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うたがわくによし さく「せいちゅうぎしんめいめいかがみ おおぼしせいざえもんのぶきよ」 歌川国芳 作「誠忠義臣名々鏡 大星清左衛門信清」 /ホームメイト

本武将浮世絵は、1702年(元禄15年)の12月14日に起きた「赤穂事件」(あこうじけん)を描いた偽名絵(にせなえ:史実ではない人物の名前が記載された絵)シリーズの1枚です。
赤穂浪士のひとり「大石瀬左衛門信清」(おおいしせざえもんのぶきよ)が「大星清左衛門信清」(おおぼしせいざえもんのぶきよ)と記載されています。まさに、大石瀬左衛門信清が、「吉良上野介義央」(きらこうずけのすけよしなか) 邸に討ち入りし、吉良家臣の喉元を刀で搔き斬っている場面。吉良家臣の苦しむ顔が大迫力で、障子にも返り血が吹き飛んでいます。
赤穂事件とは、赤穂藩(現在の兵庫県赤穂市)藩主「浅野内匠頭長矩」(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城松之大廊下で、江戸幕府の高官「吉良上野介義央」(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りかかった罪で切腹となり、浅野内匠頭長矩の家臣達が仇討ちをした事件です。
これにより、吉良上野介義央は殺害され、赤穂浪士47名も全員切腹となりました。大石瀬左衛門信清は、当時26歳。赤穂藩家老「大石内蔵助」(おおいしくらのすけ)の親族で、東軍流(とうぐんりゅう)剣術を修得する腕達者でした。
本武将浮世絵を描いたのは、「歌川国芳」(うたがわくによし)です。武者絵を得意として、寄せ絵や逆さ絵、判じ絵なども描き、そのユニークさから、幕末の奇才と呼ばれました。「誠忠義臣名々鏡」(せいちゅうぎしんめいめいかがみ)は、上部分に題名とコマ絵(小さな挿絵)があり、コマ絵には歌川国芳の次女「歌川芳女」(うたがわよしじょ)の落款と「もののふの 矢たけ心に うち入りの 時や方弦を 切はらひけり」という短歌が書かれています。
■浮世絵に描かれた刀剣
「赤穂義士事典」によると、大石瀬左衛門信清が赤穂事件当日に帯びていたのは、刀 無銘2尺9寸、脇差 無銘1尺9寸、長槍の3本です。大石瀬左衛門信清は、大石内蔵助と共に「奥村重旧」(おくむらしげひさ/奥村無我)に師事し、東軍流剣術を修得したと伝えられています。
