- 武将浮世絵
- 武者絵とは
うたがわよしかず さく「うえすぎにじゅうよんしょう」 歌川芳員 作「上杉廿四将」 /ホームメイト

本武将浮世絵は、「越後の虎」や「越後の龍」と言った異名を持つ戦国時代の武将「上杉謙信」と、その家臣23名の集団肖像画です。本武将浮世絵上部の中心に陣取っている上杉謙信の手に竹、もしくは笹が握られているのは、「上杉笹」、あるいは「竹に二羽飛び雀」と称される上杉家の家紋に由来しています。
上杉謙信は、室町幕府が関東を統治するために設けた「鎌倉府」の長官(=「鎌倉公方」[かまくらくぼう])を補佐する「関東管領」(かんとうかんれい)を務め、内乱が多発していた越後国(えちごのくに:現在の新潟県)の統一に尽力しました。さらには、周辺の国々においても安定を図るべく、援軍の要請を受ければ何度も出兵。「織田信長」や「武田信玄」、「北条氏康」(ほうじょううじやす)と言った名だたる武将たちと刀を交えたのです。
特に甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の武田信玄とは、北信濃(きたしなの:現在の長野県北部)の覇権を巡り、「川中島の戦い」と称される合戦を計5回に亘って繰り広げ、その期間は約12年にも及んでいます。
上杉謙信が「軍神」と崇められるほどの戦国武将であったのは、武勇に優れていたことはもちろん、その陰に優秀な家臣団の支えがあればこそ。 本武将浮世絵には、上杉謙信のあとに家督を継いだ「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)や、重臣のひとりである「柿崎景家」(かきざきかげいえ)などが描かれていますが、その中に「赤坊主西方院」(あかぼうずせいほういん)と言う名が添えられた人物がいます。「赤坊主」とは、林泉寺(りんせんじ)の釣鐘を盗んだと越後国に伝わる妖怪のこと。同寺には、上杉謙信が幼い頃に預けられていたという縁もあることから、「廿四将(二十四将)」のひとりに加えたと推測できます。
本武将浮世絵のような戦国武将の集団肖像図は、その功労を世間に広く知らせるために、近世頃より描かれるようになった形式。本武将浮世絵の他には、「徳川十六神将図」などが有名です。
また、上杉謙信の家臣団は通常、「二十五将」が評価の高い武将として取り上げられますが、本武将浮世絵ではひとり減らして「二十四将」になっています。これは、宿命のライバルと言える武田信玄の家臣団の中でも、特に有能であった武将たちが、「武田二十四将」と称されていたことに対比させて描いたと考えられるのです。
本武将浮世絵の作者である「歌川芳員」(うたがわよしかず)は、江戸時代後期を代表する人気浮世絵師「歌川国芳」(うたがわくによし)の門人。歌川芳員は、「武者絵の国芳」と称される師と同様に、本武将浮世絵のような「武者絵」を多く手がけていましたが、1859年(安政6年)に横浜港が開港されると、外国の文化や風俗に強い興味を抱くようになり、それらを画題とした「横浜絵」の第一人者のひとりとして活躍しました。