてきました。事実、活躍期間は非常に短く、わずか1年未満(10ヵ月)の間に約150点の作品を描き、そして突然に姿を消してしまっています。

その短い活動期間にもかかわらず、その鮮烈な個性は衝撃を持って受け入れられました。評判は江戸にとどまらず、明治以降には海外でも大きな反響を呼びます。特によく知られるのが、ヨーロッパで東洲斎写楽を初めて本格的に研究したドイツの美術研究家ユリウス・クルトです。

ユリウス・クルトはその著作「Sharaku」において東洲斎写楽を絶賛しました。その高い評価から、いつしか人々はユリウス・クルトが東洲斎写楽を「レンブラント」、「ベラスケス」と並ぶ「世界三大肖像画家」と称したと口々に言うようになりました。

しかし、実際にはそのような記述は見当たらないため、世界三大肖像画家との評は人々が作り出したものということになります。それでも、東洲斎写楽が世界中で最も知られる肖像画家の1人であることには疑いを挟む余地がありません。

一方の「謎の絵師」という評も後年に登場したものです。そう言われるようになったのは明治末から大正時代以降のことでした。と言うのも、彼はほんの一瞬江戸を騒がせた天才浮世絵師ではありましたが、そのあと急速に人気は下火になり、消え去ったあとはほとんど顧みられることもなかったからです。

したがって、明治末に再発見されるまでの間、東洲斎写楽はむしろ「忘れられた絵師」でした。謎は、興味を持つ人があってこそ生じますが、東洲斎写楽は他の凡百の浮世絵師と同様に忘れ去られていたため、その生涯を詳しく調べたり発表したりする人も少なかったのです。

東洲斎写楽の浮世絵が明治期までは別段高く評価されなかったことは、当時の人々の手記からも読み取ることができます。例えば文人で画家でもあった「淡島寒月」(あわしまかんげつ)は、「古版画趣味の昔話」という文章の中で東洲斎写楽に言及。それによると、明治の始め、東洲斎写楽の浮世絵版画は浅草などの道端の露店に山積みになって売られていたのです。

他の浮世絵師の版画と一緒に雑然と積み重ねられ、「よりどり1銭」の廉価で売られていたと言います。明治初期の1銭は「かけそば」を1杯食べてお釣りがくる程度であり、現代ではせいぜい数百円の金額です。

ただし、東洲斎写楽の浮世絵が特に低く見られていたというわけではありません。明治期、浮世絵は美術品ではなくポスターのような大衆の消費物として扱われていました。また、淡島寒月による補足によると、幕末から明治にかけては「歌川国芳」(うたがくによし)や「月岡芳年」(つきおかよしとし)らの新しい浮世絵師が大衆に好まれており、東洲斎写楽は「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)らとともに「古い浮世絵師」と認識されていたとも言います。

ところが、その明治維新から半世紀を経た1918年(大正7年)ごろ、東洲斎写楽の浮世絵は1枚が数百円にまで高騰。その頃の公務員の初任給が70円程度ですから、東洲斎写楽の錦絵はもはや庶民が気軽に買える物ではなくなってしまったのです。

さらにその値段は高騰を続け、数千円、さらには10,000円と桁が吊り上がる大高騰を見せました。そしてこの価格高騰を牽引したものこそ、海外での人気だったのです。東洲斎写楽の版画は突然ヨーロッパで非常に高い評価を受け始め、現在までも続く人気が始まりました。

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ユリウス・クルトによる東洲斎写楽の「発見」

1910年(明治43年)、ドイツの美術研究者ユリウス・クルトがヨーロッパで初めて、東洲斎写楽の本格的な研究書Sharakuを刊行しました。それ以来、ヨーロッパでは東洲斎写楽の浮世絵が「芸術品」として高い評価を受けるようになり、価格も高騰します。

海外からの人気を逆輸入するかたちで、日本でも東洲斎写楽の評価は急激に高まりました。それまで安価で売られていた版画の価格は高騰し、多くの東洲斎写楽作品が海外へと流出します。そして一連の「東洲斎写楽ブーム」に牽引されるように、日本でも東洲斎写楽の再評価とそれに伴う研究の本格化が巻き起こったのです。

それまで東洲斎写楽は、本格的な研究の対象になっていませんでした。同時代に生きた者によって断片的な記録は残されていたものの、研究するに値する浮世絵師とは思われていなかったのです。

そもそも浮世絵師の大多数は、その生い立ちについての詳細な記録が残っていません。その生い立ち、特に入門前の生誕地、生年月日、家族のことなどは分からないのが一般的。東洲斎写楽も短い活躍と独特な画風こそ知られていましたが、それでもなお来歴のはっきりしない数ある「謎の浮世絵師」の1人にすぎませんでした。

しかしユリウス・クルトがSharakuを出版し、その名が世界的に有名になったことで、日本国内でも東洲斎写楽に注目が集中。作品が再評価され、東洲斎写楽研究の熱も高まります。「世界の東洲斎写楽」との呼び声により、その謎多き生涯もまた世界中の人々の興味をかきたてることになったのです。

多くの人が正体探しに熱中

ユリウス・クルトは、東洲斎写楽の正体として、絵師の「歌舞伎堂艶鏡」(かぶきどうえんきょう)を提唱。しかしこの説は、日本の浮世絵研究者が見れば明らかに的外れな答えでした。

外国人であるユリウス・クルトは、江戸の文化にも日本の歴史にも詳しくなく、日本に一度も訪れることなくSharakuを書き上げました。それゆえ説が的外れになってしまったとしてもやむを得ません。一方、国内の研究者達もこれに触発されるように、様々な資料を駆使して東洲斎写楽の正体を探り始めました。

1925年(大正14年)には、画家の「山村耕花」(やまむらこうか)が朝日新聞に「東洲斎写楽の捜索願」という記事を掲載して注目を集めます。その後「謎の絵師・東洲斎写楽」というイメージは独り歩きをはじめ、さらに多くの人々が東洲斎写楽の正体探しに躍起になりました。

「中野三敏」(なかのみつとし)の「東洲斎写楽 江戸人としての実像」(中公新書)では、明治、大正、昭和に提唱された「東洲斎写楽の正体」について、50以上の人物像を挙げています。

東洲斎写楽探しに名乗り出た「探偵役」も、挙げられている東洲斎写楽の「正体」も大物揃いです。例えば、漫画家の「横山隆一」(よこやまりゅういち)は、東洲斎写楽の正体を彼の作品の出版をすべて担っていた版元の「蔦屋重三郎」(つたやじゅうざぶろう)であると推理。

ミステリー作家の松本清張は、古くからの定説である能役者「斎藤十郎兵衛」(さいとうじゅうろうべい)説を採りました。他にも能面師「土左衛門の次郎太」や能役者「春藤次左衛門」(しゅんとうじざえもん)、歌舞伎役者「中村此蔵」(なかむらこれぞう)などの芸能関係者説、浮世絵師「歌川豊国」(うたがわとよくに)や喜多川歌麿などの浮世絵師説も提唱されました。

実際にはこれ以外にも様々な説が提唱され、一風変わったものでは阿波藩主の息子「牟礼俊十」(むれしゅんじゅう)説や「無名絵師」説、「さる貴人」説、「オランダ人」説といった掴みどころのない説までも知られています。

こう並べると明らかですが、東洲斎写楽と同時代に生きた著名な芸術家や文化人のほとんどが「東洲斎写楽の正体」として担ぎ出されるという状態になりました。しかし、多くの研究者による古文書の検証や新たな史料の発見によって、今日では東洲斎写楽の正体はほぼ定まってきています。

東洲斎写楽の正体の大本命とは

東洲斎写楽の身辺について著した最も古い書物は、1817年(文化14年)ごろに出版された「諸家人名 江戸方角分」という、江戸の文化人を地域ごとに紹介した本(瀬川富三郎・著)です。

その中で「八丁堀」在住の文化人として「[号]写楽斎 地蔵橋」という記述があります。写楽斎が浮世絵師であること、そしてすでに故人であることが記号で記されています。

「諸家人名 江戸方角分」左ページの右から2番目に写楽斎の号が書かれている(国立国会図書館Webサイトより)

「諸家人名 江戸方角分」左ページの右から2番目に写楽斎の号が書かれている
(国立国会図書館Webサイトより)


さらに「浮世絵類考」という、浮世絵師について考証した著作があります。

これは「大田南畝」(おおたなんぽ)という浮世絵の研究者が1790年(寛政2年)に初めて刊行した浮世絵師の研究書ですが、山東京伝や「式亭三馬」(しきていさんば)、「斎藤月岑」(さいとうげっしん)などのちの時代の多くの研究者がそれぞれ自分の知っている知識を加筆した物が残っており、それらがさらに貴重な資料となっています。

文政の始め、1818~1821年(文政元年~文政4年)ごろに式亭三馬によって加筆されたバージョンの「浮世絵類考」には、「東洲斎写楽号東洲斎、江戸八丁掘ニ住ス」という記述があり、江戸の八丁堀に東洲斎写楽と名乗る浮世絵師が住んでいたことが分かります。

さらに、1844年(天保15年/弘化元年)に学者の「斎藤月岑」(さいとうげっしん)が加筆したバージョンの「増補 浮世絵類考」では、「東洲斎写楽 天明寛政中の人 俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者なり 号 東洲斎」と記されているのです。

これこそが人々が追い求めた東洲斎写楽の正体だと考えられています。東洲斎写楽とは、俗称を「斎藤十郎兵衛」という、江戸八丁堀に住んでいる阿波候(阿波徳島藩蜂須賀家)のお抱えの能役者だったのです。

確かに八丁堀には、阿波徳島藩主・蜂須賀家の中屋敷があり、東洲斎写楽が八丁堀に住んでいたという先の情報にも合致します。この加筆をした斎藤月岑は江戸神田の町名主で、「東都歳事記」、「声曲類纂」、「武江年表」などを著した、博覧強記をもって知られた人物。それゆえ、この記述は信頼に足る物と考えられました。

しかし、東洲斎写楽の実在を証明するには、「斎藤十郎兵衛」なる能役者が実在すること、それが東洲斎写楽であるということを、別の史料から裏付ける必要がありました。綿密な調査が続けられた結果、1824年(文政7年)の能番組(能のプログラム)に、この「斎藤十郎兵衛」という名前が見つかります。

さらに1816年(文化13年)の能番組にも「宝生万作 弟子 斎藤十郎兵衛」という記述が見つかりました。さらに1956年(昭和31年)2月、徳島新聞で、あるニュースが報じられました。

徳島藩が領有していた阿波・淡路二国の下級武士の報酬を著した「御両国無足以下分限帳」の「御役者」という項目のところに、江戸住み5人の1人として「五人判 金弐枚 斎藤十郎兵衛」という名前があったのです。これらの証拠により、「阿波徳島藩のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛」なる人物が実在することが分かりました。

また、生年月日も明らかになります。1997年(平成9年)、築地から埼玉に移転した浄土真宗の寺院・法光寺で斎藤十郎兵衛の過去帳が発見されたのです。これにより、彼が1763年(宝暦13年)に生まれ、1820年(文政3年)に58歳で亡くなったことが分かりました。

もはや、阿波徳島藩のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛という人物が実在したことは間違いありません。加えて、戯作者「二代目金沢竜玉」(かなざわりゅうぎょく)こと「奈河本助」(ながわもとすけ)が所蔵していた「浮世絵類考」の写本に「東洲斎写楽は阿州(阿波国)の出身で、斎藤十郎兵衛だと「栄松斎長喜」(えいしょうさいちょうき)老人が言っていた」という証言が書き込まれた物が残っています。

栄松斎長喜は東洲斎写楽と同時代の浮世絵師であり、「斎藤十郎兵衛=東洲斎写楽」説を裏付ける大きな根拠のひとつとなっているのです。

しかし、これでも「斎藤十郎兵衛が東洲斎写楽である」という客観的で決定的な証拠にはなりえないということで、その説が確定するには至っていません。

また、史料ごとに矛盾も生じています。法光寺の過去帳にしたがって斎藤十郎兵衛が1820年(文政3年)に死没したとすると、1824年(文政7年)の能番組に名前があることと矛盾してしまうのです。1817(文化14年)に出版された「諸家人名」で写楽斎が故人とされているのも、過去帳と整合性が付きません。

ともすると「諸家人名」の「写楽斎」と東洲斎写楽が別人ということも考えられますが、一筋縄ではいきません。様々な奇説を考える余地が残されているところが、私達を惹き付けてやまない東洲斎写楽の魅力とも言えるでしょう。

東洲斎写楽・鮮烈なデビュー

4期に分かれる活動期間

彗星のごとく現れ、江戸の人々に衝撃を与えて、忽然と消えていった浮世絵師・東洲斎写楽。その活躍期間は驚くほど短く、江戸時代中期1794年(寛政6年)5月からわずか10ヵ月間しかありません。しかしその短さにもかかわらず、その活躍期間は1期に分けられています。

「第1期」は1794年(寛政6年)5月、東洲斎写楽が登場した時期です。当時の江戸三座(都座・桐座・河原崎座)の芝居小屋の役者絵28枚を一挙に発表しました。黒雲母摺(くろきらずり)という背景に雲母を混ぜた顔料を使用した大判大首絵で、東洲斎写楽と言って多くの人が思い浮かべる代表作はほとんどこの時期に発表された物です。

「第2期」は1794年(寛政6年)の7月都座・河原崎座と、8月の桐座の上演に取材した作品を発表した3~4ヵ月程度の期間です。大首絵ばかりだった第1期には描いていなかった「全身画」を描いています。「二人立ち」の役者全身像を7枚と、座元(興行主)からの挨拶を描いた「楽屋頭取口上の図」が1枚、他に「細絵」を30枚描き、のちに秀作と評されました。

「第3期」は同じく1794年(寛政6年)11月・閏11月の2ヵ月(閏月とは、月の満ち欠けをもとにした旧暦で生じる誤差を調整するために入れる月のこと)。この期間には江戸三座の11月の顔見世狂言を描いた物が44枚あります。

顔見世とは座元(興行主)と1年契約が一般的だった歌舞伎役者が、「芝居の正月」と言われる11月に「1年間はこの役者で公演します」という挨拶を行なう風習です。第3期は他に間版というサイズの大首絵10枚、亡くなった役者を追悼する「追善絵」を2枚描いています。

第3期の特徴としては、それまで描いてこなかった背景を描いていることですが、第1期、第2期から時が進むにつれ徐々に筆力の衰えが目立ってきます。

「第4期」は1795年(寛政7年)1~2月の都座・桐座の春狂言を描いた物が10枚、それに相撲絵2枚を描いています。華々しくデビューした東洲斎写楽でしたが、1年の間に急速に画力が衰え、品質の低下が認められるようになります。その原因もまた不明で、これも「東洲斎写楽の謎」のひとつとなっています。

作品総数は役者絵が134枚、役者追善絵が2枚、相撲絵が7枚、武者絵が2枚、恵比寿絵が1枚、役者版下絵が9枚、相撲版下絵が10枚確認されています。この他、2008年(平成20年)に東洲斎写楽作とみられる肉筆の役者絵が新たに確認されました。

「第1期」東洲斎写楽の衝撃

東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」(国立国会図書館ウェブサイトより)

東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」(国立国会図書館ウェブサイトより)

東洲斎写楽の作品のうち最も高く評価されているのは第1期の作品です。描いたのは大判の役者絵、つまり歌舞伎役者の似顔絵で、特に紙面いっぱいに役者の上半身を描いた大首絵と呼ばれる物でした。

役者絵は、浮世絵のごく初期から描かれていました。しかし専らそれを描いたのは歌舞伎界と強い繋がりをもった「鳥居清信」(とりいきよのぶ)を始祖とする鳥居派。

しかし当初の役者絵はそもそも「似せて描く」という物ではなく、判で押したように定型的な顔つきで描かれ、書かれている名前や役名、家紋などで役者を区別していました。

そこに現れたのが似顔絵でした。「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)を始祖とする「勝川派」は、役者の個性を巧みに写し取った役者絵を描き一世を風靡。今日一般的に使われる似顔絵という言葉が誕生した瞬間でもありました。

似顔絵のヒットにより、役者の表情を大きく描く大首絵が流行します。芝居小屋では遠くにいて小さくしか見えない役者の似顔絵を大きく描き、さらには舞台裏の日常を描いたりして、熱心なファンの心を掴んだのです。

東洲斎写楽の登場はこうした大首絵の流行期と重なります。彼の似顔絵は、それまでの勝川派などの似顔絵をさらに推し進めて、とにかく役者を写実的に描くことに注力されていました。

はじめの作品は江戸三座(当時は都座、桐座、河原崎座)の夏興行のためにいっせいに売り出したシリーズ物で、役者の顔を大きくありのままに描いた大判大首絵28枚です。

まずは都座の「花菖蒲文禄曽我」(はなあやめぶんろくそが)のために1枚組大首絵を9枚、2枚組大首絵を2組で11点が発表されています。加えて桐座の「敵討乗合話」(かたきうちのりあいばなし)のために1枚組大首絵を6点と2枚組大首絵を1点で7点。

そして河原崎座の「恋女房染分手綱」(こいにょうぼうそめわけたづな)、「義経千本桜」(よしつねせんぼんざくら)のために1枚大首絵を8点、2枚組大首絵を2組で10点を描きました。

すべて塗料に鉱物の雲母を混ぜて地に光沢をもたせる「黒雲母摺」という珍しい手法が使われていた他、いずれも大判(約27cm×約39cm)で発表されたことも特徴と言えます。東洲斎写楽の大首絵はそれまでの役者絵とは一線を画していました。たしかに東洲斎写楽の似顔絵は現代的な感覚からすると写実的とは言えません。

しかし目鼻口の表情などを描くデフォルメされたシンプルな線は、モデルとなった歌舞妓役者の特徴を的確に捉えています。さらには役者の芸や年齢、風格をも写し出し、観る者に役者の心情さえも想像させるのです。なかでも特に絶賛されたのが手の表現でした。

東洲斎写楽の大首絵の中でも、最も人気が高い「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」(さんだいめおおたにおにじのやっこえどべえ)にそれを見ることができます。口を大きく1文字に結ぶ江戸兵衛のどこか哀愁の漂う表情もさることながら、誇張された手の表現が印象的です。東洲斎写楽の魅力が凝縮された1枚だと言われています。

また東洲斎写楽の大首絵では、大首絵と言いながらも上半身を入れている物がほとんどです。顔を大きく描く一方で、身体を小さめに描くことで紙面に手までを収めています。これにより顔の表現にとどまらない、手と上半身の姿勢によるその人物の性格や心境の描写が実現しているのです。

第1期の28枚で描かれているのは、当時の若手や中堅の役者です。当時の人気役者としては3代目「大谷広次」(おおたにひろじ)や6代目「市川団十郎」(いちかわだんじゅうろう)がいました。しかしモデルは「市川富右衛門」(いちかわとよえもん)、「中村此蔵」(なかむらこれぞう)といった中堅や若手に当たる役者でした。

また看板役者が1枚しか描かれていないにもかかわらず、「瀬川富三郎」(せがわとよざぶろう)、「佐野川市松」(さのがわいちまつ)、「坂東善次」(ばんどうぜんじ)といった若手は2枚描かれています。ここには新たなスターを生み出したいという、座元(興行主)や版元の蔦屋重三郎の意向があったとされています。

蔦屋重三郎は、江戸の出版界にその名を轟かせる版元であり、名プロデューサーでした。「蔦重」の名でも知られる蔦屋重三郎は20代にして「吉原細見」(遊郭の案内書)を出版して成功を収め、江戸を代表する地本(娯楽書)や浮世絵の版元となります。

東洲斎写楽のすべての作品は蔦屋重三郎が出版しており、彼を発掘し作品発表の舞台を与えた大恩人と言える人物です。蔦屋重三郎は東洲斎写楽の他にも、喜多川歌麿を発掘して世に送り出しました。

しかし喜多川歌麿の人気が出ると、他の版元が高額で喜多川歌麿に仕事を頼むようになったため、蔦屋の独占状態が崩れてしまいます。そこで蔦屋重三郎が新たなスターとして白羽の矢を立てたのが、他でもない東洲斎写楽だったのです。

東洲斎写楽二人絵 コントラストの妙

東洲斎写楽の大首絵には、1枚に2人の役者が並んでいる、もしくは向かい合っている「二人絵」があります。この二人絵は、もちろん東洲斎写楽より以前にもあった構図ですが、彼の二人絵にはある特徴があります。それは描く2人を対比させているということです。

  • 東洲斎写楽「二代目瀬川富三郎の蔵人妻やどり木と中村万世の腰元若草」(国立国会図書館Webサイトより)

    東洲斎写楽「二代目瀬川富三郎の蔵
    人妻やどり木と中村万世の腰元若草」
    (国立国会図書館Webサイトより)

  • 東洲斎写楽「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の舟宿かな川屋の権」(国立国会図書館Webサイトより)

    「中島和田右衛門の
    ぼうだら長左衛門と
    中村此蔵の舟宿かな川屋の権」
    (国立国会図書館Webサイトより)

例えば、「2代目瀬川富三郎の蔵人妻やどり木と中村万世の腰元若草」にも、その特徴があります。右側に描かれた「やどり木」は、武家の妻で、観る者が受けるのは、スラッとして上品な印象です。

しかしそれを感じられるのは、左の「若草」が腰元でふっくらとして、顔や手の表情も媚びる風に描かれていることによるものでしょう。対比的な構図を効果的に用いていることが分かります。

「二世沢村淀五郎の川つら法眼・坂東善次の鬼佐渡坊」にも対比の構図が見て取れます。描かれているのは「義経千本桜」という演目に登場する2人の僧です。

左には「源義経」(みなもとのよしつね)を狙う悪役・「鬼佐渡坊」(おにさどぼう)が憎らしげに描かれています。

その手は開かれ口も結ばれていますが、右に描かれた源義経を助ける善人・川連法眼の姿は対照的です。手は握られて口も開かれ、2人が全く異なる立場で登場する人物であることが効果的に示されています。

また、「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の舟宿かな川屋の権」で描かれている2人は端役です。

まったく重要な役柄ではなく、それを演じた「中島和田右衛門」(なかじまわだざえもん)も中村此蔵も役者としては売れてはいません。しかしなぜかその2人をペアとして描きました。

この作品でも痩せた役者と太った役者、下がり眉と上がり眉、細目と太目、鷲鼻と獅子鼻と対比的な構図が活用されているのが分かります。

端役を描いた物ではあるものの、この取り合わせは対比的な面白さのある印象深い作品です。

源義経のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

大首絵から全身像へ方向転換を図った第2期

デビューから2ヵ月経った1794年(寛政6年)の7月、東洲斎写楽は秋興行のために第2弾の作品群38点を発表します。これがいわゆる第2期の作品ですが、大首絵28点を送り出した第1期とは、全く違う形式で制作されました。

衝撃をもって迎えられた首から上を大迫力で描いた大首絵は1点もなくなり、すべてが全身像になりました。また、下位の役者を主に描いた第1期とは違い、第2期では描かれた役者も人気役者が多くなっています。

この方針転換には、版元の蔦屋重三郎の意図があると見られています。第1期のようなインパクトは少なくなくなりましたが、代わりに見られるのは技術的な熟練です。

また大判だけではなく、細長い「細判」(約16cm×約33cm)でも描かれた他、28枚すべて大判で贅沢に「黒雲母摺り」を採用していた第1期とは違い、大判7点のみを「白雲母摺り」にし、コスト面でも見直しが図られています。

東洲斎写楽、突然の変容と衰退

第3期 最も多作ながら、作品の質が低下

1794年(寛政6年)11月の顔見世興行と、翌月(閏11月)の都座の興行のために描いたのが「第3期」。58点もの役者絵の他に、亡くなった俳優を追悼する「追善絵」(2代目市川門之助)や、相撲絵(怪童・大童山)を描いています。

この時期には「間判」(約23cm×約33cm)というサイズの作品が登場した他、背景が描かれるようになりました。また描かれる役者も無名の役者ではなく、人気の看板役者中心になっています。しかし残念なことに、世間を騒がせた東洲斎写楽の個性はなりをひそめ、作品の質の低下がささやかれるようになります。

第3期における最大の変化は、役者個人の特徴を写実的に描く東洲斎写楽の画法ではなく、勝川派の伝統的な様式に寄せて描いたことです。この方針転換により、生々しく役者の人間性を写し出した魅力は失われてしまいました。

後世の評価が高い、のびのびと個性を発揮して作られた第1期に対して、2期、3期は、世間や役者、関係者の反応を受けて軌道修正を繰り返した苦悩が見て取れます。ほとばしるような個性が失われ、それに伴って作品の質も低下していったのです。

また、この頃になると作品で役者名を誤記するなど明らかな間違いも増えるようになりました。このような質の低下から、第3期以降は別人もしくは工房形式により集団で作るようになったのではないかと考える研究者もいます。

真偽は定かではありませんが、東洲斎写楽の人気と輝きが損なわれつつあったことは確かです。名プロデューサー蔦屋重三郎の手によって一瞬の輝きを放った東洲斎写楽ですが、その足並みは揃わなくなり、さらに迷走してゆくことになります。

異色の東洲斎写楽作品 相撲絵「怪童・大童山文五郎」

役者絵で迷走していたこの時期、東洲斎写楽は珍しく相撲絵を描いています。と言っても、描いたのは大相撲の力士ではなく当年7歳のちびっこ力士「大童山文五郎」(だいどうざんぶんごろう)です。大童山は出羽国出身で7歳、身長126cmながら体重は71kgと、人並み外れた巨体で「怪童」と呼ばれ評判となっていました。

もちろん実際に大人の力士と相撲を取るわけではありませんが、江戸の土俵にデモンストレーション的に土俵入りを演じて話題になったのです。この大童山は多くの浮世絵師に描かれています。東洲斎写楽も大童山の土俵入りを描き、同時に当時の力士達の姿も描きました。

芝居絵で迷走していた東洲斎写楽が、他のジャンルに手を染め始めていたことが分かります。実際、相撲絵の他に武者絵も2枚残しています。

第4期 迷走の果てに 「東洲斎写楽」の終焉

1795年(寛政7年)、東洲斎写楽は正月興行のために10数点の作品を発表しました。しかし、これらの作品は今日では非常に低い評価を受けています。

線描は荒く、情感も少なく、明らかな間違いも多くなっており、第1期のときにみせた目がくらむような輝きは失せてしまいました。そしてこの第4期の作品群を最後に、東洲斎写楽は作品を描くことをやめ、浮世絵の表舞台から消え去ってしまったのです。

「東洲斎写楽」もうひとつの大きな謎

東洲斎写楽、もうひとつの謎

1794年(寛政6年)から翌年にかけて活躍し、約150点の作品を残して忽然と消えていった東洲斎写楽。長く謎とされていた東洲斎写楽の正体ですが、先に述べた通り、現在では阿波徳島藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛であるというのが定説となっています。

ところが、彼にはまだ分かっていないことが多くあります。その最たるものが、「なぜ、東洲斎写楽は短期間で姿を消してしまったのか」というものです。この謎を解く鍵は、1846年(弘化3年)に発行された「堀田甚兵衛」(ほったじんべえ)著の「江戸風俗惣まくり」にあります。

東洲斎写楽といふ絵師の別風を書き顔のすまひのくせをよく書たれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれける

つまり「東洲斎写楽という絵師は、それまでの絵師とは異なる画風で、顔の特徴をよく捉えて描いたけれど、役者達には「艶色を破る」ということで嫌われてしまった」と言うのです。

華々しいデビューの裏側で広がった役者達からの不評こそ、東洲斎写楽が筆を置くに至る要因だったと考えられます。では、役者達の逆鱗に触れた「艶色を破る」ということは、一体どういう意味なのでしょうか。

「あまり真を画かんとて、あらぬさまに」

東洲斎写楽の創作姿勢についての証言をもうひとつ紹介します。東洲斎写楽とほぼ同じ時代を生きた戯作者の大田南畝は、東洲斎写楽について次のように語りました。

これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む

この評も先の評と重なるところがあります。東洲斎写楽は真に迫ったものを描こうとしており、その特徴を捉える技術は誰もが認めることでした。しかしその高い技術はときに「あらぬさま」=「あってはいけないように」役者を描いてしまうことさえあったのです。

端的にいえば、東洲斎写楽は役者絵を描く絵師としてタブーに触れてしまいました。例えば「女形」の役者絵を描くとき、勝川派などの浮世絵師は、贔屓のファンに喜ばれるように「美化」して描いていました。

そもそも舞台の上は遠くてはっきり見えません。よく見えない役者の顔を、もっと近くで大きく見たいというファン心理をくすぐるために描かれたのが大首絵でした。それを前提にすれば、女形の役者絵を美しく色っぽく描くことこそ浮世絵師の仕事に違いありません。

芝居絵の祖・鳥居派の時代には、本物の女性を描いた美人画と同じように女形の役者絵を描いていましたし、勝川派の似顔絵でも、現実の姿をそのまま描くよりもファンが見たい姿を描いてきました。ところが、東洲斎写楽の似顔絵は違いました。

彼は、間近で見た女形の姿を、美化せずに、ありのままに「真」に迫ったものを描こうとしたのです。当然、そこに描かれるのは女性ではなく、男性の骨格を持った「女装した男」の姿でした。

東洲斎写楽らしいデフォルメこそ施されていますが、そこに描かれているのは役=キャラクターではなく、役者=人間でした。それゆえ、本来の大首絵に求められた印象とは正反対の印象を観る者に与えてしまいます。さながら、舞台上で美しく舞い踊る女形も近くで見たらこう見えてしまうという現実を突き付ける作品となってしまいました。

ステージ上の役者にかかった魔法あるいは幻想のようなものを取り除き、ファンを「幻滅」させる物であったのです。のちに世界的に評価される東洲斎写楽の渾身の大首絵ですが、このトラブルによりその後描かれなくなり、方向転換を余儀なくされることとなります。

こうして東洲斎写楽と蔦屋重三郎の迷走が始まることになったのです。

海外から国内へ、高まる評価

国内での影響 江戸時代

東洲斎写楽の第1期作品は、現在に残っている数からしてかなりの数が摺られたヒット商品となったことは間違いありません。しかしそれは一過性のブームとしてすぐに落ち着きました。そのあとは役者からの不評もあって、版元である蔦屋重三郎とともに次なる一手を探し求めることになります。

しかし、東洲斎写楽のこれらの作品は、同業者である絵師や文筆家などに少なからぬ影響を与えました。「十返舎一九」(じっぺんしゃいっく)の「初登山手習方帖」(しょとうざんてならいじょう)という書物には、東洲斎写楽の「市川鰕蔵の暫」(いちかわえびぞうのしばらく)が描かれた凧が登場しています。と言って、東洲斎写楽の絵が凧として売られたわけではありません。

そもそも版画はブロマイドやポスター的な使われ方だけでなく、購入者の手で障子や襖、壁、団扇など様々な物に貼られていました。凧にするのもそうした一般的な楽しみ方のひとつでした。また栄松斎長喜の美人画「高島ひさ」には、女性が持っている団扇に東洲斎写楽の「松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛」(まつもとこうしろうのさんやのさかなやごろべえ)が描かれています。

栄松斎長喜は東洲斎写楽の影響を受けた絵師の1人であり、「東洲斎写楽が斎藤十郎兵衛」であるという証言を残した人物です。

「稗史億説年代記」写楽は右上に孤島として書かれている(国立国会図書館ウェブサイトより)

「稗史億説年代記」
写楽は右上に孤島として書かれている
(国立国会図書館ウェブサイトより)

このように東洲斎写楽は、同時代の絵師にも無視できない強い印象を与えていました。

式亭三馬の「稗史億説年代記」(くさぞうしこじつけねんだいき)には、当時の浮世絵各派を地図に模した図があります。その中で東洲斎写楽は孤島として描かれました。

浮世絵師諸画派とは異なる、独自の流れを持つ絵師であり、と言って書き込まない訳にもいかない独自の地位を得ていたのです。

東洲斎写楽に弟子はいなかったとされます。

しかし「歌舞妓堂艶教」(かぶきどうえんきょう)、「歌川国政」(うたがわくにまさ)、「水府豊春」(すいふとよはる)らの作品に彼の影響が見られます。

東洲斎写楽を認める人々、認めない人々

西洋で浮世絵が知られるようになったのは、浮世絵が盛んに輸出されるようになった19世紀の中頃からのこと。ゴッホやマネ、モネ、ロートレックらが浮世絵を称賛し、西洋の美術家に多大な影響を与えましたが、一方で国内での評価は依然低いままでした。のちに芸術作品として世界的に知られることになる東洲斎写楽作品もその例に漏れません。

それ以前には日本国内での評価は低く、再評価されるのは明治末にユリウス・クルトがSharakuを刊行し、それが大きな反響を呼んだのちのことです。

フェノロサ

フェノロサ

Sharakuが刊行された1910年(明治43年)に先んじて、東洲斎写楽に言及した美術研究者もいます。岡倉天心とともに東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に尽力し、日本における美術教育の種を播いたアメリカ人美術研究者のフェノロサです。

1898年(明治31年)に、「浮世絵展覧会目録」へ寄せて「東洲斎写楽は荒怪なる天才なり」と特異な才能を認めつつも、「東洲斎写楽の作は醜陋[しゅうろう]を神として祭れるにて、したがって衰頽中最も衰頽せる物なり」というように、彼を異端の芸術家、浮世絵界のアウトサイダーとして見ていたことが分かります。

また、欧州での東洲斎写楽ブームも限定的なものでした。フェノロサは東洲斎写楽がアメリカでは理解されず、フランスでは高い評価を受けているとも述べています。また、浮世絵の研究家でもあったジャーナリストの宮武外骨(みやたけがいこつ)も次のように眉をひそめます。

東洲斎写楽は誰の門人ともつかず、(中略)剽軽な似顔絵を描いた人である。この雲母絵を外人が好いて1枚数十円に買取るはなぜであるか分らないと云ふ人が多い。我輩もこんなものに高価を払ひたくないので、東京酒井好古堂の模刻物を集めて満足してゐる

外国人が持て囃す東洲斎写楽を「こんなもの」と揶揄しています。フェノロサにしても宮武外骨にしても、東洲斎写楽ブームそのものは把握していました。

しかしその美的価値には同意しかねており、その高評価には納得していません。それでも注目を集めていることから、それぞれ東洲斎写楽の評価を固め、模刻物を収集するなどの対応を図っていました。Sharakuの刊行よりは遅れますが、1921年(大正10年)に文学者の内田魯庵(うちだろあん)も雑誌「日本及日本人」で次のように酷評します。

我々の眼から十銭か十五銭の値しかない錦絵が、欧羅巴(ヨーロッパ)では何十円、何百円もしている。欧羅巴人が讃賞する日本人は伊藤博文公爵でも東郷大将でもない。夫(それ)より以上に歌麿が讃美され、春信が詠嘆され、東洲斎写楽が驚嘆されている。(略)此の如き浅薄野卑な江戸趣味の錦絵が、日本文明を代表していると思って有頂天になっている日本国民は不甲斐ない話だ。

当時の「知識人」であった内田魯庵にしてみても、浮世絵は「浅薄野卑」な時代遅れの物でした。しかし宮武外骨や内田魯庵がこれらの発言をしたのとほぼ同時期の1910年(明治43年)に欧州でのブームはついに爆発的流行に変わります。

ユリウス・クルトが研究書Sharakuを発表したことで、東洲斎写楽作品の価値が急騰したのです。その影響で、大正時代には国内の美術界でも東洲斎写楽研究が盛んになります。

その先鞭を付けたのは1925年(大正14年)に「仲田勝之助」(なかだかつのすけ)、1930年(昭和5年)に「野口米次郎」(のぐちよねじろう)が刊行した東洲斎写楽の研究書です。

一方、外国人による東洲斎写楽研究も増加していきます。1932年(昭和7年)にはルンプフが研究書を上梓し、1939年(昭和14年)にはヘンダーソンとレデュ―が日本側の研究者と協力しつつ東洲斎写楽研究の基礎を完成させました。

現在では浮世絵の本国である日本が牽引しています。しかし東洲斎写楽をめぐる多くの謎は海外の研究者と日本の研究者が力を合わせて、あるいは競い合いながら解き明かしてきたということは間違いありません。

今も海外に埋もれる「東洲斎写楽」の作品

現在、東洲斎写楽の作品は全世界に散らばっています。明治以降海外での大ブームにより作品の多くが海外に流出したためです。

東京国立博物館にも約70点が保存されていますが、その他の主要な保存状況としては、ボストン美術館に約70点、シカゴ美術館とニューヨークのメトロポリタン美術館にそれぞれ40数点、フランスのギメ美術館に20数点、ロンドンの大英博物館に27点という状況です。この他にも世界の美術館に収蔵されている他、個人蔵もあります。

このように作品が世界中に散っているため、研究者がその全作品を確認するのが難しい状況です。そのため今後も個人蔵で未発見だった東洲斎写楽作品が見つかるかもしれません。

実際、1970年(昭和45年)にベルギー王立美術博物館で2枚の未発見東洲斎写楽作品が見つかり、1974年(昭和49年)にはロンドンのオークションで「相撲絵」が発見されました。さらに2008年(平成20年)、全世界を驚かす「新発見」がありました。

東洲斎写楽の肉筆画がギリシャの世界遺産の島・コルフ島にある国立コルフ・アジア美術館で発見されたのです。この美術館にはウィーン駐在ギリシャ大使のマノス氏が収集した10,000点を超える美術品が人目に触れることなく秘蔵されていました。

そこで日本の研究者による学術調査が行なわれ、東洲斎写楽の肉筆画(扇画面)の他、喜多川歌麿、葛飾北斎、「狩野探幽」(かのうたんゆう)らの作品が発見されたのです。

しかもこの作品は1795 年(寛政7年)5月、すなわち東洲斎写楽が筆を折り忽然と表舞台から消えた4ヵ月後の作品とみられています。この発見には疑義を呈する声もあり時期は確定してはいません。もしこれが正しければ、活動期間の変更をも含む東洲斎写楽研究の根本的な部分からの修正も必要になります。現在でもなお、東洲斎写楽は謎の多い浮世絵師です。作品の全貌はいまだにつかめておらず、今後の発見や研究次第では、これまでの研究内容が大きく書き換わる可能性も残されています。

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東洲斎写楽

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