- 合戦浮世絵
- 刀剣浮世絵
- 合戦絵とは
うたがわくにさだ さく「いよのかみよしつね ほりかわようちのず」 歌川国貞 作「伊豫守義経 堀川夜討ノ図」 /ホームメイト

「伊豫守(いよのかみ:現在の愛媛県の大名)義経」とは、「源義経」(みなもとのよしつね)のこと。源義経は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の弟で、武術・戦略に長けた人物。
1185年(文治元年)「壇ノ浦の戦い」では、見事に平家を滅亡させた功労者となりました。しかし、その後「後白河法皇」から勝手に冠位を受けるなど、不審な動きを見せたため、兄・源頼朝と不仲になり、骨肉の争いが起こるのです。
本武将浮世絵(武者絵)は、兄・源頼朝の命を受けた「土佐坊昌俊」が、六条堀川にあった源義経の屋敷に夜討を仕掛け、源義経が応戦する一場面です。夜討と言っても、源義経は土佐坊昌俊の動きをいち早く察知して待ち構えていたので、土佐坊昌俊軍はあっさり敗北。土佐坊昌俊は、捉えられ、晒し首にされました。
このあと、後白河法皇は、源義経に兄・源頼朝の追討を命じます。しかし、賛同する者が少ないと知ると、後白河法皇は今度は源頼朝に、弟・源義経の追討を命じるのです。源義経は「藤原秀衡」を頼って奥州に向かいますが、藤原秀衡が病死。藤原秀衡の息子「藤原泰衡」には協力を得られず、持仏堂に籠って自害しました。
源頼朝は、兄弟間を混乱させた後白河法王に迫って、守護・地頭を任命する権利と兵糧米を徴収する権利を獲得。東国中心だった支配権は全国に及び、名実共に鎌倉幕府が誕生したのです。
本武将浮世絵(武者絵)を描いたのは、「歌川国貞」。「初代歌川豊国」に弟子入し、「三代歌川豊国」を襲名しました。「美人画」、「役者絵」が秀逸で、当時から大人気。江戸時代末期の浮世絵界を牽引しました。
