- 皇族浮世絵
いのうえたんけい さく「きょうどうりっしのもとい よん だいなごんゆきなり」 井上探景 作「教導立志基 4 大納言行成」 /ホームメイト

本皇族浮世絵は平安時代中期の貴族、「藤原行成」(ふじわらのゆきなり)と、「藤原実方」(ふじわらのさねかた)が口論している様子を描いています。鎌倉時代中期に成立した「十訓抄」(じっきんしょう)に記されている逸話が題材です。藤原行成は「一条天皇」(いちじょうてんのう)の治世を支えた政治家であり、和歌や書などにも優れた人物でした。
本皇族浮世絵は和歌のことで言い争いとなった末、左側の藤原実方が、右側にいる藤原行成の「冠」(かんむり:成人した男性貴族の被り物)を投げ捨てた場面です。当時の男性貴族にとって、頭部を晒すのは恥ずべきこと。
しかし藤原行成は慌てることなく、守り刀から「笄」(こうがい)を抜き出して髻(もとどり)を整えると、冠を被り直しました。この様子を見ていた一条天皇は、藤原行成の落ち着いた対応を称賛し、藤原行成を蔵人頭(くろうどのとう:天皇の首席秘書)に抜擢。一方の藤原実方は東北地方へ左遷されました。
本皇族浮世絵の左下に、落ちた冠が描かれていますが、藤原行成は頭部を隠しているものの確かに取り乱した様子はありません。むしろ藤原実方の方が取り乱しており、眉を吊り上げた横顔からも抑えられない怒りが伝わるようです。
作者の「井上探景」(いのうえたんけい)は、15歳の頃に「小林清親」(こばやしきよちか)の門下となり絵画様式「光線画」(こうせんが)を学びます。小林清親の一番弟子として光線画を取り入れた作品をはじめ、本皇族浮世絵の「教導立志基」(きょうどうりっしのもとい)のような教訓絵などを描きました。
■髪を整える道具だった笄
本皇族浮世絵に登場した笄とは、髪すき用具の一種であり、平安時代の貴族や武家の男性は守り刀に差し込んで携行しました。または女性も懐にしのばせて、髪を整えるときに用いたと言われています。江戸時代になると笄は打刀の拵(こしらえ)として小柄(こづか)や目貫(めぬき)などとセットで扱われるようになり、さらに装飾品としての芸術性も重視され多くの名品が制作されました。
