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こばやしきよちか さく「たいらのただのり」 小林清親 作「平忠度」 /ホームメイト

本武将浮世絵に描かれているのは、「源平合戦」の重要な戦いのひとつである「一ノ谷の戦い」で敗れた「平忠度」(たいらのただのり)が辞世の歌を詠む場面です。
鎌倉時代に成立したとされる軍記物語「平家物語」によると、一ノ谷の戦いののち、平忠度は源氏のフリをして敵軍勢にまぎれ、現在の兵庫県神戸市まで逃れてそこから船に乗るつもりでした。ところが、源氏方の「岡部忠澄」(おかべただずみ)にあやしまれ、誰であるのかを問われます。平忠度は「味方である」と答えますが、源氏の習慣にはない公家風の「お歯黒」を施していたため見破られてしまったのです。
平忠度は岡部忠澄に組み付くものの、岡部忠澄の家来が駆け付けて加勢し、平忠度は討ち取られることになりました。岡部忠澄は、討ち取った平忠度の箙(えびら:矢を入れて背負う道具)に文が結ばれていることに気付きます。
そこには、「行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし」(旅の途中で日が暮れても、桜の木の下を宿とするならば、桜の花が宿の主人としてもてなしてくれるだろう)という歌がしたためられ、平忠度の署名と「旅宿の花」という題名も記されていました。
討ち取られた武将が平忠度であったことが分かり、敵も味方も「文武に優れた大将軍であった」とその死を惜しんだと言われています。
本武将浮世絵を手がけたのは、明治時代の浮世絵師「小林清親」(こばやしきよちか)です。文明開化の時流に乗って江戸から東京へと移りゆく都市の景観を、光と影で印象的に表現した作品は「光線画」(こうせんが)と呼ばれ人気を博します。また小林清親は「武者絵」や「戦争画」でも多くの傑作を残しました。
■平安時代の太刀の特徴
三
平忠度は、討ち取られる前に岡部忠澄の甲冑(鎧兜)に三太刀まで浴びせています。そんな平忠度も用いたであろう平安時代の「太刀」(たち)は、細身で優美な姿をしているのが特徴です。刀身は「鍔」(つば)に近い部分で強く反り、鋒/切先(きっさき)へ向かって身幅が著しく狭くなる「腰反り」(こしぞり)となっています。