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うたがわよしとら さく「ぎししじゅうしちにんのうち あいはらいすけむねふさのぞう」 歌川芳虎 作「義士四拾七人之内 相原猪助宗房像」 /ホームメイト

本武将浮世絵に描かれる人物の名は「相原猪助宗房」(あいはらいすけむねふさ)となっていますが、これは架空の名前であり、実際には「前原伊助宗房」(まえはらいすけむねふさ)の名で知られる、「赤穂義士」(あこうぎし)47人のひとりであった人物です。
前原宗房は、「元禄赤穂事件」(げんろくあこうじけん)における「吉良上野介」(きらこうずけのすけ:別称[吉良義央:きらよしひさ/きらよしなか])邸への討ち入りに向けて、江戸で呉服屋を開業しつつ、吉良屋敷を偵察していました。浪人でありながら商人に成りすますのには、赤穂藩(現在の兵庫県赤穂市、相生市、上郡町周辺)江戸詰めの金奉行(蔵奉行の説もあり)を務めていた頃に得た経験が、大いに役立ったと言います。
本武将浮世絵が含まれるのは、幕末期の人気浮世絵師「歌川芳虎」(うたがわよしとら:別号[錦朝楼芳虎:きんちょうろうよしとら])が手掛けた揃物(そろいもの:シリーズ物のこと)である「義士四拾七人之内」(ぎししじゅうしちにんのうち)。本揃物において歌川芳虎は、1848年(嘉永元年)の「泉岳寺」(せんがくじ:東京都港区)開帳に合わせて制作された赤穂義士47人の木像すべてを写し、それぞれの個性を表現して描いています。
■前原宗房が討ち入り当夜に用いた刀剣「刀 国宗」
前原宗房は吉良邸討ち入りの際、「国宗」(くにむね)による1尺8寸(約54.5cm)の脇差と共に、同じく国宗作の打刀(うちがたな)を携えていたと伝えられています。「直宗派」(なおむねは)のひとりとされる同工は、備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)の出身。後年に相模国(現在の神奈川県)へ移住し、相州鍛冶の礎を築きました。
