- 明治天皇浮世絵
いのうえたんけい さく「かんぺいしきみゆきず」 井上探景 作「観兵式御幸図」 /ホームメイト

本皇族浮世絵のタイトルにある「観兵式」(かんぺいしき)とは、大日本帝国陸軍(旧日本陸軍)による儀式のひとつ。
天長節(てんちょうせつ:天皇の誕生日を祝った祝日)や陸軍始(りくぐんはじめ:毎年1月8日に行なわれていた旧日本陸軍の仕事始め)、特別大演習などの際に軍隊を整列させ、天皇が観閲(かんえつ:軍隊の状態を実際に見て調べること)される目的で行なわれていました。
観兵式は、1868年(慶応4年/明治元年)に「明治天皇」が即位したあと、京都の「河東操練場」(かとうそうれんじょう)にて、護衛総隊の軍容などを親閲(しんえつ:整列した軍隊の前を、天皇が直接見回ること)されたことがその始まり。観兵式という呼称は、1877年(明治10年)から用いられるようになったと伝えられています。
明治時代には、最高指揮官である「大元帥」(だいげんすい)として、天皇陛下が旧日本軍を率いており、観兵式は大元帥のお出ましを待って執り行なわれ、軍隊から大元帥に向けて敬礼を送るのが礼式(れいしき:礼儀を行なうための決まった作法)となっていました。
そのため、本皇族浮世絵の中央部において、馬に乗って敬礼を受けている人物は、明治天皇であると推測できます。
本皇族浮世絵を描いた「井上探景」(いのうえたんけい)は、もともとは「井上安治」(いのうえやすじ/やすはる)と称していましたが、1884年(明治17年)に画号を「探景」に改めました。井上探景は、1878~1879年(明治11~12年)、15歳の頃に「小林清親」(こばやしきよちか)の門下に入り、わずか17歳で版画家としてデビュー。
井上探景の師である小林清親は、西洋画風を取り入れた様式である「光線画」(こうせんが)を始めた浮世絵師。
光線画は、光と影の効果を巧みに操る表現技法ですが、1881年(明治14年)以降に小林清親がこれを描かなくなると、小林清親の一番弟子と評されていた井上探景が引き継ぎました。
井上探景は、26歳の若さで亡くなるまで、代表作である「東京真画名所図解」(とうきょうしんがめいしょずかい)など、光線画で表現した多数の優れた作品を残しています。