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うたがわくによし さく「せいちゅうぎしんめいめいかがみ やがしらよもしちのりかね」 歌川国芳 作「誠忠義臣名々鏡 矢頭与茂七教兼」 /ホームメイト

本武将浮世絵は、1702年(元禄15年)に、「赤穂浪士」(あこうろうし)のひとり「矢頭与茂七教兼」(やとうよもしちのりかね/本名は矢頭右衛門七[やとうえもしち])が、江戸幕府高官「吉良上野介義央」(きらこうずけのすけよしなか)邸に討ち入りをした場面です。矢頭与茂七教兼が、日本刀で、吉良の家臣を頭からぶった斬っているところ。血しぶきが激しく飛び、迫力があります。
赤穂浪士とは、赤穂藩(あこうはん:現在の兵庫県赤穂市)の藩主「浅野内匠頭長矩」(あさのたくみのかみながのり)の忠臣47名のこと。1701年(元禄14年)に浅野内匠頭長矩が、江戸城(現在の東京都)の松之廊下で、吉良上野介義央に斬りかかった「赤穂事件」(あこうじけん)が発生。浅野内匠頭長矩は即日切腹となり、浅野家はお取り潰しとなりました。
しかし、家臣・赤穂浪士達は、吉良上野介義央の方が悪いと考え、主君の仇を討つために、吉良上野介義央の屋敷を襲って暗殺したのです。矢頭右衛門七は、当時まだ17歳。父が急逝し、母と妹3人を養う苦労人で、美男子としても知られていました。
本武将浮世絵を描いたのは、幕末の奇才と呼ばれた「歌川国芳」(うたがわくによし)です。「誠忠義臣名々鏡」(せいちゅうぎしんめいめいかがみ)は、赤穂事件を題材としたシリーズ絵。江戸時代には、政治に関する事件をそのまま絵で描くことは禁止されていたため、人物の名前が史実ではなく、偽名となっているのが特徴です。
■浮世絵に描かれた刀剣
本武将浮世絵の矢頭与茂七教兼は、刀さばきが見事ですが、3尺あまりの長巻(ながまき)をふるっていた、豪傑ぶりが有名です。また、貧困のあまり、先祖伝来の甲冑(鎧兜)を質に入れて、亡くなった父の野辺送りをしたと伝えられています。
