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つきおかよしとし さく「かいだいひゃくせんそう はしばたいこうとよとみひでよしこう」 月岡芳年 作「魁題百撰相 羽柴太閣豊臣秀吉公」 /ホームメイト

本武将浮世絵は、「無惨絵」でその名を馳せた浮世絵師「月岡芳年」(つきおかよしとし)が、1868年(慶応4年/明治元年)に手がけた「魁題百撰相」(かいだいひゃくせんそう)に含まれる作品。
タイトルの読みが「海内百戦争」と同音であることから、南北朝時代から江戸時代初期頃までに日本国内で活躍した武人を100人選び、それぞれの肖像を描いた武者絵の揃物(そろいもの)になっています。
本シリーズに隠された本当の題材は、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)、中でも薩摩藩や長州藩を中心とした新政府軍と、旧幕府軍の彰義隊(しょうぎたい)が衝突した「上野戦争」(うえのせんそう)における両軍の勇姿です。戊辰戦争は、月岡芳年が本シリーズを制作した年と同じタイミングで勃発。
そこで月岡芳年は、弟子と共に現地を取材して本シリーズを描きましたが、当時は錦絵に戊辰戦争を取り上げることが禁じられていたため、同戦争における出来事やかかわった人物を、戦国時代の武将などに仮託することで規制から免れたのです。
本武将浮世絵では、「豊臣秀吉」の肩に「織田信長」の孫にあたる「三法師」(さんぼうし:のちの「織田秀信」)が乗せられています。豊臣秀吉は、織田信長が「本能寺の変」で「明智光秀」に討たれたあと、わずか3歳であった三法師を織田信長の跡継ぎに推挙し、その後見人となりました。
詞書(ことばがき:絵に添えられる説明文)には、「千形瓢(せんなりひさご:豊臣秀吉の馬印である千成瓢箪)の馬印を東国北国(ほっこく)に輝かす」とありますが、豊臣秀吉が遠征して討伐したのは、東国にあたる北条氏のみで、北方に赴いたという史実はありません。
この1文は、戊辰戦争において「明治天皇」を擁した薩長率いる官軍を豊臣秀吉になぞらえ、関東や東北方面に進軍したことを暗に示しているのです。このことから考えると、三法師に見立てられているのは、満14歳、まだ少年期のうちに、天皇の位を受け継いだ明治天皇であることが推測できます。
