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つきおかよしとし さく「かいだいひゃくせんそう おばたすけろくろうのぶよ」 月岡芳年 作「魁題百撰相 小幡助六郎信世」 /ホームメイト

本武将浮世絵の「魁題百撰相」(かいだいひゃくせんそう)は、錦絵に時事を描くことが禁止されていた時代に描かれた「謎解き」となっているところが特徴です。
作者「月岡芳年」(つきおかよしとし)は、戊辰戦争での「彰義隊」(しょうぎたい:旧幕臣。「徳川慶喜」の護衛部隊)の活躍を、歴史上の武人に見立てて描きました。 これは、「石田三成」(いしだみつなり)の家臣、「小幡信世」(おばたのぶよ:通称は助六郎)が、切腹している場面。青ざめた顔、血走った目、腹から染み出る血など、とても生々しく描かれています。
石田三成と言えば、1600年(慶長5年)に「関ヶ原の戦い」で西軍の大将となりますが、敗戦して逃亡(のちに捕われ斬首)。小幡信世は石田三成とはぐれて捕らえられ、徳川家康のもとに連行されます。そのとき、はぐれていたにも関わらず、「主人の居所はよく存じております。しかし、恩を受けた身。口を割るような不義はいたしません」と抵抗。それを逆に徳川家康は、「忠義がある」と感心して、釈放しました。しかし小幡信世は、すぐに自害。徳川家康は小幡信世の死をとても惜しんだと伝えられています。
戊辰戦争(上野戦争)においても、彰義隊頭取の「織田房之助」らが、自害しました。徳川慶喜が降伏して江戸城が無血開城になったあとの出来事です。彰義隊は、厄介な残党と扱われ、上野戦争の戦死者や自害者は 遺体を野ざらしにされ、埋葬を禁止。月岡芳年は実際に取材して、その酷い姿を写生したことが伝えられています。
