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うたがわよしとら さく「ぎししじゅうしちにんのうち おおたかげんごただおのぞう」 歌川芳虎 作「義士四拾七人之内 大鷹玄吾忠雄像」 /ホームメイト

本武将浮世絵は、赤穂浪士「大鷹玄吾忠雄」(おおたかげんごただたか/本名は大高源五忠雄)の木像を描いた1枚です。大高源五忠雄が、揃いの火消し姿で大槌を振り上げ、凛々しく睨みを利かせているところ。
大高源五忠雄は、赤穂藩(現在の兵庫県赤穂市)の金奉行、膳番元方、腰物方を務めた人物です。文武に優れ、俳号は「子様」(しよう)と言い、芭蕉十哲の俳人「榎本其角」(えのもときかく)とも親密でした。
主君「浅野内匠頭長矩」(あさのたくみのかみながのり)が刃傷事件を起こして切腹し、浅野家が取り潰しとなって仇討が決定すると、大高源五忠雄は、俳人として吉良家出入りの茶人に入門して諜報。そこで大高源五忠雄は、12月14日に吉良邸で茶会があり、「吉良上野介義央」(きらこうずけのすけよしなか)が在宅であることを突きとめたのです。
これにより、1702年(元禄15年)「赤穂事件」を決行。大高源五忠雄は表門隊に属し、大太刀を操って奮戦しました。赤穂浪士47士は、仇討を見事に成し遂げたあと、切腹刑。大高源五忠雄は、享年32でした。
本武将浮世絵を描いたのは、「歌川芳虎」(うたがわよしとら)。1848年(嘉永元年)に泉岳寺(現在の東京都港区)の開帳が行われ、「赤穂浪士47人の木像」が公開されました。木像を制作したのは、松山藩(現在の愛媛県松山市)お抱えの彫刻師「宝真斎石蘭」。これに合わせて、歌川芳虎の「義士四拾七人之内」が出版されました。江戸時代、政治批判は禁止されていたため、赤穂浪士の像でありながらも偽名となっているのが特徴です。
■大高源五忠雄が使用した刀剣
大高源五忠雄は、赤穂事件当日、大太刀を振り回して奮戦したと言われています。これは亡父「大高忠晴」(おおたかただはる)の差料。辞世の句「山をさく刀もおれて松の雪」も有名です。
