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歌川国芳

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幕末の人気浮世絵師であった「歌川国芳」。「武者絵の国芳」と称されるほど人気であった武者絵に加え、多くの作品に見られるその発想力やユーモアは江戸時代だけでなく、現在の人々をも魅了しています。ここでは、歌川国芳の生涯や作品、エピソードをご紹介します。

歌川国芳の生涯

幼少期

歌川国芳

歌川国芳

江戸時代の浮世絵師の伝記や来歴を記した「浮世絵類考」によると、歌川国芳は1797年(寛政9年)、江戸日本橋本銀町一丁目(現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目近く)の生まれです。

しかし、四谷左門町(現在の東京都新宿区左門町)の生まれであるという説もあります。父親の「柳屋吉右衛門」は染物屋を営んでいました。

歌川国芳の幼名は「井草芳三郎」。のちに「孫三郎」を名乗りました。歌川国芳の幼少期が分かるようなエピソードとして、東京都墨田区向島にある三囲(みめぐり)神社には、以下のような碑文があります。

先考[せんこう:亡くなった父]柳屋吉右衛門、妣[ひ:亡くなった母]柏谷氏、先生[歌川国芳のこと]幼に而して聡慧(そうけい)、僅(わずか)78歳、好んで絵本を見る。北尾重政画く所の武者鞋2巻、同じく政美諸職画鑑2巻を愛玩す。頓に人物を画くを悟る。12歳の時、鍾馗剣を提ぐる図を画く。其の状貌猛壮、行筆秀勁、老成者の如し。

この碑文によれば、歌川国芳は幼い頃から才能にあふれており、わずか7~8歳の時から、江戸中期の浮世絵師、「北尾重政」や「北尾政美」の絵を集めた本を好んで読んでいました。

すでにこの頃から歌川国芳の絵の勉強は始まっており、著名な絵師の絵を模写する中で、技術を習得していたようです。そののち、12歳の時に描いた「鍾馗提剣図」(しょうきていけんず)は、熟練者のような腕前の作品であり、当時役者絵で人気を集めていた「歌川豊国」の目にも留まることとなります。

このことがきっかけとなり、1811年(文化8年)に15歳で歌川豊国の弟子として受け入れられ、歌川派の1人として修業を開始しました。

短くない下積み時代

歌川派入門後、職業絵師としての歌川国芳の初めての作品は、1814年(文化11年)頃に刊行された「竹塚東子」による合巻「御無事忠臣蔵」の表紙と挿絵であると考えられています。

その後、同様な挿絵の仕事をしたり、歌舞伎役者を描いた役者絵を制作したりするなどしていました。1818年~1820年(文政元年~3年)頃には、3枚続の錦絵である「平知盛亡霊図」や「大山石尊良弁滝之図」を発表し、一時の人気を得ますが、評価される作品を出し続けることが思うようにできず、不遇の下積み時代を過ごしていたと言えます。

この頃、歌川国芳は師匠への学費が払えないほど貧しかったため、兄弟子である「歌川国直」の家に居候してどうにか暮らしている状況でした。

しかし、生活上の必要からであったとは言え、歌川国芳はこのときに歌川国直の仕事を手伝う機会を得て、絵師としての技量を磨いていきました。

そのため、歌川国芳の正式な意味での師匠は歌川豊国でありながら、実質的な師は歌川国直だったとする見解もあり、例えば歌川国芳の次女「よし」の子孫は、歌川豊国が歌川国芳の師匠であったことを否定しています。とは言え、歌川国芳にとっては、実質的な指導や世話は歌川国直が行なっていたものの、当時相当な人気を集めていた歌川豊国の弟子であるとしていた方が、画業において都合が良かったというのが実情のようです。

また、この頃歌川国芳は歌川一門以外の絵師からも影響を受けていました。

例えば、歌川国芳は「勝川春英」の門下にあった「勝川春亭」や、堤派を代表する絵師であった「3代目堤等琳」にも学び、「葛飾北斎」からも影響を受けていたとされています。

「通俗水滸伝豪傑百八人之一人」で人気絵師に

ほぼ同時期の絵師として知られる兄弟子の「歌川国貞」が早くして人気を得たのに比べ、歌川国芳はなかなかヒット作を生み出すことができませんでした。しかし、1827年(文政10年)頃、歌川国芳に転機が訪れます。

この年に歌川国芳は、明代中国の小説「水滸伝」をモチーフとしてシリーズ物の「通俗水滸伝豪傑百八人之一人」を発表し、これが大いに人気を博したのです。

小説「水滸伝」に登場するキャラクターを1人ずつ描いたこの作品が人気を得た一因には、当時すでに「水滸伝」が多くの江戸の人々にとって親しみのある物となっていたことがあります。

中国から輸入され翻訳された物が流通していたことに加え、1825年(文政8年)頃には「曲亭馬琴」による翻案(パロディ)作品である「傾城水滸伝」が発表され、記録的な大ヒットを遂げました。

こうした「水滸伝」人気の中で、版元の「加賀屋吉兵衛」が歌川国芳に「水滸伝」をモチーフにした大判錦絵をまかせたのです。

異国のキャラクターのエキゾチックな魅力を存分に盛り込み、躍動感とともに描いた歌川国芳の絵画表現は、大人から子どもまで幅広い層を惹き付けました。

例えば「浪裡白跳張順」では、ダイナミックな構図に急な水の流れ、人物の全身に彫られた刺青、口にくわえられた刀剣などの要素が組み合わさり、力強い画面構成となっています。

特に、豪傑の全身に施された刺青は人々に強烈な印象を与え、それまでは部分的に彫られることの多かった刺青を全身に彫ることが流行しました。それまで長い間日の目を見ずにいた歌川国芳は、この「通俗水滸伝」の大ヒットにより「武者絵の歌川国芳」という評判を得ます。

それだけではなく、役者絵、美人画、風景画、風刺画など様々なジャンルの作品で才能を発揮し、多くの弟子も抱え、人気絵師の地位を築いていくことになったのです。

天保の改革と歌川国芳

しかし、歌川国芳が売れっ子絵師としての地位を確立してしばらくのち、浮世絵をはじめとする娯楽にかかわる産業は厳しい立場に置かれることになります。

1840年(天保11年)頃に老中「水野忠邦」が主導して行なった「天保の改革」の中で、幕府は貨幣経済の発達により不安定化した幕府財政を立て直すため、社会全体の引き締めを実施。その一環として、庶民のぜいたくや風紀の乱れが規制されたのです。

これにより、歌舞伎や寄席、小説など、当時の江戸で多様化し成熟していた様々な娯楽産業が大きな打撃を受けました。

1842年(天保13年)に出された出版統制令によって、浮世絵業界にも厳しい制限が課されます。遊女や歌舞伎役者といった当時人気のあった題材や、質素倹約・風紀粛正の空気に反するような華美な風俗を描くことが禁止に。

厳しい検閲の下に置かれただけでなく、浮世絵の価格や色の数、販売の分量についての規制もありました。

このような内容面に至る厳しい規制によって自由な表現が難しくなる状況下でも、歌川国芳は幕府の圧力を巧みな手法で回避していきます。歌川国芳は、直接描いてはならないとされた題材を動物に置き換えるといった斬新な発想と遊び心を発揮し、人々をさらに惹き付けました。

そのため、歌川国芳は幕府から危険人物と見なされ何度も奉行所で尋問を受けることになり、時には罰金を取られたり始末書を書かされたりすることもあったと言われています。

しかし、そのような圧力に屈することなく、新たな表現を模索し、作品を通して幕府を風刺する姿勢は、絵師歌川国芳の人気をさらに高めました。

天保年間が終わりに近づき、1845年(弘化2年)に水野忠邦が失脚すると、江戸の娯楽業界も再び活気を取り戻します。歌川国芳もさらに大胆な表現を模索し、大判の錦絵3枚を使ってひとつのモチーフを迫力十分に描く大型の作品を発表しました。

その代表作のひとつが、剣豪「宮本武蔵」と巨大な鯨を戦わせるという斬新な題材の「宮本武蔵と巨大鯨」。それまでにも3枚の連作は制作されていたものの、歌川国芳がこの頃発表した作品は、3枚の大判画面を合わせてひとつのキャンバスとして使った点で新しい試みであり、歌川国芳は既存の浮世絵の慣例を超え出ようともしていました。

歌川国芳はその他にも、「相馬の古内裏」、「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」、「鬼若丸と大緋鯉」といった作品で、3枚続きの大胆な構図を披露しています。特に「忠義伝」を題材として、「源頼信」の家老「大宅光国」と、「平将門」の遺児で妖術を操ったとされる「滝夜叉姫」の対決を描いた「相馬の古内裏」は、強烈なインパクトの作品。

おどろおどろしい骸骨が覆いかぶさるかのように画面の右半分に大きく描かれた本作品は、歌川国芳の代表作のひとつとされます。

西洋絵への探究心、そして晩年の歌川国芳

浮世又平名画奇特(国立国会図書館ウェブサイトより)

浮世又平名画奇特
(国立国会図書館ウェブサイトより)

様々なジャンルで活躍し、常に新たな表現を模索し続けていた歌川国芳は、西洋画の影響も受けていたと指摘されています。

当時は鎖国の影響もあり西洋画を集めるのは難しかったのにもかかわらず、歌川国芳は西洋の銅版画などを数百枚も集めて西洋絵画の技法を研究していました。そしてその研究の結果として、遠近法を取り入れた写実的な浮世絵作品を発表しています。

しかし、遠近法を考慮せず迫力ある大胆な構図で描かれる通常の浮世絵に慣れている庶民の人々にとって、写実的な浮世絵は物足りず違和感があったのか、大きくヒットすることはありませんでした。

1853年(嘉永6年)には、「ペリー」の浦賀来航の直後に「浮世又平名画奇特」と題した錦絵を発表しています。それまでにも世相を描いた浮世絵を発表し、幕府を風刺することもあった歌川国芳の作品でしたので、ペリー来航とそれに困惑する幕府を描いた物ではないかとも噂されました。

しかし、明確にこの事件を描いた物ではなく、歌川国芳の真意は今に至るまで分かっていません。その後、歌川国芳は中風(脳血管障害の後遺症)を患いつつも、「和漢準源氏」のようなダイナミックなタッチの作品を発表しました。

しかし中風罹患後の安政年間で発表された作品の多くはそれまでの魅力を失ったとの評価もあり、以前に作成された下絵を用いた物や、弟子による補助があったことが確認されています。

そして1861年(文久元年)、歌川国芳は65歳の生涯を終え、浅草に墓が築かれました。なお、歌川国芳の墓はその後移築され、現在は東京都小平市大仙寺にあります。

後世への影響

歌川国芳は多くの弟子を抱えており、門弟のなかには「河鍋暁斎」(かわなべきょうさい)、「歌川芳艶」(うたがわよしつや)、「月岡芳年」(つきおかよしとし)、「落合芳幾」(おちあいよしいく)など、江戸末期から明治期にかけて活躍した浮世絵師がいます。

河鍋暁斎は、7歳で歌川国芳に入門して浮世絵の基礎を学び、その後父親の意向で狩野派に再入門したという経歴の持ち主。花鳥画、山水画、浮世絵、戯画など様々な題材、ジャンルの作品を生み出し続けた河鍋暁斎ですが、絵の参考とするために長屋を歩き回って喧嘩の場面を探し歩いたというエピソードがあります。

それは、武者絵の上達の秘訣として、「人を組み伏せる、投げ飛ばすなどの荒々しい動作を注意深く観察すべきだ」という歌川国芳の教えを受けてのことでした。

また、河鍋暁斎は明治期に新政府の役人を批判した戯画を描いて投獄されるなど破天荒な一面も持っており、歌川国芳の権力に対する反骨精神を受け継いでいるとも言えます。

歌川芳艶は知名度こそ低いものの、歌川国芳の武者絵の描き方を最も受け継いでいると言われている浮世絵師。月岡芳年の門徒には明治期に活躍した日本画家も多く、歌川国芳が江戸期の浮世絵だけにとどまらず近代以降の日本画にも影響を与えていることが伺えます。

歌川国芳と歌川派

歌川派の始まり

遅咲きながらも人気絵師としての地位を確立した歌川国芳には、ライバルがいました。

それは、同じ歌川派の歌川国貞です。歌川国芳と歌川国貞のライバル関係は、2人が共に属していた歌川派の歴史と深くかかわっています。ここではまず、歌川国芳と歌川国貞が活躍した時代以前・以後も含めた歌川派の流れについて紹介します。

歌川派は、「歌川豊春」を祖とする江戸後期の浮世絵の一派。歌川豊春は西洋的な遠近法も取り入れつつ、江戸の名所風景や肉筆の美人画などを世に出した先進的な絵師でした。

1814年(文化11年)に亡くなるまでに、歌川豊春は多くの弟子を受け入れています。その中には、初代歌川豊国や「歌川豊広」という、言わずと知られた名浮世絵師がいました。

初代歌川豊国は歌川派第2世代のリーダーと言える存在となり、多数の弟子を抱えて浮世絵界における最大派閥を作り上げます。歌川豊広も多くの弟子を抱えていました。

「東海道五十三次」の作者として著名な「歌川広重」も、歌川豊広の代表的な門人の1人。歌川豊国、歌川豊広の両門下からは、他の派を圧倒するほど多くの浮世絵師達が輩出され、歌川派は当時の浮世絵界を席巻する一大勢力になりました。

歌川派第3世代の3巨匠

歌川派第3世代として活躍したのが、歌川広重、歌川国貞、歌川国芳の3人です。3人はそれぞれ「名所絵(風景画)の歌川広重」、「役者絵(似顔絵)の歌川国貞」、「武者絵の歌川国芳」と呼ばれ、得意とするジャンルが異なっていました。

歌川広重は、歌川国芳とほぼ同時期の1797年(寛政9年)に生まれ、15歳の頃に歌川豊広に入門します。

当初は歌川国貞、歌川国芳と同じく初代歌川豊国に入門しようしましたが、歌川豊国にはすでに門人が多く断られたという経緯による物でした。歌川広重は、遠近法や風雨の流れを感じさせる立体的な描写を用いて名所の風景を描くことを得意としていました。

海や空を描くときに使われる独特の青色は「ヒロシゲブルー」とも呼ばれています。また、歌川広重の絵画は、海を越えて「ゴッホ」や「モネ」らフランス印象派の画家に影響を与えたことでも有名です。

一方で、歌川国貞は1786年(天命6年)に生まれ、15~16歳で歌川豊国に入門しました。歌川国貞は多くの役者絵を世に出したことで知られています。

特に3代目歌川豊国を襲名する前の代表作7枚揃「大当狂言ノ内」シリーズは高い評判を受けました。彼の作画量は、あらゆる浮世絵師の中でも随一だと考えられています。

この3人の中では歌川国貞が若干年上ではあるものの、3人はほぼ同じ時代に歌川派の絵師として浮世絵を制作し、それぞれが独自性を発揮して誰もが知る浮世絵師となりました。この3巨匠の活躍もあり、幕末に歌川派は最盛期を迎えたのです。

亀戸派と玄冶店派

さらに歌川派では、歌川国貞と歌川国芳に連なる派閥が形成されていきます。

歌川国貞一門は、歌川国貞が亀戸に住んでいたことから「亀戸派」と呼ばれていました。

1825年(文政8年)に初代歌川豊国が亡くなってから約20年後、歌川国貞は1844年(天保15年)に3代目歌川豊国を襲名しますが、自らは「2代目歌川豊国」を名乗ります。そのため、すでに2代目歌川豊国を襲名し「本郷豊国」と呼ばれていた2代目歌川豊国と区別するため、「亀戸豊国」とも呼ばれていました。

歌川国貞の著名な弟子の1人に「豊原国周」がいます。豊原国周は、江戸から明治への転換期を生きながら、歌川国貞から受け継いだ従来のスタイルで、浮世絵を精力的に発表しました。ほぼ実物大の大きさで、迫力十分に描かれた役者の大首絵シリーズが特によく知られています。

さらに、美人画にも優れていた豊原国周は、晩年の1890年(明治23年)、日本の暦に太陽暦と1日24時間制が採用されるという変化を作品のモチーフに取り入れ、各時刻に女性を1人ずつ描いた美人画シリーズ「見立昼夜二十四時」を発表しました。

一方、歌川国芳一門は「玄冶店(げんやだな)派」と呼ばれます。これは歌川国芳が当時住んでいたのが玄冶店(江戸初期の幕府医師岡本玄冶の屋敷跡があったことに由来する地名で、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目近辺)だったためです。

落合芳幾は、玄冶店派で活躍した1人。安政江戸大地震後の様子を描いた錦絵や、兄弟子の月岡芳年と競作した無惨絵が、出世作として知られています。

その後は「東京日日新聞」の創刊にかかわり、実際に起きたニュースを題材にした挿絵「新聞錦絵」に精力的に取り組みました。

玄冶店派の中でも、のちの時代への影響が特に大きいのは月岡芳年です。月岡芳年自身は、浮世絵が人気を失いつつあった時代にも歴史絵から美人画まで様々なタイプの浮世絵で人気を集め続けた浮世絵師。

その一方で日本画や西洋画の技法を取り入れることにも熱心であり、彼の弟子の多くは近代的な日本画や洋画の世界で活躍しました。そのため月岡芳年は、「最後の浮世絵師」と呼ばれることもあります。

また、「月岡芳年と言えば無惨絵」との評判もあるように、芝居や戦いを題材として殺しの場面を描く「無惨絵」において、鮮烈でリアルな質感も感じさせる血の描写で人々に強い印象を与えました。

さらに次の世代に目を向けると、月岡芳年が育てた弟子の1人である「水野年方」は、浮世絵だけではなく日本画でも活躍。「岡倉天心」らが結成し、現在も続く「日本美術院」に参加しました。

さらに水野年方のもとからは、「大野静方」や「竹田敬方」、「鏑木清方」など明治期から昭和期に活躍した著名な画家が輩出されています。こうして、歌川派の流れは明治から昭和へと続き、現代にもその影響を間接的に残しているのです。

歌川国貞と歌川国芳のライバル関係

同時代に同じ歌川派として一世を風靡し、その後の浮世絵界、美術界に大きな影響を残した歌川国芳とその兄弟子歌川国貞は、ライバル関係にあったと言われています。

歌川国芳は、自身の父親が歌川豊国の友人だったため歌川豊国に作品を観てもらうチャンスがあり、そこで才能を認められて歌川豊国に入門。

しかし、入門後は素行が悪かったためか、歌川豊国との関係はあまり良くなかったと言われており、大きなヒット作を出せず、20代のうちは十分に稼ぐことができませんでした。

一方で、兄弟子である歌川国貞は順調に人気絵師としての階段を上っており、役者絵や美人絵で多くのヒットを出して、一人前に稼いでいたのです。

当時、絵師の人気ランキングを相撲の番付に見立てた番付表が出されていましたが、それを見ると、当時の歌川国貞と歌川国芳の社会的評価の差がうかがえます。

1813年(文化10年)頃の番付では、当時の最高位とされていた大関に師匠歌川豊国の名前があり、歌川国貞はこれに次ぐ関脇にいました。一方で、歌川国芳の順位は前頭27枚目だったのです。成功しているとは言いがたい状況で、歌川国芳は歌川国貞との差に悔しさを募らせ、以来必死に画法の研究を続けたと言われています。

その後、歌川国芳は30歳を超えてから「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」で絵師としての評価を遂に確立。さらに様々なジャンルでヒット作を生み出して、歌川国貞を追いかけ、ついには肩を並べるまでの人気を得ます。

1844年(天保15年)に、歌川国貞は他の弟子達からの反対を受けながらも、「2代目歌川豊国」を強引に名乗るようになります。反感を持った弟子のなかには歌川国芳一門へと鞍替えした者もいました。

その際、歌川国芳は鞍替えした弟子の1人に、歌川豊国の「豊」を歌川国芳の「芳」の字のあとに置いた「芳豊」という名を与え、「2代目歌川豊国」を強引に名乗った歌川国貞を皮肉ったというエピソードもあります。

年玉印

年玉印

それ以外にも、「2代目歌川豊国」を名乗る歌川国貞に対して歌川国芳が反感を持っていたことをうかがわせる逸話があります。

それは歌川国芳が「年玉印」の落款の使用をやめてしまったことです。

年玉印は「年」の草書体をデザイン化した物で、歌川派の絵師であることを示す家紋のような印でした。

歌川国貞がこの年玉印をしばしば使用した一方で、歌川国芳は歌川国貞が「2代目歌川豊国」を名乗り出して以後、この年玉印の落款の使用を避けます。

芳桐印

芳桐印

代わりに歌川国芳は、新たに自身の名前の一字を入れた「芳桐印」を創案して使うようになり、歌川国貞とは別路線を歩むことを明確にしていきました。

このように、決して仲が良かったとは言えない歌川国芳と歌川国貞でしたが、歌川広重が間に入って仲をとりもったことで、3人の合作「小倉擬百人一首」と「東海道五十三次」が生まれます。

このとき、歌川国芳は約50歳、歌川国定は約60歳になっていました。

「小倉擬百人一首」は江戸時代後期にも人気を集めていた「小倉百人一首」のリメイク版のような物で、「水滸伝」の魯達や「三国志」の関羽、八百屋のお七など、様々なモチーフが絵柄に使われています。

「東海道五十三次」は、歌川広重が主に東海道の名所風景を背景として描き、歌川国貞と歌川国芳が歌舞伎や人形浄瑠璃の題材、歴史上の出来事や伝説など、それぞれの宿場ゆかりの風俗を取り上げ、各々の得意な部分を分担してひとつの作品とした物です。

全体として統一度がないと評価する声もありますが、3人の個性が競い合い発揮されているとも言えます。ここからは、歌川国芳をより詳しく知る上で重要なキーワードを手がかりに、歌川国芳の作品の魅力に迫っていきましょう。

歌川国芳と武者絵

「武者絵の歌川国芳」と呼ばれた理由

歌川国芳が絵師としての地位を確固たるものとしたのは、「通俗水滸伝豪傑百八人之一人」で描かれた迫力ある豪傑達の絵でした。

それをきっかけとして、歌川国芳はしばしば「武者絵の歌川国芳」と呼ばれることとなります。「武者絵」とは主に伝説に登場する武将を描いた絵のことであり、1804~1830年(文化文政期)に3枚続の武者絵を多く発表した勝川春亭がよく知られています。

歌川国芳はそれをさらに発展させ、武者絵のジャンル確立に一役買いました。

「武者絵の歌川国芳」の代表作である「通俗水滸伝豪傑百八人之一人」は、制作の経緯から言えば「水滸伝」ブームに便乗した作品です。

しかしそのブームのおかげで、歌川国芳の迫力ある描写と、質の高い彫り摺り技術を多くの人々が目にすることとなり、さらに人気に火が付いたと言うこともできます。

歌川国芳の武者絵は、絵全体を効果的に使った迫力のある作品である点が特徴です。

例えば「通俗水滸伝豪傑百八人之一人」で歌川国芳は登場人物を対にして配置し、小説内の複数の場面を独自に組み合わせることで画面を構成しています。

豪傑達の鬼気迫る戦いの場面が、十分に計算された構成のもとでひとつの絵の中に統一感をもって描かれることによって、小説「水滸伝」の豊かなドラマが視覚的に巧みに表現されていることが分かります。

さらに、鮮やかな色が映えるのも重要な特徴です。例えば「通俗水滸伝豪傑百八人之一人」では中国の衣服や豪傑達の身体に彫られた刺青が鮮やかな色で表現されています。

また、1855年(安政元年)に発表された「英雄大倭十二士」(えいゆうやまとじゅうにし)は、謡曲や歌舞伎、浄瑠璃の題材となっている12人の英雄(十二人の士)に十二支の動物を割り当てて描いたシリーズ作品。ダイナミックな構図や豊かな色彩はここでも見られる特徴です。

例えば「英雄大倭十二士 寅 和藤内」は「加藤清正」を題材とした物ですが、上から襲い掛かる虎と画面の左右いっぱいに足を広げた加藤清正の姿は共に力強く、かつ色鮮やかで、画面に緊張感をもたらしています。

日本刀もその迫力と勇壮さを与えるひとつのツールとして効果的に登場しており、その存在感は画面に収まらないほどです。

加藤清正は、「豊臣秀吉」の家臣として数々の戦いで勝利した武将であり、この浮世絵は「朝鮮出兵」の際に虎を退治したという伝説の一場面を描いています。

しかしタイトルには「加藤清正」という名前は含まれていません。当時の江戸幕府は、「織田信長」や豊臣秀吉といった江戸幕府成立以前の1573年以降(天正期以降)の武将を、浮世絵や芝居などで取り上げてヒーローとして扱うことを禁止していました。

そのため加藤清正を明示的に描くことができなかったのです。そこで歌川国芳は、「近松門左衛門」による有名な人形浄瑠璃の演目であり、のちに歌舞伎にもなった「国性爺合戦」の主人公である「和藤内(わとうない)」を加藤清正の代わりに登場させることで、幕府の検閲の目を欺きました。

「国姓爺合戦」には、和藤内が虎を屈服させたシーンが出てくるため、加藤清正の虎退治の伝承と重ね合わせることができたのです。

実際に、当時歌川国芳以外の多くの武者絵でも加藤清正は和藤内として登場しており、和藤内を加藤清正に置き換えて鑑賞することは難しくなかったと考えられます。

このように、歴史上の出来事や古典の物語を別の物で置き換えて暗示する手法は「見立て絵」と呼ばれ、歌川国芳もこの手法をしばしば用いました。

「英雄大倭十二士」シリーズではどの絵でも、武将達が今にも絵から飛び出してきそうだと思えるほどの迫力をもって描かれており、また赤、青、緑、黄など多種多様な色が使われていることが特徴です。

本シリーズの別作品「英雄大倭十二士 丑 山本勘助入道道鬼」も注目に値します。この浮世絵で描かれているのは、1553年(天文22年)から約12年間という長期にわたって行なわれた「川中島の戦い」で、血だらけの姿となった「山本勘助」です。

川中島の戦いは、北信濃の支配権をめぐって、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である「武田信玄」と、越後国(現在の新潟県)の戦国大名である「上杉謙信」との間で起きた戦いです。

計5回に及ぶ戦いのなかでも、武田信玄と上杉謙信が直接対決を行なったとされる1561年(永禄4年)の第4次合戦は、最も多くの死者を出したことから「戦国屈指の大激戦」と言われています。山本勘助は武田信玄の軍師として活躍したことが伝えられていますが、この第4次合戦の際に討たれて命を失いました。

歌川国芳は大胆なタッチで血みどろの生首や山本勘助の頭から流れる血を鮮烈に描くことで、この合戦がいかに壮絶であったかを表現しています。なお、山本勘助に割り当てられた十二支の動物は丑(うし)で、山本勘助が三河国牛窪(現在の愛知県豊川市)で生まれたことによる物です。

なお、歌川国芳は他の作品でも川中島の戦いを取り上げています。3枚続きの合戦浮世絵である「武田上杉川中島大合戦」では、画面右の上杉謙信が名刀「小豆長光」(あずきながみつ)で画面中央の武田信玄に斬り掛かり、武田信玄がそれを軍配で交わす様子がダイナミックに描かれています。

歌川国芳とユーモア

歌川国芳の絵の魅力は、その迫力や鮮やかさだけではありません。歌川国芳は独特のユーモアや発想の奇抜さを持っており、それも人々を惹き付けた理由のひとつでした。

見立て絵

歌川国芳が絵師としての地位を確立してほどなくして始まった天保の改革は、浮世絵をはじめとする娯楽産業に厳しい制限を加えました。

これにより遊女や歌舞伎役者を浮世絵に描くことが禁じられましたが、そんな中でも歌川国芳は幕府から浮世絵に描くことを禁止された内容を「見立て絵」として描くことで規制をかわしていきます。

例えば「源頼光公館土蜘作妖怪図」(みなもとのよりみつこうやかたつちぐもようかいをなすず)は、見た目の上では、平安時代の武士である「源頼光」がその部下の四天王とともに土蜘蛛の妖怪と対峙している絵です。

しかしある解釈では、自らの表現活動に多くの制約をもたらした天保の改革を批判した絵であるとも言われています。

絵の右奥で、源頼光は土蜘蛛を退治できずに妖術に苦しめられていますが、これは第十二代将軍「徳川家慶」が何ら政治的な問題を解決できていないことへの批判を暗示していると見ることができます。

また、その横で顔を背けている「卜部季武」は、老中水野忠邦を示しているという解釈です。そしてさらに、絵の上半分を埋め尽くし源頼光らに襲い掛かる様々な妖怪の群れは、天保の改革で苦しむ庶民を意味しているとも言われています。

歌川国芳と同様に幕府へ不満を持っていた当時の人々は、「見立て絵」の裏の意味を類推し読み取り、解釈を語り合って楽しんでいました。

また、天保の改革によって不適切な題材と見なされ、描くことのできなくなった遊女や遊郭にやって来る客を、動物に見立てた作品もあります。「里すゞめねぐらの仮宿」は江戸随一の遊廓、吉原を題材としたもの。

建物や服装などは遊郭の様子を描きつつも、遊女や客などの人物の頭はすべて雀に置き換えられて描かれました。雀がイメージとして用いられたのは、当時吉原の遊郭の客が「吉原雀」と呼ばれていたからであり、当時の人はここにも歌川国芳の遊び心を読み取っていたと考えられます。

寄せ絵

「寄せ絵」とは浮世絵のジャンルのひとつです。様々な人物や動物を寄せ集めて字や人の顔を構成して描かれる物で、「だまし絵」と呼ばれることもあります。歌川国芳はこの寄せ絵の代表的作者でもあり、多くの作品を発表しました。

1850年(嘉永3年)頃の「みかけハこハゐが どんだいゝ人だ」(見かけは怖いがとんだ良い人だ)は、そのなかでも非常にインパクトが強く、学校教材などでも取り上げられて広く知られている作品です。

構図だけを観れば普通の浮世絵の人物画に観えますが、人物の顔をよく観ると、何人かの裸の人が折り重なって顔になっていることが分かります。

身体のあらゆる部分が小さな人でできているというのは、グロデスクではありますがユーモアがあり、一度観たら忘れられません。

さらに絵の横には、「大勢の人が寄ってたかってとうとう良い人をこしらえた。とかく人のことは人にしてもらわねば良い人にはならぬ」という文章が添えられており、不思議な雰囲気を醸し出しています。

2011年(平成23年)には、北米のトヨタがこの作品をヒントとしたCMを制作していたことをご存じでしょうか。実際の人の映像がCG合成で寄せ集められてひとつのキャラクターの全身を構成し、その奇妙なキャラクターの日常が描かれている内容です。

このように、歌川国芳の発想は海外にも影響を与えています。

風刺の精神

歌川国芳は、幕府の規制にも臆することなく社会や政治を風刺し続けました。

しかし、作品作りに明確な政治的信念があったかに関しては様々な説があり、幕府を面白おかしく描きたかっただけだったのではないかとする見解もあります。

ヨーロッパのカリカチュアほどはっきりした政治的意図はなかったのかもしれませんが、それでも歌川国芳の反骨精神は人々から多くの賞賛を受けたのでした。

1847年(弘化4年)頃に出された3枚続きの錦絵「荷宝蔵壁のむだ書」(にたからぐらかべのむだがき)は、一見すると風刺の意図は読み取れません。壁に描かれた落書きの体裁で、釘でひっかいたようなラフなタッチによって人物の絵が描かれています。

この落書きとしての体裁は徹底しており、人物の絵の間には文字が殴り書きされ、落款や版元の表示まで遊びの落書きのようです。

荷宝蔵壁のむだ書(国立国会図書館ウェブサイトより)

荷宝蔵壁のむだ書
(国立国会図書館ウェブサイトより)

現代の漫画に通ずるところもあり、遊び心溢れるこの作品は、歌舞伎役者を浮世絵に描くことに制限が加えられていた当時の状況を踏まえると風刺の意味を帯びてきます。実は歌川国芳が「荷宝蔵壁のむだ書」で描いたのは、大幅にデフォルメされた役者達の絵であり、歌川国芳はあくまで落書き絵として役者絵を出すことで規制を回避し、さらには皮肉ろうとしたのです。

例えば3枚続のうちの1枚では、画面の中央で猫が手ぬぐいをかぶって腰をくねらせていますが、この動作は歌舞伎の1シーンを連想させます。

その猫を囲むように描かれた似顔絵も、「松本幸四郎」や「市村羽左衛門」、「中村歌右衛門」などの歌舞伎役者の特徴を捉えており、落書きのように見えながら事実上の役者絵となっているのです。

ただし、この作品が作られた1847年(弘化4年)頃にはすでに天保の改革を主導した水野忠邦は失脚し、幕府の規制は緩んでいたため、規制を逃れるという意図は薄いのではないかという見解もあります。

歌川国芳と猫

歌川国芳は猫好きだったことがよく知られています。明治期の浮世絵研究者、「飯島虚心」が書いた「浮世絵師歌川列伝」によれば、歌川国芳は常に5、6匹の猫を飼い、さらに1、2匹は懐に入れておくほどの猫好き。

絵を描いている最中にも猫を離しませんでした。また、歌川国芳は飼っていた猫が亡くなった際に供養を行なうだけでなく、家には猫の仏壇が置かれていたのです。さらにこんなエピソードもあります。

ある日歌川国芳が弟子である歌川芳宗にお金を渡し、猫の供養を頼んだところ、歌川芳宗はそのお金で吉原の遊郭に行ってしまいました。

のちにこれを知った歌川国芳は激怒し、歌川芳宗を破門してしまいます。歌川国芳は吉原で遊べるほどのお金をかけて猫の供養を行なっていたのです。

そんな歌川国芳と猫の姿を描いた絵もあり、歌川国芳自身、「浮世よしづ久志」(うきよよしづくし)という作品に猫を抱く自身の姿を登場させました。

また、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・日本画家であり、歌川国芳の弟子であった河鍋暁斎が晩年に口述し自ら挿絵を担当した「暁斎画談」という本には、猫を抱き猫に囲まれながら幼い河鍋暁斎に絵の指導をしている歌川国芳の絵が見られます。

猫を使った作品の紹介

歌川国芳は猫を題材とした作品を数多く発表しています。1841年(天保12年)の「流行猫じゃらし」はお菓子の包装紙に刷られた作品であり、版元の「川口屋宇兵衛」が菓子販売を副業としているために依頼された物だと考えられます。

猫が人間に化けるという「猫又伝説」に着想を得て、猫が手ぬぐいをかぶって踊ったり三味線を弾いたりしている楽しく可愛らしい絵です。

1848年(嘉永元年)頃に発表された「其のまま地口猫飼好五十三疋」(そのままじぐちみょうかいこうごじゅうさんびき)にも、歌川国芳の猫好きがうかがえます。

歌川広重の「東海道五十三次」をもじったタイトルのこの作品は、東海道の53の宿駅に日本橋と京都も合わせた55の場所の名前にちなんだ地口(ダジャレのような言葉遊びのこと)と多種多様な猫を描いた物です。

例えば「沼津」には「なまず」が当てられ、なまずと対峙する猫が描かれています。「大磯」に当てられているのは「おもいぞ(重いぞ)」の語呂合わせと、重いイカを引っ張ろうとしている猫の絵です。

ダジャレをふんだんに盛り込んだ内容からは歌川国芳のユーモアがうかがえるとともに、色や向き、仕草の異なる55もの緻密な猫の絵は、日頃猫と戯れていたなかでの観察の賜物だと言えます。

役者絵と猫を組み合わせる試みがなされているのが、1842年(天保13年)頃の「猫の百面相」というシリーズ作品です。

うちわに描かれたこの作品で、歌川国芳は、「尾上栄三郎」(3代目)、「中村歌右衛門」(4代目)、「市川團十郎」(8代目)など当時活躍していた歌舞伎役者の顔を猫の顔に置き換えつつも、役者の特徴を上手に捉えて描きました。

この作品の成立年代は、天保の改革による規制のまっただなか、すでに紹介した見立て絵と同様に、この絵も規制をかいくぐり、皮肉る物だったと考えられます。

歌川国芳と西洋画

浮世絵の世界で名声を獲得していた歌川国芳は、西洋画にも目を向けていました。

歌川国芳は「西洋画は真の画なり。余は常にこれに倣わんと欲すれども得ず、嘆息の至りなり」と述べて西洋画を非常に高く評価し、西洋画に学ぼうとしていたと伝えられています。

実際、歌川国芳は銅版画を中心に西洋画を数百枚集め、その技法を研究し続けていました。西洋画の写実技法を取り入れることでリアリティの強い作品を生もうとしたのです。

晩年に近づいていくにつれ、歌川国芳の絵には、極端に彩色の濃淡を付けて立体感やコントラストを表現する明暗法が見られることが多くなりました。

これは、西洋画の表現からの影響だと指摘されています。1852年(嘉永5年)に発表された合戦図「甲越川中島大合戦」では、馬に乗って戦う人物の衣服や馬の筋肉の色彩に強く濃淡が付けられており、それによって歌川国芳は風にたなびく衣服の動きや馬の筋肉の凹凸を強調して表現しようとしたのです。

それ以前にも西洋画の影響が見られる物はありました。例えば、1830年代前半(天保初期)の「忠臣蔵十一段目 夜討之図」は遠近法を考慮して描かれています。

この作品は赤穂浪士による仇討ち「元禄赤穂事件」をモチーフにした物。一般的な浮世絵であれば、遠近法を無視して主役を力強く大きく描くはずですが、歌川国芳は遠近法を考慮したサイズで四十七士を描きました。

遠近法を用いた写実的な描写によって、しばしば劇的なドラマの主人公として語られてきた赤穂浪士達は、絵を観る我々と変わらぬ人間だったのだと思わされます。

しかし、従来の浮世絵の表現、そして英雄としての赤穂浪士像に慣れた当時の人々には、あまり受け入れられませんでした。

まとめ

歌川国芳の絵師としての人生は決して最初から順風満帆なものではなく、兄弟子に評価の面で大きく引き離されるなど、苦しい若手時代を過ごしました。

しかしその後、小説「水滸伝」をモチーフにした武者絵で評判を高め、さらに様々なジャンルの浮世絵でヒット作品を出し続けて人気絵師となります。

歌川国芳の人気の理由には、武者絵に見られる力強さや色彩の鮮やかさ、見立て絵や寄せ絵に見られる軽やかな遊び心がありました。

また、歌川国芳は人気絵師となってからも、写実的な西洋画の手法を取り入れたり、幕府の規制をかいくぐる表現を模索したりするなど、常に新たな挑戦をしています。

そんな歌川国芳の精神は、現在に至るまでの日本の芸術にも脈々と受け継がれ、影響を与えているに違いありません。

「歌川国芳」の
浮世絵YouTube動画

幕末の人気浮世絵師・歌川国芳が描いた、武者絵5枚をYouTube動画でご覧頂けます。

武者絵(浮世絵)~歌川国芳~

歌川国芳

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