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うたがわよしとら さく「ぎししじゅうしちにんのうち おかじまよそうえもんつねきのぞう」 歌川芳虎 作「義士四拾七人之内 岡島與惣右衛門常樹像」 /ホームメイト

本武将浮世絵は、彫刻師「宝真斎石蘭」が制作した、赤穂浪士「岡島與惣右衛門常樹」(おかじまよそうえもんつねき/本名は岡島八十右衛門)の木像を描いた1枚です。岡島八十右衛門が、颯爽と槍を構えているところ。
岡島八十右衛門は、赤穂藩(現在の兵庫県赤穂市)の藩士で、勘定奉行。同じく、赤穂浪士「原惣右衛門」(はらそうえもん)の弟で、岡島家へは婿養子で入りました。1702年(元禄15年)の「赤穂事件」では、表門隊に属して活躍。事件後、赤穂城の明け渡しに際しては、勘定奉行として藩札の交換を担当し、尽力しました。仇討後は、毛利家に預けられ、翌年に切腹刑。享年38でした。
本武将浮世絵を描いたのは、「歌川芳虎」(うたがわよしとら)です。「義士四拾七人之内」は、1848年(嘉永元年)に泉岳寺(現在の東京都港区)の「赤穂浪士47人の木像」が公開されるのに合わせて出版されたシリーズ絵。木像は、開帳の主役級に注目を浴び、歌川芳虎の浮世絵もたいへん評判となりました。
■岡島八十右衛門が討ち入り当夜に用いた刀剣「近江守助直」
岡島八十右衛門が、赤穂事件当日に差していたのは、「近江守助直」(おうみのかみすけなお)の名刀でした。実は、近江守助直は、岡島八十右衛門の元家臣。主君に良い刀を差して欲しいと大坂まで買いに行き、良い刀を探すのではなく、作ることを決意。名匠「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)に弟子入りして腕を磨き、岡島八十右衛門に大小刀を贈ったと伝えられています。
