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うたがわよしとら さく「ぎししじゅうしちにんのうち やとうよもしちのりかねのぞう」 歌川芳虎 作「義士四拾七人之内 矢頭與茂七教兼像」 /ホームメイト

本武将浮世絵は、「宝真斎石蘭」が制作した、赤穂浪士「矢頭與茂七教兼」(やとうよもしちのりかね/本名は矢頭右衛門七[やとうえもしち])の木像を描いた1枚です。
矢頭右衛門七は、当時17歳。赤穂浪士の中では2番目に若く、女性と間違えられるほどの美少年だったと言われています。病死した父の意志を継いで赤穂浪士となり、1702年(元禄15年)の「赤穂事件」当日は、表門隊に属し、父の腰巻を付け戒名を懐に忍ばせて奮戦。母と妹3人の暮らしは困窮を極めていましたが、矢頭右衛門七が切腹となったあと、4人は母の実家がある奥州白河(現在の福島県白河市)に転居。妹達は白河藩松平家家臣へと嫁ぎ、母も妹の嫁ぎ先で暮らし、長生きできたとのことです。
本武将浮世絵を描いたのは、「歌川芳虎」(うたがわよしとら)。「義士四拾七人之内」は、1848年(嘉永元年)に泉岳寺(現在の東京都港区)の開帳で「赤穂浪士47人の木像」が公開されるのに合わせて制作されたシリーズ絵です。歌川芳虎は、「歌川国芳」に師事。武将浮世絵が得意で、ユーモアのセンスにあふれ、おもちゃ絵、はんじ絵など数多く制作。特に、三英傑を描いた風刺絵「道外武者御代の若餅」(どうがいむしゃみよのわかもち)が有名です。
■矢頭右衛門七が討ち入り当夜に用いた武器
矢頭右衛門七は、赤穂事件当日、刃渡り3尺の鍵槍(かぎやり)を振るっていました。しかし、その武器が途中で折れてしまい、敵の刀を奪って奮戦。見事な若武者ぶりを発揮していたと伝えられています。
