- 合戦浮世絵
- 合戦絵とは
うたがわさだひで さく「やまざきだいかっせんのず」 歌川貞秀 作「山崎大合戰之図」 /ホームメイト

本合戦浮世絵で描かれているのは、タイトルが示す通り、1582年(天正10年)の6月13日、「織田信長」の家臣であった「豊臣秀吉」と「明智光秀」が衝突した「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)。
豊臣秀吉は、毛利氏が領していた中国地方へ侵攻している最中でしたが、同年6月2日、明智光秀の謀反による「本能寺の変」で織田信長が討たれたことをその翌日に知ったため、即座に毛利氏と和睦を結び、兵を引き返して東上。そして両軍は、山城国大山崎(やましろのくに・おおやまざき:現在の京都府乙訓郡大山崎町周辺)の地にて対陣したのです。
本合戦浮世絵には、「洞ヶ峠」(ほらがとうげ)や「天王山」(てんのうざん)など、山崎の戦いに関連する名称が記されていますが、本図右側の本陣にいる武将には、「山名入道宗全」(やまなにゅうどうそうぜん)との名前が添えられています。
「山名入道宗全」と言えば、1467年(応仁元年)に起こった「応仁の乱」(おうにんのらん)において、西軍の総大将を務めた人物。 これは、本合戦浮世絵が制作された江戸時代には、「織豊時代」(しょくほうじだい:織田信長と豊臣秀吉が天下を掌握していた時代)の武将や合戦を浮世絵に取り上げることが禁じられていたため、山崎の戦いを応仁の乱に見立て、検閲を通過させる工夫をしたのです。
また、山名入道宗全の付近に「水色桔梗紋」(ききょうもん)の旗印があることから、明智光秀を山名入道宗全に仮託したと思われます。
なお、本合戦浮世絵は、大判3枚続のサイズですが、もとは6枚続であった作品です。作者の「歌川貞秀」(うたがわさだひで)は「横浜絵の第一人者」と評され、その作画期は、1826~1875年(文政9~明治8年)頃と長きに亘っています。