- 合戦浮世絵
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うたがわよしとら さく「ほりかわようちらんにゅうのず」 歌川芳虎 作「堀川夜討乱入之図」 /ホームメイト

本合戦浮世絵を描いた「歌川芳虎」(うたがわよしとら)は、「武者絵の国芳」として名高い「歌川国芳」(うたがわくによし)の門人。武者絵に秀で、1868年(明治元年)には番付で2位となり、人気も実力もトップクラスの浮世絵師として名を馳せました。
題名にある「堀川夜討」とは、「義経記」に書かれた有名な話。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)は、弟「源義経」(みなもとのよしつね)の勝手な振る舞いに怒り、家臣「土佐坊昌俊」(とさのぼうしょうしゅん)に源義経の追討を命じます。そこで、土佐坊昌俊は「熊野参詣」のふりをして、京都六条堀川にあった源義経の館に近づき、夜討を仕掛けるのです。
本合戦浮世絵は、まさに「土佐ノ太郎」(土佐坊昌俊)率いる甲冑姿の一軍が、源義経の館に乱入するシーン。画面の左上の「源義経」が身構える中、源義経の家臣3人が格闘し、土佐坊昌俊が率いる一軍を見事に撃退。土佐坊昌俊は、逆に源義経側に討ち取られてしまうのです。
画面中心にいるのが、「江田源三弘基」(えだげんぞうひろもと)で、いちばん初めにこの夜討を察知。右の黄色い着物が「鷲尾三郎義文」で、「一ノ谷の戦い」で武功を挙げて源義経の家臣になった猛者。左にいるのは「鈴木三郎重家」ですが、彼だけは「源平合戦」の際に討ち死にしているので、本来はこの場面にいることのない人物です。
錯綜する多くの刀や槍がこの場の緊張感をいやが上にも高めています。
実は、この浮世絵は純粋な「堀川夜討」ではなく、源義経の着物に「織田木瓜」という「織田信長」の家紋が描かれていることからも分かる通り、「太閤記」に出てくる「本能寺の変」になぞらえた作品。士農工商の身分が定まっていた江戸時代には、平民から征夷大将軍となった豊臣秀吉は憧れの存在で、これを恐れた徳川幕府は、豊臣秀吉の人生を綴った「太閤記」関連の書物をすべて禁止。絵師たちは「風刺画」を描くことで、これに対抗したのです。