- 武将浮世絵
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なかざわとしき さく「とよとみくんこうき すのまたいちやじょうをいちやにけんちくのず」 中沢年甲 作「豊臣勲功記 木下須股城ヲ一夜二建築之図」 /ホームメイト

本武将浮世絵の作者は、明治時代の浮世絵師「中沢年甲」(なかざわとしき)。その師は「血まみれ芳年」(ちまみれよしとし)の異名を取る「月岡芳年」(つきおかよしとし)です。 本武将浮世絵に描かれているのは、世に言う「木下藤吉郎」(きのしたとうきちろう:のちの「豊臣秀吉」)の伝説「墨俣一夜城」(すのまたいちやじょう)における一場面。
美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)の「墨俣」の地名はもともと、本武将浮世絵のタイトルにもある「須股」や、大きな中州があることから「洲股」とも表記されており、交通の要衝(ようしょう)として多くの武将が自身の拠点とするために欲していた場所。
それは天下統一を目指していた「織田信長」にとっても同じことで、さらには、美濃の斎藤氏を攻める前線基地とするために、墨俣の地に城を築くことを豊臣秀吉に命じたのです。
同地が湿地帯であったこと、また、敵地でもあったことから城を建てることは困難であると思われましたが、豊臣秀吉は、「一夜」とは言えないまでも、4~7日間ほどで完成させたと伝えられています。そして豊臣秀吉は、この墨俣城の築城を機に、一気に出世街道を上り詰めていくことになるのです。
なお織田信長は、本武将浮世絵に描かれている織田氏家臣団の筆頭家老「佐久間信盛」(さくまのぶもり)や、織田氏の重鎮であった家臣「柴田勝家」(しばたかついえ)にも、墨俣城の築城を命じていましたが、あえなく失敗。本武将浮世絵において両者が豊臣秀吉に向けている眼差しには、その悔しさがにじみ出ているようにも感じられます。