「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに食うは徳川」という風刺の歌をご存じでしょうか。「織田信長」や「豊臣(羽柴)秀吉」の尽力により成し遂げられた天下泰平の恩恵を「徳川家康」が独り占めしているという有名な風刺です。
これを徳川の治世下である江戸時代に浮世絵にした驚きの浮世絵師がいます。その名も「歌川芳虎」(うたがわよしとら)。「歌川国芳」(うたがわくによし)の門下にして幕末の人気浮世絵師でした。幕末とは言え封建社会の江戸時代に、これほど痛烈な風刺を芸術で行なった歌川芳虎。
その波乱の生涯や作品をご紹介します。
歌川芳虎の印
「歌川芳虎」は幕末から明治の開化期にかけて「歌川貞秀」(うたがわさだひで)と人気を二分した浮世絵師です。
師匠の「歌川国芳」と同様に「武者絵」や「歴史絵」を得意とし、「相撲絵」、「役者絵」、「美人絵」などでもその力量を発揮。
江戸幕府が横浜港を開港してからは、横浜の外国人居留地に赴き、外国から来た人々や珍しい文物を描いた「横浜絵」で人気をあつめました。
明治時代に入ると、蒸気機関車や近代建築などの文明開化を華々しく描いた「開化絵」が評判になります。晩年には「西郷隆盛」が不平士族達と共に蜂起した「西南戦争」をテーマに、かつての武者絵、歴史絵の経験を活かした「戦争絵」を描きました。
高い人気と実力を誇り、激動する時代を描き続けた歌川芳虎ですが、実はその生涯はよく分かっていません。生まれた年も、父親の職業も、家族のことも、基本的な情報さえはっきりしていないのです。さらにいつ亡くなったかも、墓の所在地も分かっていません。
なぜ、情報が伝わっていないのでしょうか。生前の歌川芳虎は「豪放不羈(ごうほうふき:大胆で自由気まま)の性質なり」、「粗暴の人」、「評判よくなし」と評されていました。彼は奇しくもその「虎」の字が表すように、猛々しく激しい性格。それゆえに周囲の人々とトラブルが絶えず、破天荒な生涯を送ることになってしまったのです。
例えば彼は、自分の長屋に同じような気質の人を集めて、「水滸伝長屋」と称していました。この事実ひとつを取っても、常識に囚われない変わった感覚の持ち主だったことは間違いありません。それゆえに、彼の周囲からはどんどん人が離れていきます。
彼の才能を愛した師匠・歌川国芳にも不義理を働いて破門状態。さらには同門の兄弟弟子達もやがて彼を見放してしまいます。こうした孤立の末、絵師仲間や版元の人間の手記にも彼の死は記されず、没年すら分からない状態に陥ったのです。
絵師として輝かしい成果を残したものの、晩年を孤独に生きた孤高の天才絵師・歌川芳虎の生涯をたどってみましょう。
歌川芳虎の本名は「永島辰五郎」(ながしまたつごろう)。江戸に生まれました。父親の名が「亀次郎」ということは分かっていますが、父の職業や生家の家族構成などは不明です。
兄弟がいたのか、母親はどういう人だったのかなど、一切記録には残っていません。ただ父親と共に長屋暮らしで、決して裕福な家ではありませんでした。
ただし、おおよその生年を知ることのできる資料があります。師の歌川国芳が1858年(安政5年)に書いた手紙、いわゆる「破門状」です。手紙によると、歌川芳虎は11歳で歌川国芳のもとに入門しています。入門後20年ほど絵師として活躍し、1858年(安政5年)に破門されました。
したがって、入門した年は1838年(天保9年)前後であり、そのとき 11歳だったことから、誕生は1828年(文政11年)ごろと推測できます。もっとも、これも一説に過ぎません。残された作品の発表年などと比較すると、若干整合性に欠ける部分もあるため、定説となるには至っていないのです。
少年期の歌川芳虎はどのような生徒だったのでしょうか。
歌川国芳の画塾で共に絵を学んでいた人物が、当時の様子を描いています。資料の少ない歌川芳虎の人物像をその絵から探ってみましょう。
暁斎画談 外篇・巻之上「暁斎幼時周三郎国芳へ入塾ノ図」
(国立国会図書館ウェブサイトより)
この絵を描いたのは「河鍋暁斎」(かわなべきょうさい:本名、周三郎)。1837年(天保8年)、歌川国芳の私塾に7歳で入門した浮世絵師で、その後、2年で画塾を辞めて狩野派に入門し、絵師として大成しています。その点で、厳密には歌川国芳門下であるとは言えません。
当時の歌川国芳は長い不遇の時代を乗り越え、ようやく「通俗水滸伝豪傑百八人」などの武者絵で評判を取り、人気絵師の仲間入りをしていました。その門下には日々入門希望者が殺到し、歌川芳虎や河鍋暁斎のような少年が内弟子として抱えられていたのです。
無類の猫好きだった歌川国芳。部屋のなかには、足の踏み場のないほどに無数の猫がいて、思い思いにくつろいでいます。その猫達に囲まれながら、門下生は絵を習っていました。
図の右側の絵で猫まみれになっているのが師匠の歌川国芳で、彼に絵を習っている幼い子どもが河鍋暁斎です。そして左側の絵で、ひとりの少年に乗りかかり、押さえ付けてなにやら乱暴している暴れん坊の少年がいます。その暴れん坊こそが、若き日の歌川芳虎その人です。
彼に押さえ付けられているのが歌川芳員(うたがわよしかず)で、それを楽しそうに観ているのは、何度も破門されながらも何度も復帰し、のちに国芳の右腕と呼ばれるようになる「歌川芳宗」(うたがわよしむね)。
猫まみれの歌川国芳の後ろには、早世した「歌川芳玉」(うたがわよしたま)の姿もあります。まだ「月岡芳年」らが入門する10年以上前の歌川国芳の画塾風景です。
この絵にも如実に表れているように、歌川芳虎は子どもの頃からすでに「暴れん坊」でした。歌川芳虎の画号は「芳虎」や「歌川芳虎」の他に「一猛斎[いちもうさい]芳虎」とも言います。
「一猛斎」の画号は歌川派の伝統による物。3代前の師で歌川派の祖「歌川豊春」が「一龍斎」と名乗ったのが始まりで、弟子の「歌川豊国」が「一陽斎」、続いて歌川国芳が「一勇斎」と、代々「一○斎」と名乗っています。歌川芳虎の「一猛斎」は、まさに猛々しい彼にふさわしい画号。
なお、時期によっては他の画号として「孟斎[もうさい]芳虎」「錦朝楼[きんちょうろう]芳虎」、本名の永島を使った「永島芳虎」や「永島孟斎」なども使っていました。
歌川芳虎は歌川国芳に入門し、天保の末頃から兄弟弟子と共同で歴史読物や人情本の挿絵などの作画を開始。1842年(天保13年)には早くも5枚組の錦絵「信州川中嶋大合戦」を描いています。
「信州川中嶋大合戦」
(国立国会図書館ウェブサイトより)
この絵は5枚組でしたが、そのことでトラブルがありました。錦絵を3枚以上のセットで売るのはルール違反であるとして、版元が処分され、証文を書かされたのです。その際に、絵師である歌川芳虎の署名も書かれました。彼がまだ子どもだったために、そこには父親として亀次郎の名前も添えられています。
「信州川中嶋大合戦」の技巧とその事実を並べてみると、なんとも印象的。
歌川芳虎はまだ入門して数年に過ぎず、保護者が連名しなければならない子どもでした。しかしその圧倒的な描き込みの量はすでに浮世絵師としての溢れる才を輝かせています。
歌川芳虎が絵師としての活動を本格化したのは、弘化年間(1844~1848年)。彼は師匠・歌川国芳と共に武者絵の達人であるとされるのが一般的ですが、武者絵を描くことが多かったのは、当時の社会情勢によるところもありました。
というのも、綱紀粛正を唱え、風俗取り締まりを行なう「水野忠邦」(みずのただくに)が主導した「天保の改革」によって、「春画」は言うに及ばず、「美人画」や「役者絵」でさえも自由に描けない時代になっていたのです。庶民の娯楽を提供するはずの浮世絵師達は、表現規制を行なう幕府に対して不満を高めることになります。
そんな情勢下の1849年(嘉永2年)、歌川芳虎は幕府から厳罰を受けることになります。その原因は、冒頭に挙げた天下餅の落首を錦絵にしたこと。当然のことながら、これが幕府徳川家を怒らせてしまいました。
江戸時代は徳川家が統治する徳川家の世の中です。その初代将軍である徳川家康は、「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)すなわち神様として崇拝の対象にさえなっていました。そんな当時の社会で徳川家康のことを悪く言うのは、タブー中のタブー、神様に唾を吐くに等しい行為だったのです。
このとき彼が受けた罰は「手鎖50日」。50日間自宅謹慎のうえ、両手に鎖を付けたまま暮らさなければならないというものでした。
その数年後、江戸はある物の登場によって大騒ぎに陥ります。1853年(嘉永6年)のいわゆる「黒船来航」です。
アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が、アメリカ大統領の密書を持って、鎖国していた幕府に開国をもとめて4隻の軍艦で江戸湾にやってきました。
このとき歌川芳虎がこの話をどう聞いたのか、あるいは彼自身黒船に興味を持ったのかは分かっていません。
しかし江戸と日本の運命を変えるこの出来事が、彼の人生も変えていくことになりました。望んでか望まずか武者絵を描いていた歌川芳虎ですが、これ以降蒸気船や蒸気機関車といった「文明開化」の文物を好んで描くようになっていきます。
ちょうど黒船来航と同じ頃、20代だった歌川芳虎は一人前の絵師として独立。それまでは歌川国芳の工房で仕事を手伝い、成長してからは工房に入ってくる仕事を門弟で分担していたと思われます。
しかしこのときから、一門と距離を取って歌川芳虎という自分の名前で仕事をし始めたのです。
その独立から約5年後、「破門状」が書かれることになります。1858年(安政5年)、歌川芳虎およそ30歳のときでした。歌川国芳が関係各所に「破門状」を回したことで破門が成立しましたが、実はこの破門騒動にも不明瞭な点が多くあるのです。
師匠・歌川国芳の方では、「よく理由もなく腹を立て、突然、芳虎の名前を返上し、画業を辞めると言い出した」と書いています。理由はよく分かりませんが、弟子の歌川芳虎の方から「破門にしてくれ」と一方的に要求したのです。
実際、歌川国芳の方には破門にする理由も余裕もありませんでした。歌川国芳は、この数年前に中風(脳出血などによって起こる、半身不随、手足のまひなどの症状)を患い、歩行にも支障をきたすような状態で闘病中の身。
手紙には「本人が辞めると言うのなら仕方がないので、このように破門のお知らせをする」とあるものの、どうもすっきりしない話という他ありません。
もともと気性が激しいとは言え、20年間の師弟関係を断絶し歌川芳虎の名を返上して絵を描くのも辞めると言うのですから、よほどのことがあったのだと思われます。
しかし、不可解なのは、「名前を返上する」と言った歌川芳虎が、実はそのあともずっとその名前を使い続けていることです。師匠の歌川国芳自身がそれを容認、もしくは黙認していたため、他の弟子たちも口を挟めず、その状況は続くことになります。
1861年(文久元年)に師匠が亡くなると、さらに堂々と「歌川芳虎」の名で活躍しました。やがて当代で1、2を争う浮世絵師へと成長してゆくのですが、その名を見る限り、彼が歌川国芳から破門されたことが事実なのか関係者でさえも首を傾げたことでしょう。
激動の幕末期にあって、幕府の力は日に日に弱まり、江戸でも不満を抱えた攘夷派の武士達が開国反対、外国人排斥を唱えていました。
そんな折、1863年(文久3年)、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が江戸を発ち、京に向かいます。3代将軍家光以来、230年ぶりとなる将軍の上洛。その目的は「攘夷」論者の「孝明天皇」に幕府の政策である「開国」を申し述べるためでした。
実際に外国から圧力をかけられている幕府としては、もはや開国に踏み切るしかなくなっていたのです。
孝明天皇
この230年ぶりの上洛というビッグイベントに便乗しようと、江戸の版元達10数人が一致団結。歌川派の13人の絵師達を選りすぐり、「御上洛東海道」という江戸から京都までの名所を描かせる記念シリーズを企画しました。
それも単なる風景画企画ではなく、実際に行列と共に旅をして描くという、ルポルタージュ的な要素もある空前絶後の企画だったのです。
参加したのは、3代目歌川豊国、2代目「歌川広重」、「歌川芳形」、「歌川芳艶」、月岡芳年、「歌川国貞」、「歌川国福」、「豊原国周」、「歌川国綱」、河鍋暁斎らそうそうたる絵師達です。
そしてこの「御上洛東海道」には、破門されていたはずの歌川芳虎も参加し、全163枚のうち、「神奈川」、「箱根」、「あべ川渡」、「藤枝」、「藤川」、「宮」、「坂の下」、「御能拝見」など9枚を制作。
もはや歌川芳虎が飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子であることは議論の余地がありませんでした。歌川国芳一門のなかでも古株である彼に対しては、兄弟弟子も何も言えない状況になっていたのです。
1864年(元治元年)ごろから、歌川芳虎の錦絵にはあらたな題材が加わります。横浜絵と呼ばれる新しいジャンルです。
開港して外国人居留地が作られ、様々な海外の人々や文化が入ってくる横浜を題材とした作品がそう呼ばれます。
彼に限らず、浮世絵師達は西洋の珍しい文物や、様々な外国人の姿を絵に描いて江戸の人々に伝えました。特に歌川芳虎は横浜絵の名手として新境地を開拓することになります。
さらに1868年(明治元年)の明治維新以降には、文明開化の波は横浜だけでなく東京にも到来。すると歌川芳虎は続いて蒸気機関車や西洋建築に興味を持ち、文明開化によってもたらされた東京の新しい物を描く「開化絵」を描きはじめました。
歌川芳虎の横浜絵と開化絵は好評を得ます。明治元年の錦絵師のランキングで歌川貞秀に続き第2位の栄誉に輝き、文明開化と共に、浮世絵師としての最盛期が訪れたのです。
三囲神社
しかしその最盛期も長くは続きません。
1873年(明治6年)に行なわれた師匠・歌川国芳の13回忌法要において、東京向島の「三囲神社」(みめぐりじんじゃ)に記念碑が建てられました。
その石碑には、国芳一門の浮世絵師の名前が彫られることになりましたが、一門の弟子達の間で話し合いが行なわれ、石碑には「芳虎」のただひとりだけ、名前を刻まないことが決まったのです。
国芳一門の歌川芳兼(うたがわよしかね)の子息は、一門の中での歌川芳虎の評価をこのように記しています。
「芳虎は師匠の名をダシにして自分計り旨い汁を吸ふケシカラン奴だ」([日本書誌学大系28]若樹漫筆「一勇斎国芳の話」)これを機に、師匠が曖昧にしていた破門はようやく現実となります。
国芳一門のなかでも最古参のひとりであるがゆえに黙認されていた者が、一門会の総意として追放が正式に決定されたのです。
晩年には1877年(明治10年)に起こった西南戦争に題を取った「戦争絵」を描くことに活路を見出しましたが、以前ほどの活躍はできなくなっていました。
一時は人気絵師ランキングの上位に名があり、時代の寵児ともなっていた天才絵師であっても、正式な破門はその画業を困難にするだけの効力を持っていたのです。
歌川芳虎は1887年(明治20年)頃、亡くなったと言われています。これは記録から割り出した推測でしかなく、実際のところはいつどこで亡くなったかは分かっていません。
師と袂を分かち、同門の後輩からは追放され……まるで自分の才能へのうぬぼれから「虎」に変身してしまった詩人の物語「山月記」(中島敦)を思わせる、波乱に満ちた生涯でした。
しかし彼も全くの孤独のなかで亡くなったわけではありません。門人と呼べる者はほとんどいませんでしたが、弟子に絵師「永島春暁」(ながしましゅんぎょう)がいたことが分かっています。
永島春暁は、本名を永島福太郎と言い、他ならぬ芳虎自身の息子です。父親を手伝って西南戦争の「戦争絵」の仕事をしていた形跡が残されています。
少なくとも、弟子で息子の永島春暁がいたことで、歌川芳虎の晩年が明らかになる可能性があり、その人物像も詳しく解き明かされる日が来るかもしれません。
限りなく不器用で孤高の天才であった「暴れん坊絵師」歌川芳虎。彼の残したその作品が愛され続けるならば、彼の謎多き生涯もいずれ解き明かされることでしょう。
歌川芳虎はデビュー当初から、師匠ゆずりの武者絵と「歴史絵」を主に制作していました。
上でも触れた通り、この画題の選択には社会状況がかかわっています。庶民の娯楽を描いた「役者絵」や、美しい女性を描いた「美人画」、男女の愛を描いた「春画」などが描きにくい状況だったのです。
当時、老中・水野忠邦が打ち出した「天保の改革」によって、江戸の娯楽産業は大きなダメージを受けていました。
歌舞伎を上演する「芝居小屋」や演芸を上演する「寄席」が閉鎖されたまま再建許可も出されず、庶民の娯楽文化は激しい弾圧の下に置かれます。
改革は、浮世絵や版本の出版にも影響します。なかでも「役者絵」や「美人画」、それに「春画」などの「風俗絵」を幕府が直接検閲できるようになったことの影響は計り知れません。
版元が検閲用に納本しなければならなくなり、内容の取締が非常に厳しくなって業界の萎縮を招きました。
幕府の検閲は厳しいもので、「役者絵」や「遊女絵」が禁止されるだけでなく、賢女や烈女といった歴史上の偉人でさえも取り締まりの対象とされます。
その代わり「勧善懲悪」や「道徳教訓」といった、教科書のような作品が推奨されました。したがって、「歴史絵」や武者絵が流行ったというよりは、浮世絵のジャンル自体が限定されてしまっていたのです。
1843年(天保14年)には、浮世絵師達は「風紀を乱すような絵を描かない」という証文にサインをさせられています。
歌川芳虎もそのひとりですが、師匠・歌川国芳や「渓斎英泉」、歌川国貞、歌川貞秀、歌川広重といった当時の代表的浮世絵師がその証文に名を連ねています。
このような表現規制の動きに対して、浮世絵師達は反骨の意志を示し、猛然と反抗。その急先鋒が、師の歌川国芳とその一門でした。
歌川国芳が行なった抵抗は「笑い」です。直接的に異議を申し立てるのではなく、分かる人には分かるようにメッセージを暗号のように込める「判じ絵」として、水野忠邦への批判を世に問います。
1844年(弘化元年)には歌川国芳が「源頼光土蜘蛛の画」という錦絵を発表。このなかで妖怪退治を行なう「源頼光」(みなもとのらいこう)の家来である四天王のひとりにこっそりと水野忠邦の家紋を付けていたのです。
これが幕府批判ではないかと話題となりました。このときは警戒した版元が回収し、版木の該当部分を削ったことで、幕府からの追及を回避。
そののちに弟子である歌川芳虎もまた、同じような「土蜘蛛」の題材を、趣向を変えて出版します。しかしこのとき歌川芳虎は運悪く処分の対象になっていました。
処分されたが故に、彼の「土蜘蛛」がどのような内容で幕府の批判をしたのか詳細は伝わっていませんが、反骨や諷刺が国芳一門のお家芸であることが窺える逸話です。
「道外武者御代の若餅」
1849年(嘉永2年)
(国立国会図書館ウェブサイトより)
そんな師匠ゆずりの「反骨精神」が爆発したのが、数年後の「道外武者御代の若餅」事件でした。
1849年(嘉永2年)、「道外武者御代の若餅」(どうがいむしゃみよのわかもち)という錦絵を発表します。
天下統一を「餅つき」にたとえ、織田信長が杵で餅をつき、明智光秀が餅をひっくり返し、サル顔の羽柴秀吉が餅を丸めて、最後にそれを食べるのが徳川家康であるという錦絵です。
現代的に言えば「風刺漫画」と言えます。
「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」という落首(らくしゅ:人の目に付きやすいところに匿名で落書きされた政権批判の詩)を絵に描いた物でした。
もちろんその意味は、徳川家康は何もしておらず、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉の手によって天下統一が叶ったところを、最後においしいところを持っていった「だけ」だという徳川家康への皮肉です。
当然のことながら、これは大きな話題となり、たちまち当局の知るところとなってすぐに没収されてしまいます。江戸時代、徳川家康は「東照大権現」の名で神様として日光東照宮に祀られており、神聖な存在でした。
幕末になりその権威が揺らぎはじめていたとは言え、徳川家康を侮辱することは幕府にとって許しがたい重罪に違いありません。
歌川芳虎は「手鎖50日」という処罰となります。これは50日のあいだ、手に手錠を付けて、家で謹慎していなければいけないという罰でした。歌川芳虎はそんな目に遭いながらも、その後も懲りずに諷刺精神に富んだ作品を発表します。
「子供遊び 凧あげくらべ」では、一見すると凧(たこ)が空を埋め尽くす様子が描かれた牧歌的な絵。しかしよく観ると、それぞれの凧に米や味噌、紙類、乾物、下駄、船賃、漬物、塩、鰹節、菜種と日用品の名が書かれています。実は庶民生活を苦しめる物価高騰を風刺した作品だったのです。
他にも、このような「判じ絵」があります。
堀川夜討乱入之図
「堀川夜討」とは、「義経記」に書かれた有名な話。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)は、弟「源義経」(みなもとのよしつね)の勝手な振る舞いに怒り、家臣「土佐坊昌俊」(とさのぼうしょうしゅん)に源義経の追討を命じます。
そこで、土佐坊昌俊は「熊野参詣」のふりをして、京都六条堀川にあった源義経の館に近づき、夜討を仕掛けるのです。
この作品は、土佐坊昌俊達が源義経の館に乱入するシーンとして描かれたように観えますが、左上にいる源義経の着物をよく観ると、「織田木瓜」という「織田信長」の家紋が描かれています。
つまり、これは「太閤記」に出てくる「本能寺の変」になぞらえているのです。士農工商の身分が定まっていた江戸時代において、平民から征夷大将軍となった豊臣秀吉は庶民にとって憧れの存在。身分制度への反発を恐れた徳川幕府は、豊臣秀吉の人生を綴った「太閤記」に関する書物の出版をすべて禁止しました。
歌川芳虎は、弘化期から安政期(1844~1854年)にかけて、多くの武者絵と「歴史画」を残しています。
「つき島にて日をまねぐ清盛」
(国立国会図書館ウェブサイトより)
「つき島にて日をまねぐ清盛」は、音戸の瀬戸における工事の際、夕陽を扇で呼び返したという平清盛の逸話を描いたものです。大きく描かれた平清盛が権勢を誇っており、左右の祇王・祇女も実に華やかに描かれています。
しかし歌舞伎の名場面でもあるこの伝説は、世界を意のままに動かせるほどの栄華も永遠には続かず、やがて滅びてしまうという風刺的な意味を持つものでもあります。
「源頼光藤原保昌之両将免勅命丹波国大江山之鬼盗酒呑童子退治ス」も代表作のひとつです。
鬼退治の名手・源頼光(よりみつ/らいこう)と頼光四天王のひとり藤原(平井)保昌の軍勢が、だまし絵のように奇怪な鬼のすみかを攻める様を望遠で描いています。
細かいところまで描きこまれており、見るほどに新たな発見があるユーモラスさの漂う一作です。
こちらは、徳川家康が「武田信玄」に大敗した「三方ヶ原の戦い」における、徳川家康軍の様子を描いた作品。右に描かれた徳川家康を無事に逃がすべく、「本多忠勝」(ほんだただかつ)が槍を持って奮闘する様子が左に描かれています。
武者絵の歌川芳虎と評されますが、やはり「武者絵の名手」である師・歌川国芳の影響が強く感じられます。その独自性が際立ち本領が発揮されるのは、師と袂を分かち独自の題材を描き始めたあとからのことです。
新洞左衛門娘夕しで
坂東三津五郎
(国立国会図書館ウェブサイトより)
歌川芳虎の「役者絵」の代表作と言えば、大首絵「新洞左衛門娘夕しで 坂東三津五郎」です。
版元である錦昇堂の恵比寿屋庄七が刊行していた「錦昇堂版大首絵」を、「3代目歌川豊国」から引き継ぐ形で担当しました。
3代目歌川豊国は明治初期に歌川芳虎と人気を二分した歌川貞秀の師匠にあたる歌川国貞です。3代目歌川豊国(国貞)と歌川国芳は兄弟弟子にあたり、ライバルとなる歌川貞秀は言うなれば「いとこ弟子」にあたる関係でした。
「夕しで」(ゆうしで)は、「苅萱桑門筑紫?(かるかやどうしんつくしのいえづと)」に登場する娘です。演じる坂東三津五郎(6代目)は当時20代の若女形で、その実力は大いに期待されましたが若くして亡くなっています。
歌川芳虎は、「美人画」も数多く残しています。
代表的な美人絵として挙げられるのは、明治に入ってから描かれたシリーズ「当世十二時」。「時計」をキーワードに遊郭の1日を描いたもので、それぞれ時刻をあらわす十二支の名前がついています。
美人が大きく描かれていますが、背景に細かく生活の様子が描かれているのが特徴。12枚揃うと吉原の花魁やそこで働く人々の1日も分かります。遊郭の様子や暮らしぶりが窺える作品です。
「座しき八景の内 上漏の松の雨」は団扇絵です。なんとも楽しげに小さなジョウロで植物に水をやる女性が描かれています。当時も庶民の趣味として園芸が親しまれており、何気ない日常風景に美人の姿を見出した作品です。
慶応3年に開催されたパリ万博に向けて、「浮世絵画帳」を歌川貞秀ら人気浮世絵師と共に合作で制作しています。
合作と言っても1枚の絵を複数人で描くのではなく、複数の絵師の作品を集めてひとつの画帳に収録するというものでした。
歌川芳虎の他にも歌川芳艶、「落合芳幾」、豊原国周、月岡芳年、「喜斎立祥」、「歌川芳員」、歌川貞秀、歌川国貞、「歌川国輝」、という当時の実力者が揃って参加しています。
パリ万博には他に「江戸名所図絵」を始めとする各地の名所図会や、「北斎漫画」、歌川貞秀や渓斎英泉らの画集なども出品。この出品が浮世絵文化を広く海外に知らしめるきっかけのひとつともなったのです。
しかし残念ながら、作品リストに名は残っているのですが、「浮世絵画帳」にどのような作品が含まれていたかは分かっていません。
師匠と決別し「芳虎の名の返上と、絵師を辞めることを誓った」という歌川芳虎ですが、名も返上せず筆も折りませんでした。むしろ万延年間から慶応年間(1860~1868年)にかけて、全く新たな題材を求め新たな活躍の場を広げます。
「武州横浜八景 吉田橋乃落雁」
(国立国会図書館ウェブサイトより)
1859年(安政6年)、江戸幕府はアメリカなど諸外国の要求を受け入れて鎖国を解き、函館、横浜、長崎、新潟、神戸などを開港。海辺の寒村だった横浜は開港に伴ない外国人居留地が設けられます。
多くの「異国人」が訪れるようになり、様々な新しい文物が持ち込まれました。
常に新しい「今」を描き続ける職業である浮世絵師にとって、それらは格好の題材。歌川芳虎だけでなく、多くの浮世絵師が江戸から横浜に取材に訪れるようになったのです。
こうして横浜絵が生まれました。江戸の人々が観たことも会ったこともない諸外国の人々の服装や容貌、西洋文明によってもたらされた目新しい文化や物などが次々に描かれたのです。
「万国尽 亜墨利加人」
(国立国会図書館ウェブサイトより)
横浜絵は、江戸の人々の「外国のことを知りたい」という知的欲求に応えて大ヒットを記録。
横浜に入ってきた新しい外国文化はもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、中国など、当時「異国」と呼ばれたところから来た「異人さん」の姿は、転換期を迎えた江戸にあって最も耳目を集める情報になりました。
いち早くこれに目を付けた歌川芳虎は横浜絵の名手としても、名を上げることになります。
「万国尽」(ばんこくづくし)は横浜を訪れたアメリカ人やオランダ人、中国人、イギリス人、ロシア人など、様々な国の人々の姿を描いた作品。
国別の衣装や風俗をとらえて描くことで、異国の姿を伝えました。
「英吉利国(ロン)頓図」慶応2年
(国立国会図書館ウェブサイトより)
この「英吉利国(ロン)頓図」は、イギリスの首都ロンドンの街を描いた作品です。もちろん歌川芳虎はロンドンに一度も行っていませんが、写真か西洋銅版画などを参考にしたと言われています。
「中天竺舶来之かるわざ
横浜の地におゐて興行之図」
(国立国会図書館ウェブサイトより)
また、横浜にやってきたサーカス団の様子も描きました。「中天竺舶来之かるわざ横浜の地におゐて興行之図」という錦絵は、1864年(元治元年)3月に横浜に来た曲馬団を描いたものです。
タイトルには「中天竺」とありますが、インドから来たわけではなく、正しくはアメリカの「リズリーサーカス」による公演。日本国内での公演を望み幕府と交渉した結果、横浜の外国人居留地の中で行なわれたのでした。
鉄棒、玉乗り、馬の曲乗りなどが描かれ、いかにも楽しそうな興行の様子ですが、よく観ればこれも実物を観ずに描いていることが分かります。
左の中ほどに「三月上旬より」と書いてある通り、これはサーカスの広告だったのです。
歌川芳虎はこの他にも見世物イベントの広告作成の仕事もしていました。
当時の浮世絵師は多様な仕事を請け負っており、広告だけでなく、屏風やふすま、壁の絵、商売の看板なども描いています。
「武州横浜八景」、「万国尽」、「外国人物尽」などの横浜絵は、歌川芳虎自身に大きな刺激を与え、新たな方向性を示すものとなりました。
文明開化や異文化を描く作風の原点は横浜絵から始まったと言われています。
1868年(明治元年)になると、徳川氏が築いた江戸は天皇中心の帝都「東京」として生まれ変わります。
一時は江戸が戦場になり火の海になると心配されていたものの、「勝海舟」と西郷隆盛の会談によって江戸城無血開城が達成され、江戸は火の海にならずに済みました。
そんな激動の明治元年、歌川芳虎は錦絵師番付で歌川貞秀に次いで第2位にランクインします。新境地の横浜絵が大人気となり、いまや押しも押されもしない人気絵師のひとりなったのです。
江戸が火の海になるかもしれなかったときにこんな番付があったことは、少なからず驚きの事実ではあります。しかしそれは江戸に生きる庶民の平和な日常生活が守られた証でもありました。江戸の平和が守られたことによって、浮世絵師と浮世絵文化もまた守られることになったのです。
これまで江戸の現在を描き続けてきた浮世絵師は、このときから東京の現在を描き始めます。
そこには文明開化によって目まぐるしく変化する日常がありました。歌川芳虎がそのなかで特に好んで題材にした物があります。
まずは「蒸気機関車」や「蒸気船」などのメカニカルな物、そして壮大で緻密な西洋建築です。
「KURUMADSUKUSHI」(車づくし)は子ども用の「おもちゃ絵」です。人力車から自転車、馬車、外輪のある蒸気船、蒸気機関車、さらには糸車まで、様々な「車」が描かれています。
自転車も我々が想像するような自転車ではなく、屋根付きもあれば2乗りも描かれています。
また電信柱にも「テレガラフ」や「バッテイラ」と書いてあり、電信と電力用の電柱を区別して理解していることが分かります。
「蒸気車陸道通行之図」も開化絵の代表作。自動車と蒸気機関車らしき物が描かれていますが、限られた情報もとに描かれたためか、レールが描かれていません。
そのせいもあって、描かれている機関車はどこか現実離れして奇妙ですが、新しい技術の登場を興奮と共に伝えようとする姿勢が見て取れる絵です。
実は、彼がリアルな蒸気機関車を描かなかったのには理由があります。日本で最初の鉄道開通は、1872年(明治5年)に東京-横浜間で開通したもの。
一方、この「蒸気車陸道通行之図」が描かれたのは1870年(明治3年)で、現実に開通する2年前に描かれています。
つまり歌川芳虎は観たことのない「蒸気機関車」を、伝聞した情報から空想で描いたのです。リアルな蒸気機関車を描かなかったのではなく、描きようがなかった頃の作品でした。
その点、この作品は歌川芳虎の「未来予想図」とも言うことができます。
かつて、朝廷や幕府に重用された「御用絵師」達は、しきたりや見本帳に則って、「昔」を描くことに執心してきました。一方、江戸の浮世絵師はなんでもありのこの世、すなわち「浮世」の「いま」を描くことに命を賭けてきたのです。
そして明治に至り、浮世絵師はまだ実現していない蒸気機関車を勝手に予想し、空想して描き始めました。浮世絵師が「未来」を描き始めた最初の瞬間がここにあります。
「東京駿河町三ツ井正写之図」1874年(明治7年)
(国立国会図書館ウェブサイトより)
歌川芳虎は西洋建築にも興味をいだきました。とりわけ「三ツ井組ハウス」(第一国立銀行)には深く魅了され、何度も様々な角度から描きます。引いた位置から広い景観を描くのは「歴史絵」の頃から彼の本領とも言える構図でした。
この絵もそれらと同じ構図が用いられており、また彼による「歴史絵」同様に非常に細かい部分まで描き込まれていることが分かります。
西郷隆盛
1877年(明治10年)2月、維新の英雄である西郷隆盛が1万3,000にのぼる鹿児島の不平士族達と共に武装蜂起し、政府軍と対決しました。
この出来事は浮世絵師達にも大きな刺激を与え、「西南戦争」の「戦争絵」が大流行しはじめます。とは言え、戦地は遠く鹿児島であり、実際の取材は困難。
そこで伝わる情報と想像を交えながら、虚実入り混じった西南戦争の錦絵がたちまち氾濫することとなります。
歌川芳虎も数多くの「戦争画」を描きますが、やはりフィクションの要素を入れて描かざるを得ませんでした。
「鹿児島の女軍隊力戦図」は、鹿児島の女性達が剣を取り、馬に乗って政府軍に立ち向かう姿を描いた作品。実際には、このように女性が武器を取って兵士と正面衝突するような出来事があったわけではありません。
江戸時代の振る舞いと言い、歌川芳虎は「反体制」の側に視点を置いて、弱い方に加担する「判官びいき」の気がありました。
常に大衆に寄り添う浮世絵師としての習いなのかもしれません。この錦絵も、そうした視点から戦争をドラマチックに描くために創作したものだと言われています。
西南戦争の「戦争絵」によって、歌川芳虎は再び若き日の武者絵時代の熱気を蘇らせたように観えます。
しかし、その情熱を燃やし尽くすだけの余裕は、西南戦争というテーマにも、また歌川芳虎自身にも、そして何より浮世絵の世界自体にも残っていませんでした。
西南戦争は西郷隆盛の自決をもって終結。
1877年(明治10年)9月24日、義のために立ち、巨大な権力に立ち向かった西郷隆盛は自ら命を絶ちました。ところが、彼が死んだあと、奇妙な噂が広まりはじめます。夜空に真っ赤な星が現れ、その星のなかに西郷隆盛がいたと言うのです。
天文学的には、その赤い巨星は「火星の大接近」というれっきとした天体現象なのですが、当時の人々はそれを「西郷星」と呼び、大西郷が本当に「星」になったのだと信じました。
この噂を聞き付けた歌川芳虎によって、この姿は浮世絵となります。
こうして具体的な姿を与えられた噂は、より多くの人々に知られ、西郷隆盛の生き様と最期が人々の心に残り続けることになったのです。
しかし、西郷隆盛は浮世絵によって誕生した最後の英雄になりました。
長く英雄の姿を描き続けてきた浮世絵の世界は、1882年(明治15年)頃から機械印刷機を使用する出版社の登場によって、衰退の道を歩んでゆくことになるのです。
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