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つきおかよしとし さく「こうこくにじゅうしこう そがのはこおうまる」 月岡芳年 作「皇国二十四功 曽我の箱王丸」 /ホームメイト

本武将浮世絵の左側、赤い着物を纏って座しているのは、箱根権現(はこねごんげん:現在の箱根神社[神奈川県足柄下郡箱根町])の稚児(ちご:寺院などで召し使われた少年)であった「箱王丸」(別称[曽我五郎])です。右側の「直垂」(ひたたれ)姿の武将は、伊豆国伊東荘(現在の静岡県伊東市)の「工藤祐経」(くどうすけつね)であると推測されており、箱根権現へ参詣に来た工藤祐経が、箱王丸と対面した場面が描かれています。
工藤祐経は、箱王丸の父を暗殺した人物です。3歳で父を亡くした箱王丸は、その将来を案じた母によって箱根権現に預けられていました。
やがて箱王丸は、鎌倉幕府の初代執権「北条時政」(ほうじょうときまさ)を烏帽子親として元服し、「曽我時致」(そがときむね)と名乗るように。そののち、兄「曽我祐成」(そがすけなり)と共に工藤祐経を討ち、父の敵(かたき)を取ったのです。
「曽我兄弟の仇討ち」と称されるこの事件は、軍記物語の「曽我物語」に記載されており、江戸時代には「寿曽我対面」(ことぶきそがのたいめん)など、様々な歌舞伎などの題材となって高い人気を博しました。
本武将浮世絵が含まれる連作「皇国二十四功」(こうこくにじゅうしこう)を手掛けたのは、江戸時代末期から浮世絵師として活動を始め、「無残絵」などを得意としていた「月岡芳年」(つきおかよしとし)です。皇国二十四功では曾我兄弟のように、子として親への義務を尽くしたり、主君のために誠意を持って奉仕したりしていた24人の人物を画題としています。
■曽我兄弟の仇討ちで用いられた刀剣とは
曽我兄弟の仇討ちで使用したと伝わる刀剣は、箱根神社が現在所蔵している太刀「微塵丸」(みじんまる)と「薄緑丸」(うすみどりまる)です。微塵丸は「木曽義仲」(きそよしなか)、薄緑丸は「源義経」(みなもとのよしつね)が箱根権現に奉納し、仇討ち直前の曽我兄弟に、箱根権現の別当「行実」(ぎょじつ)より授けられました。
