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うたがわよしとら さく「おおつさかもとじょうあけわたしのず」 歌川芳虎 作「大津坂本城明渡之図」 /ホームメイト

本武将浮世絵は、1582年(天正10年)6月2日に起きた「本能寺の変」で、「明智光秀」軍の先鋒として活躍した「明智秀満」(明智左馬之助)を描いた作品です。
明智秀満は、本能寺を攻めたあとで、安土城(織田信長の居城、現在の滋賀県近江八幡市)を守備。
13日の夜「山崎の戦い」で、主君・明智光秀が「豊臣秀吉」軍に敗れ、討死したことを知ると、14日の未明、安土城を捨て坂本城(明智光秀の居城、現在の滋賀県大津市)に向かいました。琵琶湖を渡って何とか坂本城に到着したものの、豊臣秀吉軍で織田信長の側近「堀秀政」に包囲され、もう逃げられないと死を覚悟。
さらに、あることを決意します。それは、主君・明智光秀の家宝である「国行」の刀剣や「吉光」の脇差などの名品が、落城と共に失われないように、すべて堀秀政に譲ることでした。
ただし、明智光秀が秘蔵としていた「郷義弘」の脇差だけは、あの世で明智光秀に渡したいと、明智秀光は自らの腰に差し、譲らなかったと伝えられています。
本武将浮世絵は、その様子を描いた1枚。坂本城の本殿上座に座っているのは、明智秀満です。赤い敷物の上には、鏡や茶釜などの立派な名品が並べられ、それを下座にいる豊臣秀吉軍・堀秀政や「堀尾茂助義治」に披露。史実では、これらの名品に目録を添えて荷造りをし、堀秀政の一族へ送ったとされています。
このあと、明智秀満は明智光秀の妻子、及び自分の妻を刺殺し、お城に火を放って自害。明智秀満の最期は、実に賢明で見事な散り際であったと、後世まで語り継がれているのです。
本武将浮世絵を描いたのは、「歌川芳虎」(うたがわよしとら)。徳川家康を風刺して処罰を受け、師「歌川国芳」に自ら破門を希望したという異色の人。幕末から明治時代にかけて活躍しました。