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つきおかよしとし さく「しんせんあずまにしきえ おおたどうかんはじめてかどうにこころざすず」 月岡芳年 作「新撰東錦絵 太田道灌初テ歌道ニ志ス図」 /ホームメイト

本武将浮世絵は、室町時代後期に南関東で活躍した武将「太田道灌」(おおたどうかん)にまつわる「山吹の里」の伝説を描いた1枚。
ある日、鷹狩りに出た先で雨に降られた太田道灌は、雨具の蓑(みの)を借りようと農家を訪れますが、現れた娘は蓑ではなく、花が咲いた山吹(やまぶき)の枝を差し出すのみ。太田道灌はこれに怒ってそのまま帰りましたが、あとで家臣から娘の意図を聞かされます。
娘は、平安時代の皇族「兼明親王」(かねあきらしんのう)による歌「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」(七重にも八重にも咲きほこる山吹の花に実がひとつも付かないのは悲しいことだ)にちなみ、山吹の枝を通じて、蓑(=読みを[実の]にかけた)を持っていないことを太田道灌へ伝えようとしたのです。
歌の教養が足りないことに気付いた太田道灌は自分のふるまいを反省し、以後は歌の勉強にも励むようになったとされます。
以上の話は江戸時代中期の儒学者「湯浅常山」(ゆあさじょうざん)が著した「常山紀談」(じょうざんきだん)に初めて登場しますが、東京都や埼玉県には山吹の里とされる場所が複数あります。また、この伝説の影響からか、太田道灌の銅像は狩装束(かりしょうぞく)姿の物が多く作られています。
本武将浮世絵の作者「月岡芳年」(つきおかよしとし)は、幕末から明治時代にかけて活躍した浮世絵師。無惨絵の作品で有名なことから「血まみれ芳年」の異名がありますが、手掛けた分野は多岐にわたり、武者絵でも秀作を残しています。