- 合戦浮世絵
- 合戦絵とは
つきおかよしとし さく「あまがさきだいかっせんたけちしゅじゅううちじにのず」 月岡芳年 作「尼崎大合戦武智主従討死之図」 /ホームメイト

本合戦浮世絵は、1582年(天正10年)6月、織田信長の家臣であった「明智光秀」と「豊臣秀吉」が対立した「山崎の戦い」において、秀吉軍に敗れた明智光秀とその家臣たちの最期を描いた作品。
本合戦浮世絵のタイトルにある「尼崎」(あまがさき)は、兵庫県にある市の名称として今も残る地名ですが、ここでは「山崎」をもじったものであることが推測されます。
これは、本合戦浮世絵が制作された1865年(慶応元年)には、織豊時代(しょくほうじだい:織田信長と豊臣秀吉の時代)、及び天正年間(1573~1593年)以降に起こった大名家にまつわるできごとや武将などを描くことに関して、江戸幕府によりすでに禁じられていたことが背景にあるためです。
そのため、本合戦浮世絵の主人公である明智光秀は「武智日向守光秀」(たけちひゅうがのかみみつひで)、家臣たちについても、「斎藤内蔵助利三」(さいとうくらのすけとしぞう)は「斎藤内蔵助光行」、「溝尾庄兵衛茂朝」(みぞおしょうべえしげとも)は「水尾正兵衛光国」(みずおしょうべえみつくに)といった別の名前に変えられ、幕府の禁令を上手く回避する工夫がなされています。
今まさに自害したと思われる「武智十次郎光吉」(たけちじゅうじろうみつよし=「明智十次郎光泰」[明智自然(じねん)とも])の苦痛に歪む表情や血に染まった刀、その他の武将たちも全身に矢を浴びているなど執拗なまでに血みどろに描かれているところに、「無惨絵」で高い人気を得た本合戦浮世絵の作者「月岡芳年」(つきおかよしとし)の真価が、大いに発揮されている作品です。