- 合戦浮世絵
- 合戦絵とは
つきおかよしとし さく「あんせいごねんさんがつみっかすいふのだっしら
しばあたごのさんじょうへしゅうかいにおよびきゅうしゅのうっぷんを
さんぜんためたいろうひこねこうをうたんとせっちゅうにみっけいを
ひょうていしなごりのえんをもよおすず」
月岡芳年 作「安政五年三月三日水府ノ脱士等
芝愛宕ノ山上ヘ集会ニ及ビ旧主ノ鬱憤ヲ
散ゼン為大老彦根侯ヲ撃殺ト雪中ニ密計ヲ
評定シ余波ノ宴ヲ催ス図」 /ホームメイト

本合戦浮世絵が描くのは、幕末の1860年(安政7年)3月3日朝、時の江戸幕府大老で彦根藩主の「井伊直弼」(いいなおすけ)が江戸城へ上る時を襲撃しようと、水戸藩の脱藩浪士ら18人が、直前に愛宕山(現在の東京都港区愛宕)の愛宕神社へ集合した場面。間もなくこの18人による井伊直弼暗殺事件「桜田門外の変」が起こります。
井伊直弼は1858年(安政5年)、江戸幕府の開国政策に反対した尊王攘夷派(そんのうじょういは:天皇を尊び、外国を排斥しようとする一派)を弾圧する「安政の大獄」を開始。尊王攘夷派の先鋒だった水戸藩では「徳川斉昭」(とくがわなりあき)が謹慎、家老の「安島帯刀」(あじまたてわき)が切腹させられ、井伊直弼を恨んだ水戸藩士の一部は脱藩してまでその暗殺を計画、実行しました。
本合戦浮世絵の作者の「月岡芳年」(つきおかよしとし)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師の1人。武者絵や無残絵の秀作を多く残しています。
画面中の浪士達は、雪が降る早朝の暗い空を背景に焚火で暖を取る者、刀の刃を確かめる者、鎖帷子を着る者、書状を読む者など、様々な姿で描かれます。左側を向く者達は、愛宕神社の北にある彦根藩上屋敷(跡地は現在憲政記念館)をうかがっているのでしょう。18人中唯一薩摩藩出身で、襲撃時に井伊直弼の首を切り落とした「有村次左衛門」(ありむらじざえもん)は、赤い剣道の胴を着けて盃を手にしており、月岡芳年の意図が感じられます。
■コラム 襲撃時の彦根藩
水戸藩浪士が井伊直弼の行列を襲撃した際、護衛の彦根藩士は雪よけのために合羽を着用し、刀の柄と鞘にも袋をかけていたため、急な事態への対応が遅れたと言われます。
また、井伊直弼は自分の暗殺計画があることを事前に知らされていたものの、あえて警備を固めず通常と同じように過ごしていたと伝わります。