- 合戦浮世絵
- 合戦絵とは
つきおかよしとし さく「おおさかなつのじん ごきなんのず」 月岡芳年 作「大坂夏御陣 御危難之図」 /ホームメイト

本合戦浮世絵は、1874年(明治7年)に制作された「大坂夏の陣」を舞台にした絵図。現存する「大坂夏の陣」を描いた浮世絵では、徳川家康に迫る武将と言えば「真田丸」を築城した「真田幸村」(さなだゆきむら)が多いのですが、この浮世絵では土佐国(とさのくに:現在の高知県)の大名「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)が迫る構図となっており、非常に珍しいものです。
長宗我部盛親は、真田幸村や「後藤基次」(ごとうもとつぐ)らと共に、「五人衆」に名を連ねた豊臣軍の武将。大坂夏の陣は、豊臣軍と徳川軍による戦いが各地で繰り広げられたことで有名ですが、長宗我部盛親が最も活躍するのは「八尾・若江の戦い」(やお・わかえのたたかい)です。
大坂夏の陣が終局を迎えるおよそ1ヵ月前、1615年(慶長20年)5月6日に長宗我部盛親は、徳川軍「藤堂高虎」(とうどうたかとら)の部隊と激突します。同日未明に長宗我部盛親の家臣「吉田重親」(よしだしげちか)が藤堂高虎により討ち取られると、藤堂高虎はその勢いで盛親本隊へと侵攻しました。長宗我部盛親は、騎馬隊を下馬させると川の堤防の上に槍を持って隠れさせ、高虎隊が迫ってきた頃合を見計らって襲撃。この奇襲により高虎隊は敗走。
しかし、その後、豊臣軍の別働隊を壊滅状態にさせた「井伊直孝」(いいなおたか)などによる徳川軍が、高虎隊の援軍として到着。長宗我部盛親は、大軍相手に成すすべもなく大坂城への撤退を余儀なくされます。
そして、このときの損害が大きかったため、長宗我部盛親は翌日に起きた「天王寺・岡山の戦い」(てんのうじおかやまのたたかい)へは参戦せず、大坂城内に留まりました。