- 合戦浮世絵
- 合戦絵とは
うたがわよしとら さく「ゆうしさまのすけあつみてきじょうをいしびやにてうちくずすず」 歌川芳虎 作「勇士左馬之助充未敵城を石弩火鉄にて打崩す図」 /ホームメイト

本合戦浮世絵は、「歌川芳虎」(うたがわよしとら)が、1582年(天正10年)に起きた歴史的大事件「本能寺の変」の一場面を描いた作品です。3枚続で合戦の全体図を表現。燃え上がる城と城へ攻め入る明智軍が丁寧に描写された迫力ある作品に仕上がっています。
本能寺の変の首謀者「明智光秀」(あけちみつひで)の先鋒として活躍した「明智秀満」(あけちひでみつ)、通称「明智左馬之助」(あけちさまのすけ)は「本能寺」(京都府京都市)攻略後、織田信長の嫡男「織田信忠」(おだのぶただ)が立て籠る「二条城」(京都府京都市)を攻撃し、織田信忠を自害に追い込みました。
作品名にある「充未[敵]城」(あつみじょう)とは、織田家の居城「安土城」、「石弩火鉄」(いしびや)は大砲のこと。このように、安土城を「充未城」と表現しているのは、江戸幕府が天正年間(1573~1592年)以降の大名家や徳川家を題材にした浮世絵を禁じたためと考えられています。
作者の歌川芳虎は、天才絵師と呼ばれながらも破天荒な性格で知られた浮世絵師です。武者絵や美人画、相撲絵などを得意とし、幕末から明治時代中期にかけて活躍しました。「歌川国芳」(うたがわくによし)の門下でしたが、やがて絶縁。1868年(明治元年)の「錦絵師番付」では、横浜の異国風俗を描いた「横浜絵」(よこはまえ)の第一人者「歌川貞秀」(うたがわさだひで)に次いで番付で2位になるほど、人気を博しました。