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月岡芳年

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江戸時代を代表する浮世絵師が「葛飾北斎」や「歌川広重」だとすれば、明治時代を代表する浮世絵師が「月岡芳年」(つきおかよしとし)。歌舞伎の残酷シーンや「戊辰戦争」の戦場等を題材にした無残絵から「血まみれ芳年」の2つ名で知られます。
月岡芳年は、その2つ名の陰で、ジャンルを問わず幅広い題材をテーマにした多作の絵師として、幕末から明治期の浮世絵界をリードしました。そんな月岡芳年の生涯や数々の傑作をご紹介します。

月岡芳年の生涯

月岡芳年

月岡芳年

月岡芳年は、江戸で生まれ東京を生き、精神的な病を抱えながらも亡くなる直前まで絵筆を握り続けた浮世絵師です。

江戸末期の人気浮世絵師「歌川国芳」(うたがわくによし)の弟子となり、15歳で武者絵を発表して浮世絵師としてデビュー。

27歳で兄弟子と共作した「英名二十八衆句」(えいめいにじゅうはっしゅうく)では、歌舞伎の残酷な場面を描き、初期の代表作となります。

その後は上野戦争、西南戦争をテーマとした作品や、歴史画、新聞錦絵、美人画、妖怪画など多彩なジャンルで活躍。54歳で逝去するまで多くの傑作を残しました。

一説によれば、その作品数は1万点にものぼると言われています。

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江戸新橋南大阪町に生まれる

月岡芳年の本名は「吉岡米次郎」(よしおかよねじろう)。1839年(天保10年)、江戸新橋の南大阪町に生まれました。

父の名は「吉岡兵部」(よしおかひょうぶ)ですが、1865年(慶応元年)までに伯父である「京屋織三郎」(きょうやおりさぶろう)へ養子入りします。

また、のちに大叔父にあたる画家「月岡雪斎」(つきおかせっさい)の姓を継ぎました。

月岡芳年は2度結婚をしており、最初の妻との子を2歳で亡くすものの、そのあとに2人目の妻・坂巻泰(さかまきやす)と結婚し、その連れ子「きん」と「耕漁」を養子としています。

月岡芳年の師「武者絵の国芳」

歌川国芳

歌川国芳

月岡芳年は歌川派の浮世絵師であり、師匠は江戸時代後期に活躍した歌川国芳です。

歌川国芳は1797年(寛政9年)江戸日本橋生まれ、「歌川豊国」(うたがわとよくに)のもとに入門し18歳で浮世絵師としてデビューした人物。

近年は猫を題材とした作品や、ポップアートのようなユーモラスな作品で人気を博していますが、当時は武者絵で名を馳せていました。

歌川国芳が人気浮世絵師の1人となるに至った出世作は、中国の豪傑を描いた武者絵「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」(つうぞくすいこでんごうけつひゃくはちにんのひとり)です。

このシリーズのヒットにより、人気浮世絵師の1人として名を馳せます。

その後も力強い描線と迫力、躍動感のある画風で武者絵シリーズを多く手掛け「武者絵の国芳」と称されるほどの評価を得つつ、風景画、美人画、風刺画など幅広いジャンルで腕を振るいました。

12歳で国芳の門をたたく

月岡芳年が歌川国芳の門をたたいたのは1850年(嘉永3年)。月岡芳年12歳の頃です。

浮世絵師としてのデビュー作は、1853年(嘉永6年)に刊行された武者絵の3枚続「文治元年平家の一門亡海中落ち入る図」でした。

しかし、この処女作ののち4年ほど作品が発表されておらず、版元に祝儀金を入れる自費出版のような刊行だった可能性が高いと言われています。

この頃の画号は「一魁斎」(いっかいさい)で、年齢は15歳という若さでした。画業の初期には、役者絵、武者絵などを多く手掛けますが、多くの浮世絵師の初期の作品がそうであるように、師匠・国芳の画風が色濃く反映されています。

ちなみに月岡芳年は入門前に、江戸後期に開かれ「呉春」(ごしゅん)を祖とする日本美術の一派・「四条派」の絵師に弟子入りしたと言われています。

初期こそ武者絵や血みどろ絵で有名ですが、浮世絵に限らず絵画の技法を熱心に学んでいたとされ、中期以降はその鍛錬の賜物と言える独自の画法で歴史画の代表作を生み出します。

1865年(慶応元年)頃には、「月岡魁斎月岡芳年」、「月岡芳年」の署名があり、この頃までに月岡の姓を継ぎました。

無残絵「英名二十八衆句」などを手掛ける

月岡芳年は、処女作から5年あまりが経った1858年(安政5年)に刊行された「江戸の花子供遊の図」を皮切りに、武者絵や妖怪画、故事を題材とした物など多くの作品を発表します。

なかでも1864年(元治元年)に、初めて本格的な物語絵の揃物「通俗西遊記」を刊行して注目を浴びました。すでに日本で読本として翻訳されていた中国の「西遊記」ですが、錦絵シリーズとして刊行されたのは本作が初めてとされます。

その躍動的なシーンと緻密な画面構成は、月岡芳年の確かな筆力を感じさせます。

また、月岡芳年が27歳になる1865年(慶応元年)頃には、揃物の発表が相次ぎます。最初の揃物で妖怪をテーマにした「和漢百物語」(わかんひゃくものがたり)、歌舞伎や講談を題材とした「英名二十八衆句」などを立て続けに発表しました。

「和漢百物語」とは言わば怪談集のことで、日本と中国の怪奇談や妖怪伝説を描いた全26図が確認されています。

題材は当時親しまれていた読本から取材した作品が最も多く、図柄は江戸中期の読本「絵本太閤記」や、それに基づいて描かれた歌川国芳の作品「菊池容齋」(きくちかんさい)画の「前賢故実」(ぜんけんこじつ)などを拠りどころとしました。

人物の誇張された筋肉描写をはじめ、なおも師の画風が強く踏襲された作品です。

兄弟子「落合芳幾」(おちあいよしいく)と競作した「英名二十八衆句」は、後世に残る「血みどろ絵」・「残虐絵」の代表作となりました。

これは、師・歌川国芳が手がけた全10図の「鏗鏘手練鍛の名刃」(さえたてのうちきたえのわざもの)をヒントに制作された、歌舞伎や講談を題材とした全28点の揃物。月岡芳年と落合芳幾の2人はそれぞれ半数の14枚ずつを担当しました。

この作品が月岡芳年の出世作に。歌川国芳の「鏗鏘手練鍛の名刃」では、直前に起きていた闘争を連想させるようなシーンが描かれるにとどまっています。

しかし「英名二十八衆句」は、凄惨な血とともに殺人や残虐なシーンを描いたおどろおどろしい物で、目を背けたくなるようなグロテスクな描写を試みています。

明治初期の不安定な時勢が反映されたこの作品は、月岡芳年の名を世に広く知らしめました。1865年(慶応元年)に発行された「江戸歳盛記」の人気浮世絵師ランキングで、月岡芳年は第10位に選ばれています。

戊辰戦争と月岡芳年

月岡芳年は、江戸から明治という未曾有の転換期を生きました。

1868年(慶応4年/明治元年)1月の「鳥羽伏見の戦い」をきっかけに、薩摩藩長州藩を中心とした新政府軍と東北諸藩を中心とした旧幕府軍による戊辰戦争が勃発。

同年5月には、旧幕臣で結成された彰義隊(しょうぎたい)と新政府軍が衝突する上野戦争も起こりました。内戦はおよそ1年5ヵ月続き、月岡芳年は30歳前後でこれを経験することになります。

その戊辰戦争を題材として制作したのが、「魁題百撰相」(かいだいひゃくせんそう)です。

このシリーズの制作にあたって、月岡芳年は上野戦争の取材に赴き、新政府軍の前に敗れゆく彰義隊の姿を取材しました。月岡芳年が取材した勇士達の姿は歴史上の人物に見立てられ、全65作品に描き残されます。

実際に死を目の当たりにしたためか、残虐絵の一種とは言え「英名二十八衆句」のような血みどろの作品は少なく、死のリアリティが際立つ作品です。

この作品も高い評価を得ており、月岡芳年の代表作のひとつとなりました。

1868年(慶応4年/明治元年)に発行された「東京歳盛記」では、浮世絵師の番付で4位になっており、月岡芳年が絵師として確固たる地位を確立していたことが分かります。

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精神の病から復活

1872年(明治5年)に「魁題百撰相」を発表して間もなく、34歳の月岡芳年は一時精神を患います。「英名二十八衆句」を手掛けて以来、人気浮世絵師となった月岡芳年には仕事が急増したため、自由な時間を失って神経をすり減らしてしまったのです。

幸い翌年に快癒すると、大きく蘇えるという意味を込めて画号を「大蘇」と改め、新聞錦絵など新たなジャンルの作品に精力的に取り組み始めました。

月岡芳年が師匠・歌川国芳風の画風から脱し、独自の画風を模索し始めたのもこの時期のこと。月岡芳年は、人物を描くにあたって写生を重視していました。

刑に処された下総国佐倉藩名手「佐倉惣五郎」(さくらそうごろう)を描く依頼を受けた際には、実際に弟子を柱に縛り付けたというエピソードが残されています。

西南戦争錦絵を多く手掛ける

1877年(明治10年)2月、明治政府に不満を募らせていた薩摩士族が新政府軍の拠点である熊本城へ侵攻し、「西南戦争」の火蓋が切って落とされました。

当時の英雄の1人である「西郷隆盛」が指導者だったこともあり、この戦争は人々の大きな関心を集めます。新聞で取り上げられると共に、膨大な数の錦絵によっても報じられました。

これらの錦絵は「西南戦争錦絵」と呼ばれる作品群を構成しています。

「西南戦争錦絵」には複数の浮世絵師が関与しましたが、そのなかでも月岡芳年は、武者絵の定評とその人気によってか、最も多くの西南戦争錦絵を手掛けました。

例えば、薩摩軍が50年来の大雪の中で旧鹿児島街道の難所「三太郎峠」越えに挑む「鹿児島暴徒出陣図」(かごしまぼうとしゅつじんず)。

西南戦争で敗れた西郷隆盛が切腹しようとする場面を描いた「西郷隆盛切腹図」(さいごうたかもりせっぷくのず)、「篠原国幹」(しのはらくにもと)や「村田新八」(むらたしんぱち)といった薩摩軍の主要な人物を描いた物など、多数を描いたのです。

月岡芳年は、現地で取材をして描いたわけではなく、東京にいながら戦地の様子を錦絵で伝えました。そのなかには彼の想像力の成した業が目立ちます。

例えば、巨大な魚に乗る西郷隆盛という奇怪な図が強烈なインパクトを与える「隆盛龍城攻之図」を見てみましょう。

安政の大獄で西郷隆盛と共に身投げした僧・月照の霊が魚達を味方に付け、西南戦争で戦死した西郷隆盛の霊と共に龍王のいる竜宮城に攻め入るという設定の作品です。

「西郷隆盛霊幽冥奉書」(さいごうたかもりのれいゆうめいにほうしょす)は、すでに逝去していた西郷隆盛を単身幽霊として描いた物です。集団の戦闘シーンが多い西南戦争錦絵のなかでも珍しい題材であり、正面を向いた人物象の構図も特徴的です。

同時期には初めての美人画半身図「見立多似尽」(みたてたいづくし)、歴史上の人物を描いた「大日本名将鑑」(だいにっぽんめいしょうかん)なども手掛けています。

写実的な人体描写が特徴の独自な画風が、月岡芳年の作品に現れ始めたのもこの頃です。

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新聞という新たなメディアでの活躍

やまと新聞付録「近世人物誌」(国立国会図書館ウェブサイトより)

やまと新聞付録「近世人物誌」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

写真や活版印刷の登場によって浮世絵が陰りを見せるなか、明治時代の浮世絵師が活躍する場のひとつとなったのが新聞でした。

新聞は、瓦版の役割を引き継ぎながらも定期性や迅速性を併せ持った新たなメディアとして庶民に浸透していきます。

日本初の日刊紙は、1872年(明治5年)に創刊した「東京日日新聞」。

戯作者の「条野採菊」(じょうのさいぎく)、月岡芳年の兄弟子である落合芳幾、貸本屋番頭の「西田伝助」らが共同で創刊しました。

続けて「郵便報知新聞」が創刊され、月岡芳年はこの挿絵を担当します。

また月岡芳年は、同紙で掲載された記事をもとにしたテキスト入りの浮世絵「錦絵新聞」も制作。

その後、1882年(明治15年)には「絵入り自由新聞」に迎え入れられます。月給100円と、当時としては破格の厚遇でした。

さらに月岡芳年は、「自由燈」「やまと新聞」でも挿絵を担当。特に1886年(明治19年)に創刊した「やまと新聞」では創刊当初より筆を執り、噺家「三遊亭円朝」(さんゆうていえんちょう)の創作人情噺の連載に挿絵を提供します。

円朝の有名な怪談「真景累ヶ淵」(しんけいかさねがふち)も連載され、これが大変な人気を得たのです。また同紙では、定期購買者向けに月岡芳年の錦絵を付録として配布していました。

当時話題の人物や幕末・明治初年の人物を中心に近世の実在の人物を描いた錦絵「近世人物誌」がその付録です。

爆発的な人気で購買者が予想以上に増えたために、元々月に2~3回配布する予定だったのが実際には月1回の配布になってしまったというエピソードが伝わっています。

複数の新聞に挿絵を提供していたことと合わせて、月岡芳年の当時の人気ぶりが窺える逸話です。

浮世絵を脱する

月岡芳年は「最後の浮世絵師」とも称されます。彼は死の直前まで浮世絵制作に熱心に取り組んでいますが、絵師としての歩みもその作品も、実は浮世絵の枠にとどまらなかったのです。

例えば月岡芳年は、洋風絵画によく見られる明暗や逆光といった技法を、錦絵に積極的に取り入れています。また、新聞挿絵はカメラアングルのような構図で描くこともありました。

劇画のような独特の構図も当時は目新しい物で、浮世絵に欧化や近代化の波を取り入れた新たなスタイルを牽引したのです。

また、月岡芳年は肉筆画も制作していました。なかでも有名な作品のひとつが、1882年(明治15年)に開催された第一回内国絵画共進会へ出品した肉筆画「藤原保昌月下弄笛図」(ふじわらのやすまさげっかろうてきず)です。

ただ1人笛を吹きながら歩く藤原保昌を盗賊の首領が狙うも、まったく隙がなく、攻め入ることができないという場面が描かれた作品。のちに大判3枚揃の錦絵としても刊行されました。

絵画共進会の記録によると、このとき月岡芳年は出品区分を「浮世絵」の第4区ではなく「諸々の流派に属さないもの」の第6区に出品しています。

この展覧会には他の浮世絵師も作品を出品していましたが、すべての絵師が第4区に出品していました。月岡芳年がそうしなかったのは、時勢を感じ取り、浮世絵の枠を超えようと意図していたからなのではないかとも考えられます。

このように挑戦的な気風であった月岡芳年は、常に絵師としての研鑽を怠りませんでした。

彼の画廊には江戸狩野派、四条派の紛本(ふんぼん:研究や制作の参考とするために模写した絵画)が収蔵されていたと言われます。かつて葛飾北斎などもそうであったように、浮世絵以外の様々な物から貪欲に画法を学んでいたのです。

月岡芳年の弟子である「水野年方」(みずのとしかた)や「尾形月耕」(おがたげっこう)は、いずれも木版画以外に日本画でも活躍した絵師。

さらに水野年方から弟子の「鏑木清方」(かぶらぎきよかた)、清方の弟子の「伊東深水」(いとうしんすい)へと、月岡芳年の画系は受け継がれます。

月岡芳年が浮世絵に真摯に取り組みながらも浮世絵の枠を超えようと試みたことで、弟子達が日本画の世界で活躍する基礎を築いたのです。

晩年は文学を題材とした傑作を次々に発表

月岡芳年はその晩年には、和漢の物語や故事など文学を題材とした作品へ熱心に取り組みます。また、独自の画風を完成させ、絵師としての円熟期を迎えたのもこの頃です。

1885年(明治18年)発行の「東京流行細見記」では、ついに浮世絵師番付で首位の座に立つなど絵師としての絶頂期を迎え、数々の傑作を発表しました。

同じ年に刊行された「新撰東錦絵」(しんせんあずまにしきえ)は、講談や講釈、巷説に取材した全23図の揃物。整然とした構図、大判2枚続の画面を活かした奥行きのある背景や写実性の高い人物描写が印象的で、さながら映画のひとコマを観ているような感覚を与えてくれます。

新形三十六怪撰 源頼光土蜘蛛ヲ切ル図(国立国会図書館ウェブサイトより)

新形三十六怪撰 源頼光土蜘蛛ヲ切ル図
(国立国会図書館ウェブサイトより)

また、1885年(明治18年)より刊行された「月百姿」は、月岡芳年の画業の集大成と言える作品。

和漢の物語や伝承を月と共に100図描いた揃物で、淡い色彩やぼかしを多用した表現が見られます。

円山四条派の筆法や構図、画題が取り入れられているのも特徴で、絵師として浮世絵の枠にとどまらずに研鑽した成果が結実した作品として高く評価されました。

さらに怪奇画の集大成と言える作品が、1889年(明治22年)年刊行の「新形三十六怪撰」(しんけいさんじゅうろくかいせん)。

歌舞伎、浄瑠璃、謡曲、伝説、民話、史譚などから幅広く題材を取り上げ、幽霊や妖怪などを描いた36図の揃物で、月岡芳年の長年に亘る構想の末に完成をみた傑作です。

シンプルな構図に繊細な描線、計算されつくされた色彩など、怪奇画と言えども観る者に洗練された印象を与えます。

この「新形三十六怪撰」の完成前に、月岡芳年は逝去。精神の病が再発し、悪化しての死だったと伝えられており、同作は弟子達の助筆によって完成されました。

月岡芳年と無残絵

数多くの作品を残した月岡芳年ですが、最も有名な作品と言えばやはり「血みどろ絵」「無残絵」です。作品自体のインパクトの強さはもとより、没後に「三島由紀夫」「江戸川乱歩」「芥川龍之介」など多くの文人達を魅了したことも、「血まみれ芳年」の異名を取る理由となりました。

しかし、意外にもそのような残虐絵の数は限られています。「血みどろ絵」と言われる揃物としては、「英名二十八衆句」「魁題百撰相」「東錦浮世講談」(あずまにしきうきよこうだん)の3作品しかありません。

またこの3作品の刊行時期は、1866年(慶応2年)から1869年(明治2年)までのわずか4年間。

血みどろ絵の特徴自体はこの3作品以外にも散見されますが、その多くはまさに江戸から明治へと時代が移り変わる激動期、明治維新で多くの血が流れていた最中に生まれた物なのです。

血みどろ絵は月岡芳年の個人的な趣向ではなく、このような時代背景のなかで版元の意向に沿って描かれた物と考えるべきでしょう。

最も残虐な浮世絵「英名二十八衆句」

前述したように、血みどろ絵の代表作と言えば兄弟子の落合芳幾と共作した「英名二十八衆句」。歌舞伎や講談を題材とした全28点の揃物で、それぞれに俳句を入れた短冊と略伝が記されています。月岡芳年と落合芳幾はそれぞれ半数ずつの14枚を担当しました。

作品の多くに大量の血や生首を含む殺人や残虐なシーンが描かれており、なかには目をそむけたくなるようなものも含まれます。

しかし、一度観たら忘れられないインパクトを鑑賞者に与える作品には違いありません。

なかでも「直助権兵衛」は「東海道四ツ谷怪談」を題材とした作品で、希有の悪人直助権兵衛(なおすけごんべえ)が、男の皮を剥ぐなんともショッキングな場面が描かれています。

「英名二十八衆句」は、師・歌川国芳の全10図の「鏗鏘手練鍛の名刃」に触発された作品でもありますが、同材を描いた作品はそう多くなく、全部で5図しかありません。そのなかで月岡芳年が担当したものは、わずか3図。

そのひとつが「福岡貢」です。福岡貢は、伊勢の妓楼で男女が殺傷された「油屋騒動」を脚色した男女の愛憎劇である歌舞伎「伊勢音頭 恋寝刃」を題材としています。

歌川国芳の作品では殺人を行なった貢が放心状態でいるシーンを描いていますが、月岡芳年は遊女の生首が転がっている生々しい様子を描きました。

戊辰戦争を題材にした「魁題百撰相」

「魁題百撰相」(かいだいひゃくせんそう)は、戊辰戦争で新政府軍の前に敗れゆく彰義隊の姿を、歴史上の人物に見立てて描いたシリーズ。

月岡芳年自らが実際に戦地に赴き取材・写生したと伝えられており、その取材に裏付けられた凄惨な表現が観る者に迫る作品です。

歴史に見立てているのは、当時、錦絵に時事を描くことが禁止されていたため。人々は、「魁題百撰相」の見立てを読み解いて楽しみました。

例えば、「金吾中納言秀秋」(きんごちゅうなごんひであき)に描かれているのは、越前敦賀(えちぜんつるが)の大名「大谷吉継」(おおたによしつぐ)の霊と、それに怯える「小早川秀秋」(こばやかわひであき)。

元々豊臣秀吉の養子でありながら「関ヶ原の戦い」で、西軍(豊臣軍)を裏切り、東軍(徳川軍)に寝返りました。そんな小早川秀秋が真っ先に裏切ったのが大谷吉継だったのです。

一方、戊辰戦争鳥羽・伏見の戦い)では、「藤堂高猷」(とうどうたかゆき)が幕府側から新政府軍に寝返り、幕府軍は敗北。本作にはその一件を仮託したとされています。

続いて、「会津黄門景勝」(あいづこうもんかげかつ)は、「上杉謙信」の養子で豊臣政権を支えた、会津藩藩主「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)のこと。

勇猛な上杉景勝らしく打ち取った首を敵の物か確かめる「首実検」(くびじっけん)の場面が描かれ、絵の左上には「関ヶ原の戦い」に挙兵した上杉景勝の武勇についての詞書(ことばがき)も見られます。

これらは「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の戦いのひとつ「会津戦争」に見立てられたものです。

上杉景勝の陣羽織(じんばおり)の文様は上杉家の「上杉笹」ではなく「六つ葵」であることから、上杉景勝にかこつけ描かれているのは会津藩9代藩主「松平容保」(まつだいらかたもり)であると見て取れます。

そして、差し出されている首は、会津戦争のきっかけとなる事件で殺害された、官軍の長州(現在の山口県)藩士「世良修蔵」(せらしゅうぞう)と推測されています。

しかし、上でも述べた通り、悲惨な死を間近で見たためか「英名二十八衆句」と比べると露骨な生々しい表現は抑えられています。

題材も「血みどろ」の現場ばかりではなく、静寂とともに死を伝える作品も目立ちます。

題材のひとつとなった駒木根八兵衛(こまぎねはちべえ)は、島原の一揆で討手の大将板倉重昌を打ち取ったことで知られる砲術家です。迫真の表情で鉄砲を向けているのが印象的で、その視線も鉄砲も鑑賞者に向けられているような構図となっています。

青白い顔色と苦悶の表情で描かれているのは、「黒田官兵衛」の家臣「秦桐若」(はたのきりわか)です。

「豊臣秀吉」の物語を記した「真書太閤記」の名場面のひとつ、山崎の合戦で何ヵ所もの深手を追った秦桐若が描かれています。

「魁題百撰相」は全作を通して、暗い背景と力強い描線によって不穏な雰囲気が醸し出されています。また、体の一部を大きく描き、遠近感を強調する短縮法を用いた描写が多いのも特徴です。

月岡芳年は、人物を描くにあたって写生を重視していました。刑に処された下総国佐倉藩名手「佐倉惣五郎」(さくら そうごろう)を描く依頼を受けた際には、実際に弟子を柱に縛り付けたというエピソードが残されています。

「東錦浮世稿談」における「血みどろ絵」

「東錦浮世稿談」(あずまにしきうきよこうだん)は、当時の講談に取材した50図の揃物です。赤い題名部分は講釈師がもつ扇の形になっており、冊子体の部分に説明が記されています。

作風としては「英名二十八衆句」と同じように、国芳の武者絵の延長線上に位置付けられます。

代表作とされる「向疵与三 蝙蝠安」(むこうきずのよさ こうもりやす)は、歌舞伎の演目「与話情 浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)を出典とした作品。

与三郎に切られた蝙蝠安が、血まみれでふらついている場面が描かれています。与三郎の冷静な表情と蝙蝠安の青白く白目をむいた表情の対比が印象的です。

「東錦浮世稿談」ではすべてが血みどろ絵というわけではありません。

「佐野源左エ門常世」(さのげんざえもんつねよ)は、能の一曲「鉢の木」を題材として描かれた1枚です。

北条時頼が僧となり旅をした物語で、描かれているのは貧しいながらも盆栽の木を薪にし、北条時頼と知らず僧をもてなした武士「佐野源左エ門常世」(さのげんざえもんつねよ)。

雪がしんしんと降る様子は旅情を感じさせます。

月岡芳年と武者絵・歴史絵

月岡芳年の作品で最も多く残されているのは歴史画ですが、代表作の大部分は明治に入ってから制作されました。江戸時代の多くの浮世絵師がそうであったように、画業の初期には武者絵の錦絵を中心に制作依頼を受けています。

滅亡する平家が入水する場面を描いた月岡芳年の処女作「文治元年平家の一門亡海中落ち入る図」は自費出版に近い形での刊行でしたが、構図の秀逸さなどに才能を見ることができます。

続いて1859年(安政6年)には、下武士であった鎌倉時代の僧・文覚上人を描いた「那智山之大滝にて荒行図」(なちざんのおおたきにてあらぎょうず)が刊行されました。

その後、朝鮮出兵を題材に「豊臣秀吉」の臣下や「加藤清正」を描いた「正清三韓退治図」などを刊行しています。また、平将門や斎藤実盛などの武将を描いた「本朝百勇伝」など、多くの作品を手掛けました。

明治に入ると故事や歴史的人物を題材とした歴史画を多く制作し、その中で独自のダイナミックな武者絵が確立していきます。

代表的な歴史画

1877年(明治10年)頃から晩年までの間に、歴史を題材とした作品が多く発表されます。

1877~1884年(明治10~17年)頃までの月岡芳年による歴史画作品には、明治政府による国民教育の一端として企画されたと推測されているものもあります。

1872年(明治5年)に政府は「三条の教則」を掲げ、国民への尊皇愛国思想の教化を図っていました。

そのため同時期の作品には、天皇の正当性を示すようなものや、明治政府が目指す歴史教育を分かりやすく説明するような作品が少なくありません。

大日本名将鑑
そのひとつが1877年(明治10年)頃制作の「大日本名将鑑」(だいにほんめいしょうかがみ)です。神話の時代から江戸時代初期までの歴史上の人物を一図に1人描き、通史的に構成した全51図のシリーズ。

扱われている人物は日本史全体に亘ります。「源頼朝」「平将門」「足利尊氏」など中世や近世の将軍や偉人はもちろんのこと、「武田信玄」「豊臣秀吉」「織田信長」「徳川家康公」など近世に活躍した武将や将軍も。

それに加えて、「天照大神」(あまてらすおおかみ)や「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)といった神話の登場人物、「神武天皇」(じんむてんのう)や「日本武尊」(やまとたける)などの古代の皇族も多く描かれました。

とりわけ「神武天皇」は神々しい表現がなされており、天皇の正統性をアピールする目的が見え隠れします。

作風としては、明暗や逆光など洋風表現によく見られる技法が多く使われている他、同作品に限りませんが「前賢故実」からの出典が多く見られるのも特徴です。

「平惟茂」(たいらのこれもち)は、戸隠山(とがくしやま:長野県長野市)で鬼退治をしたという能の一曲「紅葉狩」(もみじがり)を題材とした作品です。

平惟茂が山神に授けられた神剣で、鬼と激しく戦う場面が描かれています。大胆な構図が印象的です。ひらひらと舞う紅葉から、躍動感とストーリー性が感じられます。

皇国二十四功
「大日本名将鑑」と同様の企画によるものと思われるのが、1881年(明治14年)頃より制作された「皇国二十四功」(こうこくにじゅうしこう)です。

中国の優れた人物24人を取り上げた書物「二十四孝」(にじゅうしこう)になぞらえ、日本の古今の忠孝者24人を揃物として描いています。

先行作として歌川国芳の「本朝二十四孝」(ほんちょうにじゅうしこう)がありますが、この錦絵と同じ題材は4図のみ。その代わり、「太閤記」「太平記」などからも題材が選ばれています。

人物解説には、当時のジャーナリスト・小説家である「高畠藍泉」(たかばたけらんせん)の文が添えられました。

芳年武者无類
1883年(明治16年)に刊行した「芳年武者无類」(よしとしむしゃぶるい)は32図からなる揃物です。

こちらも日本の歴史的な英雄を描いたもので、武将に限らず神話などにも題材を求めています。大胆な構図や人物のアングル、独特の配色により新感覚の武者絵に仕上がっています。

「山中鹿之助幸盛」(やまなかしかのすけゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将「山中鹿之助」(やまなかしかのすけ)を描いた1枚。

主君「尼子氏」再興のために忠義を貫いた人物で、類まれな武勇、知略の持ち主として知られ、「山陰の麒麟児」との異名を持っています。

尼子氏の再興のため三日月に「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという有名な逸話があり、それにちなんだ作品と考えられます。

山中鹿之助をよく観ると、ただただ祈るというより、何か物思いにふけっているようにも見える独特の表情。夜明けの静けさを感じるような背景のなかで、月がひと際存在感を放っているのも印象的です。

「弾正少弼上杉謙信入道輝虎」(だんじょうしょうひつうえすぎけんしんにゅうどうてるとら)は、戦国時代において、屈指の強さを誇り軍神と称された「上杉謙信」(うえすぎけんしん)を描いた1枚です。

猛煙のなか、馬に乗って日本刀を手に颯爽と突き進む上杉謙信。正面ではなく、左側を向いているのが、戦場の臨場感や緊張感を醸し出しています。

暗闇に光が差す表現も、作品に奥行きを与えています。

月岡芳年と美人画

月岡芳年は、いわゆる美人画も多く残しています。最も初期の作品としては、1871年(明治4年)の「東京料理頗別品」(すこぶるべっぴん)が挙げられます。

当時流行りの料理屋とともに、全身像の芸妓が描かれた作品で、現在全19図が確認されています。明治時代の風俗を描いた「開化絵」に分類することもできる作品です。

見立多以尽 おしゃくがしたい(国立国会図書館ウェブサイトより)

見立多以尽 おしゃくがしたい
(国立国会図書館ウェブサイトより)

半身図で描かれた初めての美人画は、1878年(明治11年)に刊行された「見立多似尽」です。芸者を中心に様々な女性たちの「~したい」という思いを抱いた、何気ない日常を描いたシリーズ。

女性達の心を映し出すような描写は、晩年の月岡芳年が描いた美人画のなかでも評価の高い「風俗三十二相」(ふうぞくさんじゅうにそう)へのつながりを感じさせます。

1880年(明治13年)刊行の「新柳二十四時」(しんりゅうにじゅうよとき)は、明治時代の新橋と柳橋の芸妓達の1日を、午前1時から午後12時まで1時間ごとに描いた24枚シリーズです。

芸妓達のプライベートから座敷で働く姿までを半身図で捉えており、土瓶に直接口を付けて水を飲む様子、乱れた髪のまま歯を磨こうとする様子など、日常を垣間見るシーン選択が印象的です。

1880年(明治13年)刊行の「東京自慢十二ヵ月」(とうきょうじまんじゅうにかげつ)は、芸妓や遊女たちが東京の名所を訪れている様子を描いたシリーズです。

全12枚で、それぞれに1月から12月の景色と女性1人を描いています。

モデルとなっている女性は、柳橋・新橋・日本橋・大阪町・吉原の芸者と、吉原・根津・品川の遊女で、当時の花柳界の人気や様相が窺えます。

また、純然たる美人画の他に、歴史上の人物として女性を描いた作品も多くあります。

その代表作が「古今姫鑑」(ここんひめかがみ)で、1875年(明治8年)頃に制作された全9点が確認されています。「紫式部」や「明智光秀妻」など、平安時代から江戸時代にかけての歴史上の女性を半身像で描きました。

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風俗三十二相

月岡芳年が数え50歳の頃に発表した美人画が、「風俗三十二相」です。大判32枚、目録含め全33枚のシリーズで、月岡芳年晩年の代表作のひとつとされます。

嬉しそう、痛そう、暖かそう、うまそう、など「○○そう」というテーマで、江戸の寛政年間から明治までの様々な時代、身分、職業の女性たちの感情を描きました。

活き活きとした女性たちの表情には、鑑賞者を引き込む魅力と、今にも動き出しそうな存在感があります。例えば、遊女が天ぷらを食べている様子を描いた「むまそう」は、題されている通り「むまそう」(うまそう)な1枚です。

遊女の楽しそうな表情だけでなく、ポーズやおくれ毛からもリラックスしている雰囲気が伝わってきます。背景にある月の美しいグラデーションも魅力的です。

身分も年齢層もシチュエーションも様々な作品ですが、江戸の女性風俗に重きを置いて制作されています。モデルの多くは江戸時代の女性でその数は23人、対して明治時代の女性は9人にとどまります。

ちなみに、晩年の大作である「月百姿」でも多くの江戸女性が描かれており、過ぎ去った江戸を回顧する晩年の趣向が窺えます。

「風俗三十二相」の最後を飾っているのは、洋服に身を包み、好奇心に満ちた明るい表情の女性です。髪結をしたままワンピ―スと帽子を身に着けている姿が、文明開化の時代を物語っています。

動乱の幕末期が過ぎ、新しい時代へ人々が興味を示し始めた世相を反映しているかのようです。

月岡芳年と月、そして文芸作品

画業の集大成となる「月百姿」

晩年にあたる1885年(明治18年)~1892年(明治25年)にかけて発表された「月百姿」は、月岡芳年の浮世絵師人生における集大成と言える作品です。

月と和漢の物語や歌などを題材にし、武者絵、役者絵、美人画、歴史画、動物画など多岐に亘り全100図の錦絵で構成されています。100図にもなる錦絵シリーズは、歌川広重の「江戸名所百景」に次ぐ大規模な物です。

図柄の大多数は江戸期の版本挿絵や歌川国芳、葛飾北斎などの錦絵作品に拠っています。

「かぐや姫」「孫悟空」など、様々な時代や物語の登場人物に加え、三日月、半月、満月、昼の月、ときには月灯りのみなど表情の違う月を描出。

画題の多様さもあいまって、バラエティに富んだ揃物となっています。

このシリーズは、一図の登場人物が少ないこと、背景が簡略化されていることが特徴。また逸話を題材としたシリーズであるにもかかわらず、物語を説明する記述もありません。

加えて、画業初期の作品をブラッシュアップした作品もいくつか見られます。

「吉野山夜半月 伊賀局」は20年前の「和漢物語 伊賀局」、「孤家月」は1872(明治5年)刊行の「一魁随筆 一ツ家老婆」、「垣間見の月 かほよ」は「一魁随筆 顔世御前」の焼き直し作品です。

「月百姿 孤家月」と「一魁随筆 一ツ家老婆」を比べると、「月百姿 孤家月」には老婆をとめる娘は描かれておらず、登場人物は老婆1人に改められています。

背景もシンプルな形でブラッシュアップされており、晩年に至る画風の完成が手に取るように分かります。煩雑な物事を省いた構図と、繊細な筆線から漂う静寂。加えて、淡い色彩やぼかしを多用した表現など、観る者を幽玄な世界へと誘う作品です。

「稲むらか崎の明ぼのの月」(いなむらかさきのあけぼののつき)は、鎌倉時代後期から南北朝時代のはじめにかけて活躍した武将である「新田義貞」(にったよしさだ)の鎌倉攻めの際の逸話の一場面を描いています。

干潮を利用し攻め入ろうと「稲村ガ崎」へと向かった一行ですが、満潮のため身動きできずにいました。しかしながら、新田義貞が腰に差していた黄金の拵の太刀を海に投げ入れ龍神に願ったところ、みるみるうちに潮が引いたというのです。

海面に輝く神々しい半月を背景に、恭(うやうや)しく拝んでいる新田義貞。神聖な雰囲気が漂う作品です。

「志津ヶ嶽月」(しづかだけつき)は、「柴田勝家」との激戦「賤ヶ岳の戦い」に勝利した豊臣秀吉が、勝利を宣言する法螺貝を吹く場面を描いた1枚。

この勝利により豊臣秀吉は天下人としての地位を確立させました。大きな松の木にもたれかかるその姿は、戦いでの疲労で立っていられないようにも見え、勝利したことでの安堵、安らぎを得ているようにも感じられます。

月の光が満ちているような美しい背景も、豊臣秀吉の喜びを表しているようです。

「月百姿」は様々な題材を扱っている中でも、和歌、俳諧、漢詩を記した作品が多くあるのも特徴のひとつ。

晩年の月岡芳年は、和歌や俳諧、歌舞伎、講談など広い意味での文学への関心を強く見せていました。「月」を題材とし100図も描くに至ったのにも、日本・中国において月が古来より人々を魅了し多くの故事や伝説を生み出したものだったというのが、その理由と考えられます。

浮世絵を超えた月岡芳年の世界観

時に精神を患いながらも、およそ40年の画業に邁進し続けた月岡芳年。

絵師としての鍛錬を積み、時勢を敏感に感じ取りながら独自の画風を確立し、浮世絵師として確固たる地位を築きました。

師匠・歌川国芳の画風を脱したのちに身に付けた彼の魅力は、劇画や漫画のようなダイナミックな画風。

ときに大胆、そしてときに静寂を表すような洗練された構図、繊細かつ写実性の高い描写、バラエティに富んだ色彩表現で、ストーリー性や登場人物の内面までが観る者に伝わる作品を残しています。

彼が残した作品はそれまでの浮世絵というジャンル、そして時代を超え、現代の人々の心を掴んでいるのです。

「月岡芳年」の
浮世絵YouTube動画

明治時代を代表する浮世絵師・月岡芳年が描いた、武者絵5枚をYouTube動画でご覧頂けます。

武者絵(浮世絵)~月岡芳年~

月岡芳年

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菱川師宣

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「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)は、それまで本の挿絵でしかなかった浮世絵版画をひとつの作品と捉え直し、「浮世絵」と言うジャンルを確立した人物です。この功績から「浮世絵の祖」と呼ばれることとなった菱川師宣は、どんな時代に生き、どのような生涯を送ったのでしょうか。菱川師宣の作品やエピソードとともに解説します。

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歌川芳虎

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喜多川歌麿

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美人画と言えば「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)。国内での評価はもとより、海外では「葛飾北斎」(かつしかほくさい)と並び著名な浮世絵師です。しかし、その芸術活動は幕府の禁制との闘いでもありました。そんな喜多川歌麿の波乱万丈の人生や生み出され続けた数々の美人画をご紹介します。

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水野年方

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浮世絵師でありながら日本画家でもあった「水野年方」(みずのとしかた)。見逃されがちな水野年方ですが、絵を通じて風俗画の地位向上や近代文学の発展にも貢献し、門下から数多くの有名画家を輩出しています。ここでは、そんな水野年方に焦点を当て、その生涯や作品を紹介します。

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