浮世絵師一覧

歌川広重

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「東海道五十三次」は、日本人なら誰もが知る浮世絵の傑作であり、不朽の名作のひとつです。そこに描かれた東海道の風景は発表当時から好評を博し、江戸に空前の旅行ブームを引きおこしました。さらにその余波は日本国内にとどまらず、19世紀後半にはヨーロッパ美術界におけるジャポニスムの火付け役にもなったのです。 「歌川広重」の名は世界に轟きました。いまや浮世絵界に止まらず世界の美術史でも取り上げられる歌川広重の生涯と魅力的な風景画の数々、そして風景画以外の領域での活躍をご紹介します。

歌川広重の生涯

「火消同心」の子として生まれる

歌川広重

歌川広重

「東海道五十三次」で知られる「歌川広重」(うがたわひろしげ)は、1797年(寛政9年)、江戸城の馬場先門(ばばさきもん)の近く八代洲河岸(やよすがし)にあった定火消(じょうびけし)屋敷で生まれました。

定火消とは、江戸城や江戸市中の消火活動に従事する役人のこと。父「安藤源右衛門」(げんえもん)は定火消同心(どうしん:下級役人のこと)であり、この屋敷に詰める役人の1人でした。

火消と言っても時代劇でおなじみの「町火消」(まちびけし、江戸の町人による消防組織)ではなく、江戸城と江戸市中を管轄する幕府の「武家火消」です。身分は幕臣(御家人)に相当しますが、下級役人であり「三十俵二人扶持」(ににんぶち)という、家族2人が生活できるくらいの微禄(安月給)でした。

祖父は「田中徳右衛門」(たなかとくえもん)という津軽藩の弓術師範。江戸詰めの際にその三男を幕臣・安藤家の婿養子としましたが、それが歌川広重の父・源右衛門だと言われています。

歌川広重の幼名は「徳太郎」(とくたろう)。のちに「鉄蔵」(てつぞう)、「重右衛門」(じゅうえもん)、「徳兵衛」(とくべえ)と改名しました。しばしば本名と画号を足して「安藤広重」(あんどうひろしげ)と呼ばれることがありますが、これは呼称としては誤りです。本人もその名を使用したことはありません。

他の絵師達と同様に、幼年期より絵を好みました。幼少期の発表作はありませんが、歌川広重が10歳になる1806年(文化3年)ごろに描いたとされる「琉球来貢図」(りゅうきゅうらいこうず、江戸に来貢した琉球王国の使節団の行列を描いた絵)が残っています。しかしその真贋のほどは不明です。

歌川広重が13歳になった1809年(文化6年)に、悲劇が彼を襲います。2月に母が他界。続いて父の源右衛門も12月に他界してしまったのです。姉2人と妹がいたものの、長男であった彼が急遽元服することとなり、重右衛門と改名。こうして若くして安藤家の家督を継ぎ、唯一の男子である彼が一家を支える大黒柱となりました。

「定火消同心」と「浮世絵師」二足のわらじをはく

13歳の歌川広重は、亡き父の跡を継ぎ、役人として家族を支えることになります。

しかし、決して絵の道から離れたわけではありません。むしろ、その絵描きとしての能力は家族を支える助けとなりました。給料の安い貧乏役人であった彼は、家族を養うための副業として絵を描いたのです。

当時、多くの下級武士達が生活のために副業を持っていたため、これは決して奇異なことでもありませんでした。

こうして絵の道を歩み始めた歌川広重ですが、1811年(文化8年)15歳のころに転機を迎えます。歌川一門への正式な入門を目指して、方々に打診を始めたのです。はじめは、美人画や役者絵で当時人気だった「歌川豊国」(うたがわとよくに)に入門を希望しました。しかし、売れっ子の歌川豊国は多くの弟子を抱えていたために、入門を断られてしまいます。

次に、知人の古書店主の紹介で、歌川豊国の弟弟子にあたる「歌川豊広」(うたがわとよひろ)に入門を求めました。はじめは断られてしまいましたが、あまりにも必死に頼み込む歌川広重の姿勢に、歌川豊広もやむなく入門を許したと言います。この入門により、のちに広く知られる画号が誕生することとなりました。師匠・歌川豊広から取った「広」の字と、自分の名前「重右衛門」から「重」の字を取り、「広重」の名前を与えられたのです。

斎号は「一遊斎」(いちゆうさい)。のちに「一幽斎」(いちゆうさい)、さらに「一立斎」(いちりゅうさい)と改めています。この「一◯斎」という斎号は、歌川派の始祖「歌川豊春」(うたがわとよはる)が「一龍斎」と名乗って以来の伝統で、例えば師匠の歌川豊広は「一柳斎」、歌川豊国は「一陽斎」、「歌川国芳」(うたがわくによし)は「一勇斎」と名乗っています。

歌川広重の師匠

師・歌川豊広

歌川広重の師匠である歌川豊広は、華やかさはないものの、堅実な絵師として知られていました。同時代に兄弟子の歌川豊国が役者絵の描き手として個性を発揮し、派手な画風で一世を風靡したため、歌川豊広の作風は地味な印象が強調されます。

とは言え活躍がなかったわけではなく、「十返舎一九」(じっぺんしゃいっく)や「曲亭馬琴」(きょくていばきん)など、著名な作家の本の挿絵を数多く手がけました。

また、美人画、風景画などにも佳作を残しており、その叙情的な作風は弟子の歌川広重にも引き継がれています。

歌川豊広の作品「絵本江戸紫」国会図書館Webサイトより

歌川豊広の作品「絵本江戸紫」
(国立国会図書館ウェブサイトより)


歌川広重が当初入門を望んでいた歌川豊国の門下に入れず、その代わりに歌川豊広に弟子入りしたことは、結果としてはプラスに働きました。静かで温厚かつ叙情的な師匠・歌川豊広の作風を引き継ぎ、それを美人画や、名所絵で十二分に活かしていくことになるのです。

歌川広重が歌川豊広に入門したのとほぼ同時期に、彼の入門が叶わなかった歌川豊国のもとに入門した人物がいました。それは、歌川広重の「いとこ弟子」にあたる人物で、のちに活躍を競い合う歌川国芳です。

歌川広重と歌川国芳は入門時期も年齢もほぼ同じですが、作風は対照的。叙情的な歌川広重と、荒々しく奇想に富んだ歌川国芳の2人は、トップの座を競い合うライバルとなりました。

同僚・岡島林斎に狩野派を学ぶ

「火消」と言うと、筋骨隆々のたくましい男達を思い浮かべます。しかし、実際には定火消も役人のひとつであって、血気盛んな者ばかりが集まっていたわけではありません。

意外なことに、彼の職場には他にも「絵師」がいました。同じ職場の与力(同心の上役)であった「岡島武左衛門」(おかじまたけざえもん)です。武左衛門は狩野派の絵師「岡嶋林斎」(おかじまりんさい)として名高い人物でした。

岡嶋林斎は歌川広重の友人とされますが、師とされることもあります。実際に、どの程度まで教えを受けたのかは不明とは言え、歌川派の「浮世絵師」のみならず、狩野派の絵師からも教えを受けられる環境にあったのは事実です。このことは、のちの作風に大きな影響を与えました。

その他にも、歌川広重は円山・四条派や、南画などの伝統的な画法を学びました。さらに西洋絵画から遠近法や立体的な画面構成なども独習して、自らの画法に活かす勤勉ぶりを発揮していきます。

長かった下積み時代

歌川広重が生まれ育った寛政・享和・文化・文政といった時代は、江戸時代の後半にあたり、文化的にも政治的にも変化が多い、激動の「幕末」へと向かっていく時代でした。

浮世絵の世界も、その例外ではありません。歌川広重が生まれた頃に、「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)や「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)を育てた名プロデューサーとして知られた版元「蔦屋重三郎」(つたやじゅうざぶろう)が亡くなります。

また、歌川広重がデビューした文化・文政期には「鳥居清長」(とりいきよなが)、「勝川春好」(かつかわしゅんこう)、「鈴木春重」(すずきはるしげ、司馬江漢とも)、「勝川春英」(かつかわしゅんえい)、「北尾重政」(きたおしげまさ)といった、名だたる浮世絵師が没しました。

初期の歌川広重は、師匠のもとで本の挿絵や役者絵、武者絵、美人画などの錦絵を描きます。しかし名所絵を描かなかったこともあり、なかなかその真価を発揮できず活躍できませんでした。

「中村大吉の八条局と中村芝翫の平清盛」は、歌川広重が21歳のとき描いた役者絵で、1818年(文政元年)11月の中村座の顔見世(かおみせ)興行「伊勢平氏摂神風」(いせへいじひいきのかみかぜ)に取材した錦絵です。また、同年2月にも狂歌本に挿絵を描いており、この頃から仕事を依頼され始めていたと考えられています。

その後、修行時代の歌川広重は、武者絵、美人画、本の挿絵、見世物絵、狂歌の摺物など、様々な絵を描いていきました。

なお、歌川広重は本業の「火消同心」としても、その評価は決して低くありません。1819年(文政2年)22歳のときには、江戸小川町の火事に際する仕事ぶりが認められ、幕府より表彰されています。のちに同心の中でも指導的立場である与力に任命されるなど、本業の定火消でも真面目な仕事ぶりが評価されていました。

1821年(文政4年)には、役所の同僚だった「岡部弥左衛門」(おかべやざえもん)の娘と結婚。結婚を機に、いよいよ役人として身を固めるのかと思いきや、なんと彼は役人としての仕事を辞める準備を始めたのです。

定火消同心を引退し、画業一本に

1823年(文政6年)27歳のとき、叔父にあたる「安藤仲次郎」(あんどうちゅうじろう)に家督を譲りました。安藤仲次郎は続柄上の叔父とは言え、1816年(文化13年)頃に祖父・安藤十右衛門と後妻の間に生まれた子とされ、20歳近く年下の8歳の子供でした。

それゆえ、しばらくは代番として役所に勤務を続けましたが、遠くない将来、隠居して画業に専念することを考えての準備だったのです。

当時、歌川豊国一門の「歌川国貞」(うたがわくにさだ)が描く美人画が流行していました。

「猫背型美人画」と呼ばれる背中を丸くした美人画ですが、文政期の歌川派はこぞってこの流行に追随。若き日の歌川広重も、猫背美人を数多く描きました。ちなみに、歌川国貞はのちに無二の親友となります。

1829年(文政12年)、33歳のときに出た見立番付「さくしやすいこでん」(浮世絵画家のランキング)では、末尾の方に「若女絵」と冠して歌川広重の名前が記されています。浮世絵界では、まだまだ格下扱いをされていたものの、美人画の上手い絵師という評判を得ていました。

師匠の死と名所絵との出会い

1829年(文政12年)、師匠の歌川豊広が亡くなりました。これに際して二代目豊広襲名を勧められますが、歌川広重は恐れ多いと辞退したと言われています。

当時の歌川広重の評判は、まだそう高くなく、師匠の歌川豊広は弟子の大活躍を見ることなく旅立ってしまったことになります。

翌1830年(天保元年)春、歌川広重は「南総里見八犬伝」で知られる作家、曲亭馬琴を初めて訪ねています。歌川広重が曲亭馬琴の作品の挿絵を担当することはありませんでしたが、師の歌川豊広とは親交がありました。その後も、曲亭馬琴のもとを何度も訪ねており、歌川広重が彼に畏敬の念を抱いていたことは間違いありません。

ちょうど師と死別した文政の後期ごろより、歌川広重は斎号を「一遊斎」から同じ読みの「一幽斎」に改めました。そして「東都名所十景」「近江八景」といった名所絵の錦絵を発表し始めます。まだ後年の歌川広重に見られるような個性はあまり見られませんが、この画題の変化は大きな一歩となりました。

歌川広重と名所絵 出世作「東都名所」

デビューの20年後にあたる1831年(天保2年)に、東都名所という名所絵の版画集を発表します。このとき歌川広重はすでに35歳になっていました。題材として選んだのは、慣れ親しんだ江戸とその近郊の風景です。

京都に対する東の都としての江戸を、鮮やかな色彩感覚とともに活写してみせました。わずか全10図の揃物でしたが、東都名所は高い評判を得て、歌川広重の名所絵師としての方向性を決定付けることになります。

その評価は今日でも高く、歌川広重の作風の原点と考えられています。その特徴のひとつは、のちの東海道五十三次や「江戸名所図会」に見られるような前景と後景を対比的に配置した構図です。

また、のちに「ヒロシゲ・ブルー」と呼ばれる「ベロ藍」(オランダからの輸入品で「ベルリンブルー」と呼ばれる深い青色の染料)を使用した空や水、空気や光の表現も特徴に数えることができます。ほぼ同時期に発表された「葛飾北斎」の「富嶽三十六景」の影響も見受けられますが、いわゆる「歌川広重らしい」特徴がすでに見られる作品です。

「東都名所 日本橋之白雨」国立国会図書館Webサイトより

「東都名所 日本橋之白雨」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

なかでも「日本橋之白雨」はよく知られる作品です。雨の中に煙る日本橋と、遠くそびえる富士山が描かれています。晴れやかな観光地としての江戸ではなく、日常の姿を描いていることも特徴です。

また技術の高さを見ることができるのは、吉原の夜景を描いた「吉原中之町夜桜」です。中央の建物は左右の消失点に向けて正確な直線で描かれており、遠近法にしたがったダイナミックな構図が観る者を惹き付けます。

現在では二点透視法として知られる遠近図法ですが、歌川広重はこのときすでに、この手法を取り入れていました。

そうした技法に目が行きがちではありますが、そこに描かれた風景の描写も見逃せません。中央に輝く大きな月と、それに照らされた夜桜はたいへん美しく、そこを行き交う人々もありのままの姿で描かれているのが分かります。

このように人々の「今」を切り取った姿は、これが単なる風景画ではなく、やはり「浮世絵」であることを示しているのです。

初期の代表作と言われる東都名所にも、すでに多くの技法が用いられていました。西洋絵画から学んだ遠近法や透視図法で描かれる正確な風景描写と、そこに描かれる人物のリアリティ、花や動物、天候や天体などの自然の美しさ。不遇な下積み時代に培ったそれぞれの経験や技術が、この作品以降一気に花開くことになります。

葛飾北斎
天才と呼ばれた葛飾北斎について、その生涯や作品についてなど、様々なエピソードをご紹介します。

東海道五十三次の背景

浮世絵の新たな楽しみの可能性を提供

東都名所を描いた翌年の1832年(天保3年)、家督を譲った安藤仲次郎が17歳で元服。これにより正式に定火消同心職を安藤仲次郎に譲り、専業絵師として画業に専念できる環境が整うことになりました。その翌年1834年(天保5年)もしくは1833年(天保4年)より、東海道五十三次の発表を開始。

そもそも東海道五十三次とは、東海道にある53の宿場を指す言葉で、浮世絵の創始者と言われる「菱川師宣」(ひしかわもろのぶ)の時代から、幾度も描かれてきた伝統的なテーマのひとつ。しかし、役者絵や美人画といった「人物」を描くのが主流であった浮世絵の世界では、風景を描く名所絵はマイナーなジャンルでもありました。

ところが、歌川広重の東海道五十三次ならびにほぼ同時期に出版された葛飾北斎の富嶽三十六景のヒットによって、その常識が覆ってしまいます。それまで「風景版画」を買って楽しむという概念がなかった人々に、新しい浮世絵の楽しみ方を提供したのです。

こうして東海道五十三次は人気シリーズとなり、歌川広重の作品の中でも、もっとも良く知られるタイトルになりました。また現代でも、浮世絵の代名詞とも言える誰もが知る作品です。

歌川広重の東海道五十三次には、葛飾北斎の風景画にはない特徴があります。景色だけを描いた物ではなく、そこには必ず人物が描かれているのです。例えば「東海道五十三次 箱根 湖水図」に描かれた険峻な峰にも、笠をかぶった旅人が描かれています。

歌川広重は、街道の風景に旅人や比丘尼(びくに)、客引きの留女、伊勢参りの旅人など、旅で出会う人々の姿を活き活きと描き入れました。

さらに、季節、天気、時間によって変わる風景の魅力を描き、鞠子宿の「とろろ汁」、二川宿の「かしわ餅」、水口宿の「かんぴょう」など、その土地の名物も描き入れます。それは、まさに今を生きる人々の営みを描くという「浮世絵」そのものでした。

また、行き交う人々や名物を描く細かい筆致は、さらにユーモアやストーリー性のある描写をも実現しています。眺めていればいるだけ楽しくなるような不思議な魅力を持った作品として、その作品は多くの人に愛されることになりました。こうして、歌川広重は観る者の旅への憧れをかきたて、一躍名所絵の名手として今日まで続く高い評価を得ることになったのです。

東海道五十三次浮世絵
歌川広重の代表作であり、東海道で営まれていた宿場を描いた「東海道五十三次」の浮世絵をご紹介します。
五十三次名所図会
歌川広重の代表作、東海道五十三次から約22年後に描かれた「五十三次名所図会」をご紹介します。

ライバル・葛飾北斎 浮世絵の歴史を変えた2人の名所絵師

1831年(天保2年)という年は、歌川広重のみならず浮世絵の世界にとっては特別な年となりました。葛飾北斎の富嶽三十六景と歌川広重の東都名所が、ほぼ同じ時期に発表された年なのです。そもそも、名所絵は浮世絵の主流ではありませんでしたが、2人の天才が登場したことで、人々に愛される浮世絵ジャンルのひとつになりました。

両者の戦いは、一旦はネームバリューや実績で勝る70代の大ベテラン・葛飾北斎の富嶽三十六景による勝利に思われました。しかし、すぐに定火消同心との二足のわらじを辞め、絵師一筋に打ち込む決心をした歌川広重の猛追が始まります。

江戸から京への53の宿場を描いた錦絵のシリーズ東海道五十三次が大ヒット。その技法は葛飾北斎と対照的でもありました。

葛飾北斎は持ち前の「奇想」をもとにして、派手で奇抜な作品を生み出しています。しかし、歌川広重の東都名所や東海道五十三次では、正確な遠近法や透視図法が用いられ、写生的で堅実な仕上がりです。

その間、ライバルの葛飾北斎も富嶽三十六景のあとにも、「諸国滝廻り」、「諸国名橋奇覧」など、インパクトある名所絵シリーズを出版しています。しかし、この奇抜な作風に客が飽きたのか、あるいは彼自身が飽きてしまったのか、短期間で撤退してしまいました。

一方、人気名所絵師となった歌川広重は、その後も版元の注文に応じて、類似のシリーズを息長く続けます。「隷書東海道」「行書東海道」といった絵や、狂歌入りの「狂歌入東海道」、美人画でもある「人物東海道」、1枚に複数の名所が入る「張交東海道」(はりまぜとうかいどう)など、様々に趣向を凝らしたバージョンを発表。さらに、画題も東海道に限りませんでした。江戸名所物、諸国名所物、街道物などの名所絵シリーズも展開します。結果として、名所絵と言えば歌川広重というイメージが形作られました。

十返舎一九「東海道中膝栗毛」と歌川広重「東海道五十三次」の関係

東海道五十三次と富嶽三十六景の相乗効果で風景版画、名所絵のブームが巻き起こりました。その背景にあった江戸での「旅行ブーム」も無視することはできません。

天下泰平の江戸時代とは言え、庶民に旅行の自由はありませんでした。当時の日本列島は地域ごとに各藩が治めており、藩の境を越えることは容易なことではなかったのです。

しかし、これは建前にすぎないというのもまた事実。いくつかの理由で、諸藩を訪れることは広く認められていたのです。例えば温泉地で病気やケガの治療を行う「湯治」は、治療行為として認められていました。

そしてもうひとつ、「お伊勢参り」や「金比羅参り」など、巡礼の名目で旅行が認められていたのです。この巡礼旅行が江戸で人気を博し、ガイドブックが出版されるほどの旅行ブームを巻き起こしていました。

そのブームの火付け役となったのが、1802年(享和2年)に発売された十返舎一九の手による滑稽本「東海道中膝栗毛」です。ヤジさんキタさんとも親しまれる弥次郎兵衛と喜多八の2人が東海道を江戸から上方に向かう旅を楽しげに描いた物語でした。

旅行ブームに便乗する形になった歌川広重の東海道五十三次にも、この物語との関連性を見て取ることができます。実は東海道五十三次の中には、「東海道中膝栗毛」のパロディ的な「ネタ」が仕込まれていたのです。

例えば、東海道五十三次の20番目の宿場町鞠子宿(現在の静岡市駿河区丸子)を描いた「鞠子 名物茶屋」もそのひとつ。そこに描かれているのは茶店の縁台で休憩し、「松尾芭蕉」の俳句にも詠み込まれた名物とろろ汁をかき込む2人連れの男の姿です。これは「東海道中膝栗毛」の作中に登場したシーンの再現であり、他ならぬヤジさんキタさんのパロディと考えられます。

また東海道五十三次の35番目の御油宿(ごゆじゅく、愛知県豊川市御油町)を描いた「御油 留女」でも滑稽な2人の旅人の姿を見ることができ、これは「留女」(とめおんな)と呼ばれる客引きの女性に宿へと強引に引き摺り込まれている様子。これも「東海道中膝栗毛」の作中シーンの再現です。

その騒動を眺める人々の姿もユーモラスで、当時の人々の様子を窺うことができます。歌川広重の名所絵が単なる「風景画」ではなく、やはり人の日々の営みを描く「浮世絵」だったことが分かる作品です。

一連の成功により、歌川広重は名所絵師として高い評判を獲得し、一躍人気絵師に仲間入りすることになりました。1844~1845年(弘化元年~2年)の「[当世名人]芸長者華競」という番付では、ついにその名が一流絵師と共に並んだのです。葛飾北斎や歌川国貞、歌川国芳と並ぶ形で掲載された歌川広重の名には「画景」と記され、風景画に秀でた浮世絵師として確かな地位を確立したことが分かります。

歌川広重はどこまで取材したか?

日本各地を精緻に描くためには、本来なら長期にわたる取材が欠かせません。東海道の各宿場を描いた歌川広重も、相応の取材をしたと想像できます。

しかしその取材については諸説あり、例えば東海道五十三次が生まれたきっかけは、「幕臣であった歌川広重が、出版の前年1832年(天保3年)に、幕府の上洛の一行に加わり、実際に東海道を江戸から京都まで往復したことによる」という説。またその一方で、実際には歌川広重は東海道を旅していないという説もありました。

「歌川広重の東海道五十三次に遡ること数十年前に、「司馬江漢」(しばこうかん)が[東海道五十三次画帖]という肉筆洋画を描いており、歌川広重はこれを参考にして東海道五十三次を描いたのではないか」という説です。

司馬江漢と言えば、「鈴木春信」門下の浮世絵師「鈴木春重」の号です。司馬江漢はのちに蘭学者として平賀源内らと交流し、日本で初めてエッチング(腐食銅版画)を成功させた洋画家でもあります。その芸術のみならず学問にも通じた多彩さから、「江戸のダ・ヴィンチ」とも言われる人物。

確かに東海道五十三次は司馬江漢の作品と類似していましたが、現在ではこの説は否定されています。そもそも司馬江漢の作とされる「東海道五十三次画帖」には、時代的にはありえない矛盾がいくつも存在したのです。したがって、むしろ歌川広重の東海道五十三次をもとに、後世に作られた偽書であると判断されました。

したがって、歌川広重が少なからず取材をしたのは確かです。スケッチが残る日記帖なども見つかっており、取材可能な場所では取材をしたことは間違いありません。

とは言え、歌川広重が描いたすべての場所に行ったというわけでもありませんでした。遠隔地については、別の人が調べたり描いたりした過去の「資料」を使用して、それを自分の作品を創作するために活用していたとする説が有力です。

しかし、そのことが彼の作品の価値を落とすわけではありません。現代の漫画家やイラストレーターなどのクリエイターも、本やインターネットで資料を集め、それを参考にして創作をします。歌川広重が現地でスケッチしていないとしても、それが彼の作品の価値を損ねるものではないのです。

花鳥画、肉筆画でも才能を発揮

歌川広重は「花鳥画」の領域でも活躍しました。これも当時はそれほど知られていないジャンルのひとつでしたが、名所絵と同じように浮世絵として広く親しまれるジャンルへと成長させることになります。

そもそも「花鳥画」とは、野の草花や、鳥や獣といった自然の風物を描くものです。歌川広重はこれに熱心に取り組みますが、その作風は非常にリアリティに溢れています。これについて、歌川広重は「東海道風景図会」や「絵本手引草」の中でも写真(しょううつし)をなしてこれに筆意を加えたものであると書いています。あくまで「写真」(写生)を重要視し、そこに画家の意図を入れていくのが自らの作風だと自負しているのです。

晩年にはライバルであった葛飾北斎の富嶽を「絵組(えぐみ)のおもしろきを専らとし」ていると非難し、「まのあたりに眺望」した絵をもとにすべきという創作態度を表明するなど、写実性にこだわる姿勢を強く見せていました。

「魚づくし しま鯛 あいなめに南天」国立国会図書館Webサイトより

「魚づくし しま鯛 あいなめに南天」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

「魚づくし」は、歌川広重の花鳥版画の代表的なシリーズ。なかでも「しま鯛、あいなめに南天」はともに食材として親しまれた魚に南天の枝が添えられており、まるで魚介類のカタログのようです。左上には「庖丁のさしみの波にかひしきのをこのこけむす沖のしま鯛」という狂歌が書かれていますが、もとは狂歌連に依頼された絵本(画集)だったため、このような体裁が取られています。しかし、好評を得たために一枚摺の錦絵としても売り出されました。

これらの花鳥画には、「円山応挙」(まるやまおうきょ)ら円山・四条派の影響が見受けられます。歌川広重が彼らの技法を学び取ったことは間違いありません。

「月に雁」(つきにかり)は、歌川広重の花鳥画の中でも特に有名な作品のひとつです。短冊(縦長)の画面の中で、3羽の雁と、大胆に切り取られた月を描いていた絵で、1949年(昭和24年)に発行された切手の図案となり、菱川師宣の「見返り美人」の切手とともに稀少切手として、現在でも高い人気を誇っています。

歌川広重の花鳥画には、人の心を落ち着ける安心感や癒やされるムードがあり、多くの人々に好まれることになりました。このことはライバルである葛飾北斎の花鳥画が正確ながらも、どこか奇をてらったような、あるは尖ったような雰囲気を纏っていたことと対照的です。

最晩年の「名所江戸百景」のなかでも、動物や植物へのこだわりは発揮されます。江戸の名所と動植物を組み合わせた、ほのぼのとした作品が多数描かれ、長きにわたって多くの人に愛されることになるのです。

晩年は肉筆画にも注力

30代半ばから50代にかけて、名所絵や、花鳥画など、浮世絵版画の新たなジャンルを切り開き、錦絵のシリーズも発表しつづけた歌川広重。浮世絵師の大家となった50代に入ると、名所絵の版画作品とともに肉筆画の活動を増やすことになります。晩年の肉筆画として、歌川広重の初期の画題だった美人画を再び手がけるようになったのです。

また、弟子達とともに出羽国(現在の秋田県山形県)の天童藩織田家から依頼され、大量の肉筆画を描きました。これは庶民の娯楽のために描く「浮世絵師」というよりも、いわゆる「御用絵師」としての仕事も引き受けたことを意味します。

天童藩のために描いた肉筆の作品は200点にも及び、「天童物」「天童広重」と呼ばれることになりました。これらの作品は、当初天童藩所有の美術品として藩内に留め置かれます。しかし後年、天童藩が財政難に陥った際に流出して、より多くの人の目に触れることになりました。

この時期に描いた天童物の数は多いものの、歌川広重は大名や大寺院などにお金を出してもらって描く「御用絵師」という立場を望んでいたわけではありません。最晩年は「浮世絵師」、それも名所絵師として、民衆の娯楽のために筆を執りつづけることになります。

最晩年に残した大作 名所江戸百景

「名所江戸百景 水道橋駿河台」国立国会図書館Webサイトより

「名所江戸百景 水道橋駿河台」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

東海道を描いて出世作とし、大名家から受注するほどの大御所となった歌川広重の最晩年の作品は、原点に立ち返った江戸の名所絵でした。最期まで浮世絵師として生まれ育った江戸の風景を描くことにこだわり続けたのです。

その絵師人生の総決算として始めたのが名所江戸百景でした。「百景」の表題の通り、江戸八百八町や江戸の郊外の風景を、100枚を超える錦絵の揃物とする、壮大な仕事です。一説によると、刊行開始の1年前に江戸を襲った安政の大地震から復興する江戸の姿を描き残したいという意図があったのではないかとされています。

「水道橋駿河台」は、なかでも魅力的な1枚です。端午の節句、本郷台地から駿河台を見渡すと、「鯉のぼり」が空に踊っています。

神田川にかかるのは水道橋。当時は鯉のぼりを上げるのは町人の風習で、武家は吹き流しや「鍾馗」(中国の神)の旗を上げていました。

町人の風習が力強く、輝かんばかりに描かれる彼方には富士山が見えます。リアルで生々しい鯉はまるで本物のようでもあり、「花鳥画」の名手でもある歌川広重の面目躍如といったところです。

  • 「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」国立国会図書館Webサイトより

    「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」
    (国立国会図書館ウェブサイトより)

  • 「名所江戸百景 深川万年橋」(国立国会図書館ウェブサイトより)

    「名所江戸百景 深川万年橋」
    (国立国会図書館ウェブサイトより)

「深川洲崎十万坪」で描かれるのは、はるか海上の鳥の目線から見下ろした江戸の埋立地・深川の風景です。目の前に旋回する鷹、海面には木桶が漂い、遠くには雪をかぶった筑波山が見えています。空撮など思いも寄らない時代に描かれた壮大なスケールの作品であり、観る者を強く惹き付けます。

視点の妙は「深川万年橋」にも見られます。この作品は紐で吊るされた亀のはるか向こうに富士山を望む面白い構図の一作です。

亀に紐を付けているのは、生き物を逃がす仏教の習慣「放生会」(ほうじょうえ)のためで、良く観ると欄干の手前に取っ手付きの手桶が置かれているのが分かります。

手桶の取っ手に結び付けられた亀という、非常に独特なアングルから光景を切り取っているのです。

「名所江戸百景 王子装束ゑの木大晦日の狐火」国立国会図書館Webサイトより

「名所江戸百景
王子装束ゑの木大晦日の狐火」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

視点の妙に留まらず、幻想的な光景を描いた作品も含まれています。「王子装束ゑの木大晦日の狐火」で描かれるのは、星空の下での狐達による集会です。これは関東の稲荷社の総元締めである王子稲荷神社に関東中の狐達が集まっているという仮想の光景に他なりません。良く観ると狐の周りに狐火も燃えています。

名所江戸百景では、歌川広重がこれまで手がけてきた、名所絵、花鳥絵、美人画などの経験がいかんなく発揮され、独自の世界を作り上げました。まさに、歌川広重作品の総決算と言うべき作品群です。

1858年(安政5年)、この名所江戸百景も100枚を超え、118枚以上描いたところで歌川広重は62歳で亡くなりました。一説には、当時江戸で流行していたコレラによる病没と言われていますが、その根拠はありません。

名所江戸百景に取り掛かったのが1856年(安政3年)のことであり、病没までのたった2年間で100枚を超える作品を描いたと考えると、最晩年も盛んに制作に打ち込んだことが良く分かります。

歌川広重は東岳寺(現在の足立区)に埋葬され、親しかった三代目歌川豊国によって「死絵」(追悼の絵)が描かれました。

また歌川広重は、生前から高い評価を得ましたが、その影響力は後年まで広範囲にわたって波及しました。最大の功績は、彼が切り開いたジャンルである名所絵や花鳥画ですが、それ以外の広範な制作がもたらした幅広い影響も無視できません。

その生涯での制作範囲は紹介した肉筆画、美人画の他にも、歴史画や戯画、双六、玩具絵、春画、摺物・絵本・合巻や狂歌本などの挿絵などにも及び、生涯で描いた作品の数は20,000点にも及ぶと言われます。これらの作品が絵画の世界は言うに及ばず、後世の文化にも様々な影響を与えたのです。

歌川広重の門人達

弟子に恵まれなかった広重

「青物魚軍勢大合戦之図」 国会図書館Webサイトより

「青物魚軍勢大合戦之図」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

歌川広重の弟子には、「歌川重宣」(うたがわしげのぶ、二代広重)、「歌川重政」(うたがわしげまさ、三代広重)、「歌川広景」(うたがわひろかげ)、「歌川重清」(うたがわしげきよ)、「歌川重昌」(うたがわしげまさ)、「暁斎重晴」(ぎょうさいしげはる)、「歌川重房」(うたがわしげふさ)、「歌川重春」(うたがわしげはる)らがいますが、目覚ましい活躍をした弟子は、それほど多くありません。

弟子のうち、歌川広景は有名な浮世絵師にはなりませんでしたが、ある騒動で知られます。1859年(安政6年)に発表した「青物魚軍勢大合戦之図」が、コレラ流行と将軍家のお家騒動を題材にした不敬なものと曲解されてしまったのです。

これにより異人のスパイであるという張り紙をあちこちに貼られ、殺人予告をされたという記録も残っています。

優秀ながら、師なき門下を去った二代広重

「名所江戸百景 赤坂桐畑雨中夕けい」国立国会図書館Webサイトより

「名所江戸百景 赤坂桐畑雨中夕けい」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

二代広重は号を歌川重宣と言い、師の初代広重を長い間、良く手伝ったとされています。

「名所江戸百景」のうち「赤坂桐畑雨中夕けい」は「二世広重画」の落款が認められ、歌川重宣(二代広重)が描いたとされています。その他にも、彼の手による物があるという説もあります。

歌川広重が信頼し、長く側に置いた高弟・歌川重宣は、初代の死から1年後、男児のいなかった初代の養女お辰の婿として安藤家に入り、安藤広重を襲名。

二代広重は、良く初代の技術を受け継ぎ、初代そのままの画風で「諸国名所百景」、「隅田川八景」、「東都三十六景」といったシリーズを開始しました。ところが、その終焉は意外な形でおとずれます。結婚から6年後に先代の娘との仲がうまくいかず、離婚して「二代目」の名前を返上。そのまま一門を離れてしまったのです。

その後は、「喜斎立祥」(きさいりっしょう)の画号で絵師を続けましたが、その数年後に40代で亡くなってしまいました。

近代化する東京の名所絵を描いた三代広重

三代目は、1855年(安政2年)ごろ初代に入門した歌川重政が1867年(慶応3年)頃に襲名しました。

初代の娘お辰が二代目と離縁したあと、彼女と再婚することで名前を継ぐという形式を採っています。先述の事情もあってか、本人は二代目を認めておらず、自らは二代目と称しました。

入門したのが初代広重の亡くなる数年前だったこともあり、二代目のように長く初代広重のもとにいて、その技術や考え方を受け継いでいたわけではありません。また、初代の作品に流れていた叙情的な雰囲気も受け継いではいませんでした。

しかし初代が江戸の姿を描き続けたように、三代目もまた日々変わってゆく東京の姿を「東京名所」として描き続けました。明治維新によって江戸が「東京」となり、西洋からどんどん新しい事物が入ってくる激動の時代の只中にあって、それらの作品は近代化する東京の貴重な記録となっています。

その後も、「歌川広重」の名蹟は四代目、五代目と続き、昭和まで続きましたが、初代のような大活躍をする者を輩出することはなく、その後襲名は途絶えてしまいました。

ジャポニスムとの関係

「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」国立国会図書館Webサイトより

「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカでは、大胆な構図などとともに青色、特に藍色の美しさで高い評価を受けています。

鮮烈な藍色は日本古来の藍ではなく、ヨーロッパから輸入された「ベロ藍」(ベルリン藍)と呼ばれる新しい染料でした。もとを辿ればヨーロッパからの輸入品ですが、その鮮やかな色は歌川広重作品の特徴として「ジャパンブルー」、あるいは「ヒロシゲ・ブルー」とも呼ばれています。

とりわけ印象派以後の画家、オランダのゴッホやフランスのモネなどが大きな影響を受けることになりました。特にゴッホは「名所江戸百景」の「大はしあたけの夕立」と「亀戸梅屋舗」の2点に注目し、精密に模写。こうした画家達が牽引する形となり、印象派やアール・ヌーヴォーの芸術家の間で「ジャポニスム」という日本趣味ブームが流行することになります。

実際、ゴッホも模写した「大はしあたけの夕立」は、歌川広重作品のみならず浮世絵版画の中でも傑作中の傑作と言われる錦絵です。

大橋は隅田川にかかる橋で、背後には雨に煙る幕府の船倉の影が見えます。降り注ぐ雨などの描写も非常に細かく、これが木版画で再現できたという点で彫師の技術力にも驚かされます。ゴッホが油絵で模写したこともあり、世界的に有名な浮世絵の1枚となりました。

「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」国立国会図書館Webサイトより

「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」
(国立国会図書館ウェブサイトより)

ゴッホが模写したもうひとつの作品も、優れた作品として知られています。「亀戸梅屋舗」で描かれるのは、江戸で人気の娯楽だった梅見の名所である亀戸の梅屋敷です。

しかし、視界を遮る太い枝を前景に持ってくる構図には驚かされます。近景に大きく物を描き、その間から遠景を覗くという手法は、歌川広重の初期作品でも見られる特徴的な構図でした。

しかしこの構図の由来は、むしろ西洋絵画に他なりません。ゴッホも遠近を強調するこの構図に影響を受けましたが、歌川広重は透視図法をはじめとする遠近法を西洋絵画から取り入れていました。同様の構図はライバルの葛飾北斎も使用していましたし、歌川派でも始祖・豊春のときから使われてもいたのです。

しかし、歌川広重の作品がゴッホに影響を与えたことも肯けます。西洋由来の物とは言え、ここまで自在にその技術を活用した作品を生み出したのは、歌川広重の希有な才能あってのことでした。それらの作品が再びヨーロッパに渡り、斬新な物として刺激を与えたのも無理からぬことだったのです。

歌川広重

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鳥居清信

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