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うたがわよしとら さく「ぎししじゅうしちにんのうち てらおかへいえもんのぶゆきのぞう」 歌川芳虎 作「義士四拾七人之内 寺岡平右衛門信行像」 /ホームメイト

本武将浮世絵は、彫刻師「宝真斎石蘭」が制作した、赤穂浪士「寺岡平右衛門信行」(てらおかへいえもんのぶゆき/本名は寺坂吉右衛門信行)の木像を描いた1枚です。寺坂吉右衛門が真面目な顔をして、大槌を構えているところ。
寺坂吉右衛門は、赤穂藩(現在の兵庫県赤穂市)の足軽をしていた人物。実直・誠実な人柄で信頼されていましたが、1702年(元禄15年)の「赤穂事件」当日は、吉良邸の中には入らなかったことが確認されています。その理由は、逃亡説、連絡係説、身分が低いための遠慮説など様々。
これにより、寺坂吉右衛門が幕府から処分されることはなく、赤穂浪士唯一の生き残りとして、83歳まで長寿を全うしました。このため、赤穂浪士は47士ではなく、46士とも言われます。
本武将浮世絵を描いたのは、「歌川芳虎」(うたがわよしとら)。1848年(嘉永元年)に泉岳寺(現在の東京都港区)の開帳で「赤穂浪士47人の木像」が公開され、これに合わせて、歌川芳虎の「義士四拾七人之内」が出版されました。木像は現在でも、泉岳寺の講堂2階にある「義士木像館」(ぎしもくぞうかん)で拝観することができます。
■寺坂吉右衛門信行と刀剣
寺坂吉右衛門信行が所持していた刀についての詳細は不明ですが、島根県益田市の旧家、貝塚家に愛刀が所蔵されていると言われています。主君の仇討が合法とは認められず、秩序を乱したとして処罰された赤穂浪士。しかし、寺坂吉右衛門信行が切腹を免れたのは、足軽の身分ながらも討ち入りに加わった実直な男を生かしてあげたかったと言う、江戸幕府の温情であったと言えるのではないでしょうか。
