浮世絵入門

名所絵の誕生と流行
/ホームメイト

文字サイズ

名所絵とは、平安時代に誕生した、日本各地にある有名な場所の風景を描いた絵画です。平安時代には和歌と結び付いていましたが、時代の流行に沿いながら発展し、次第に絵巻物、浮世絵などに描かれるようになり、将軍から庶民まで多くの人々に愛されてきました。特に江戸時代には、庶民の旅行ブームと相まって、大いに流行したのです。名所絵がどのように生まれ、どのように発展したのか、詳しくご紹介します。

名所絵とは

富嶽三十六景「凱風快晴」

富嶽三十六景「凱風快晴」

名所絵とは、日本各地にある名所とされる場所の景色を描いた絵のこと。名所は、古くは「などころ」と呼ばれ、有名な場所の他にも文学や伝説に登場する場所なども含まれていました。

平安時代には、名所は和歌に歌枕(うたまくら)として詠み込まれることが増え、次第に和歌に詠まれた場所と絵画が結び付いて、屏風絵(びょうぶえ)や襖絵(ふすまえ)として名所が描かれるようになったのです。

また、名所絵はのちに「月次絵」(つきなみえ:1年の行事等を順番に描いた絵)や「四季絵」(しきえ:春夏秋冬の順番に風景や人物を描いた絵)とともに、日本の風景や風俗を描く「やまと絵」の重要なジャンルのひとつとなりました。

絵画の形式の発展に伴い、名所絵の描かれ方も変化。平安時代には屏風絵や襖絵が多く作られましたが、中世になると絵巻物の一部に描かれることが多くなり、江戸時代になると、浮世絵として大ブームが起こりました。「葛飾北斎」(かつしかほくさい)や「歌川広重」(うたがわひろしげ)は、名所絵の第一人者と称される浮世絵師です。

名所絵の誕生

在原業平

在原業平

名所絵が成立したのは平安時代中期のこと。この頃の名所絵は、歌に詠まれた諸国の名所を選んで絵画にし、和歌と併せて観賞されました。

小倉百人一首」の中に、「在原業平」(ありわらのなりひら)による「ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」という歌があります。奈良県斑鳩町を流れる龍田川が、その水面に映る紅葉で唐紅色に色付く様子を歌った和歌ですが、実際の龍田川ではなく、紅葉で色付く龍田川を描いた屏風絵を見て詠んだ歌です。名所絵は、この和歌が詠まれた時代には広く親しまれていたことが分かります。

また、10世紀前半には、屏風に描かれた絵画の題材に沿って歌を詠み、屏風に貼った色紙形に書き付ける「屏風歌」(びょうぶうた)が流行。ここでも、屏風絵には名所が描かれており、名所を読んだ和歌も残っています。このように、平安時代の名所絵は、和歌との関係が深く、風雅な印象を持つ絵画だったのです。

名所絵の変遷と流行

鎌倉時代から中世までの名所絵

鎌倉時代に入ると、物語や説話などを絵で表現する「絵巻物」(えまきもの)が盛んに作られるようになりました。絵巻物の中に風景を描くこともあり、平安時代末期に作られた「信貴山縁起絵巻」(しぎさんえんぎえまき)や鎌倉時代に作られた「一遍上人絵伝」(いっぺんしょうにんえでん)など、絵巻物の一部に名所絵が入ることが増えていったのです。

また、室町時代には障子や襖(ふすま)、畳を用いた建築様式である「書院造」(しょいんづくり)が誕生したことにより、「障壁画」(しょうへきが:襖などに描かれた絵)が流行。名所絵も障壁画の画題として採用され、金箔を用いた豪華な絵が多く生み出されたのです。

江戸時代の名所絵

東海道五十三次「京師 三条大橋」

東海道五十三次「京師 三条大橋」

江戸時代に入ると浮世絵が流行し、名所絵は人気のテーマとなりました。初期の浮世絵は美人や役者を描くのが主流でしたが、享保年間(1716~1736年)に遠近法を用いた銅版画が輸入されたことで、浮世絵の描写方法の幅が広がり、その後も外国から化学顔料が輸入され、多色刷りの技術が成立したため、鮮やかな色合いの風景画を浮世絵の題材にできるようになったのです。

また、享保年間から庶民の間で旅行が大ブームとなり、それに呼応するようにして、浮世絵でも全国の名所を描くようになりました。「富嶽三十六景」(ふがくさんじゅうろっけい)や「東海道五十三次」(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、その代表例です。

有名な名所絵

葛飾北斎「富嶽三十六景」

富士山を題材にした様々な風景が描かれた富嶽三十六景は、天保年間(1831~1845年)の初期に西村永寿堂から出版されました。当初は36図の予定だったため三十六景と名付けられていますが、好評だったため、あとから10図が追加され、全部で46図。当初の36図は「表富士」、追加の10図は「裏富士」と呼ばれています。

「赤富士」(あかふじ)とも呼ばれる有名な「凱風快晴」(がいふうかいせい)や、海外では「グレートウェーブ」と呼ばれ人気が高い「神奈川沖浪裏」(かながわおきなみうら)などが特に有名です。葛飾北斎による個性的で美しい富士山の描写はもちろん、富士山を信仰対象としていた当時の風潮も追い風となって、富嶽三十六景は爆発的なヒット作となりました。

2代目歌川豊国「名勝八景」

初代「歌川豊国」(うたがわとよくに)の弟子である2代目「歌川豊国」による名所絵が、武蔵国(むさしのくに:現在の埼玉県、東京都23区、神奈川県の一部)、相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部、北東部)にある景勝地8ヵ所を描いた「名勝八景」(めいしょうはっけい)です。全部で8図あり、「鎌倉晩鐘」(かまくらばんしょう)では、「鶴岡八幡宮」(神奈川県鎌倉市)の境内を俯瞰的に描き、その遠景には山々が配されています。

また、「三保落雁」(みほらくがん)は、三保松原(みほのまつばら:静岡市清水区)、富士山、「清見寺」(せいけんじ:静岡市清水区)を久能山からの眺めとして描写し、雁の群れや多くの船で賑わう港の様子を描いた作品。鮮やかなブルーを用いて各国の美しい風景を俯瞰的に描いた名勝八景は、2代目歌川豊国の代表作です。

歌川広重「名所江戸百景」

歌川広重の集大成とも言える作品が「名所江戸百景」(めいしょえどひゃっけい)。江戸の名所の風景や人々の様子を描いた作品で、1856~1858年(安政3~5年)、歌川広重の最晩年に描かれた物です。歌川広重は死の直前まで制作を続けており、弟子が補筆して完成しました。

名所江戸百景は、春夏秋冬の4つの部に分けられていて、それぞれの季節における江戸の名所が生き生きと描かれています。縦長の俯瞰的な構図も特徴で、「大はしあたけのゆうだち」、「亀戸梅屋敷」(かめいどうめやしき)などが特に有名。大粒の雨が降る様子を線で表現したり、梅を手前に配置したりと、構図と色彩表現に斬新な手法を数多く取り入れています。

3代目歌川豊国(歌川国貞)・歌川国久「江戸名所百人美女」

「江戸名所美人百景」は、1857~1858年(安政4~5年)に制作された、美人画と名所絵という浮世絵の2つのテーマを掛け合わせた作品です。3代目「歌川豊国」(旧名は歌川国貞[うたがわくにさだ])が美人画を、2代目「歌川国久」(うたがわくにひさ)が名所絵を担当しました。大判の錦絵の中央に美女の姿が描かれ、その中の四角い枠内に名所絵を描く構図が特徴的。

「目黒瀧泉寺」(めぐろりゅうせんじ)は、「瀧泉寺」(東京都目黒区)の門前にあった茶屋の女性が酒を運ぶ姿を描いています。また、「十軒店」(じっけんだな)は雛人形の冠を手にする女性が描かれた作品。現在の東京都中央区日本橋室町にあった十軒店は、江戸時代に雛人形を売る雛市で賑わう町でした。それぞれの場所とともに描かれる女性達は、職業も暮らし方も様々。江戸名所美人百景では、吉原の遊女や大名家の姫など、あらゆる階級の女性達が名所絵と共に描かれるという新たな趣向の作品です。

【東京国立博物館「研究情報アーカイブズ」より】

  • 葛飾北斎「富嶽三十六景 凱風快晴」

名所絵の誕生と流行

名所絵の誕生と流行をSNSでシェアする

「浮世絵入門」の記事を読む


武者絵とは

武者絵とは
「武者絵」とは、勇ましい武士の姿を描いた絵です。強くなりたい男の憧れであり、理想でもありました。また、武者絵は題名通りの物だけではなく、「見立絵」(みたてえ)や「偽名絵」(にせなえ)、「謎解き絵」(なぞときえ)と呼ばれる、隠された意味が込められている物もあったのです。武者絵の歴史と幕府の禁令、武者絵のジャンルについて、詳しくご紹介します。 役者絵(歌舞伎絵)|YouTube動画

武者絵とは

合戦絵とは

合戦絵とは
浮世絵における「合戦絵」(かっせんえ)とは、平安時代から江戸時代後期(幕末は含まない)に起きた「合戦」を題材とした絵のことです。しかし、浮世絵が生まれた江戸時代は、ほぼ戦がない天下泰平の時代。遠い昔に起こった史実、物語絵をわざわざ描くということは、描きたいという別の理由があったのです。「合戦絵」の歴史や観賞方法について、詳しくご紹介します。

合戦絵とは

役者絵(歌舞伎絵)とは

役者絵(歌舞伎絵)とは
「役者絵」(歌舞伎絵)とは、歌舞伎役者を描いた浮世絵のことです。「歌舞伎」とは男性俳優による古典演劇で、江戸時代に大成し絶大な人気がありました。その歌舞伎の人気役者を人気浮世絵師が描くという相乗効果で、「役者絵」(歌舞伎絵)は大ヒットしたのです。「役者絵」(歌舞伎絵)の歴史や種類、魅力についてご紹介します。 有名な歌舞伎のワンシーンや歌舞伎役者を描いた迫力ある役者絵(歌舞伎絵)を紹介します。 歌舞伎の見得と睨み歌舞伎の独自の表現方法である「見得」と「睨み」について紹介します。 「役者絵(歌舞伎絵)」関連 YouTube動画 役者絵(歌舞伎絵) 人々を魅了する役者絵 歌川豊国(三代)の描く役者絵 歌川国貞(三代)の描く役者絵 役者絵~豊原国周~

役者絵(歌舞伎絵)とは

戦争絵(戦争画)とは

戦争絵(戦争画)とは
「戦争絵」(戦争画)とは、幕末(江戸時代末期)以降の「戦争」を題材にして描かれた浮世絵のことです。遠い昔話を描いた「合戦絵」とは異なり、「時事」(その当時の出来事)をすみやかに伝える「メディア」の役割をも担い、爆発的に売れたと言われています。また、「戦争絵」(戦争画)には、歴史的事実の記録はもちろん、人々の戦意を高揚させる効果もありました。「戦争絵」(戦争画)について、詳しくご紹介します。 幕末の「戊辰戦争」や明治時代の「西南戦争」、「日清戦争」等を題材にした浮世絵がご覧いただけます。 歴史を伝える戦争絵 YouTube動画

戦争絵(戦争画)とは

名所絵とは

名所絵とは
「名所絵」(めいしょえ)とは、日本各地の名所や風光明媚な景色を描いた絵のことで、浮世絵においても高い人気を誇る画題のひとつです。浮世絵の画題として風景が取り上げられ、「葛飾北斎」(かつしかほくさい)の「富嶽三十六景」(ふがくさんじゅうろっけい)によって様式が確立し、「歌川広重」(うたがわひろしげ)の「東海道五十三次」(とうかいどうごじゅうさんつぎ)が名所絵の人気を不動のものとしました。名所絵は、広義には「山水図」(さんすいず)や「洛中洛外図」(らくちゅうらくがいず:京都の景観を描いた屏風絵)などの屏風絵、障壁画も含まれますが、浮世絵の1ジャンルである名所絵に焦点を絞って述べていきます。

名所絵とは

鬼才・月岡芳年が描いた下絵

鬼才・月岡芳年が描いた下絵
「月岡芳年」(つきおかよしとし)は、明治時代を代表する浮世絵師です。血みどろ残酷絵で有名ですが、美しい武者絵や歴史画、「鬼滅の刃」にも出てきそうなほど躍動感のある妖怪を描くなど、作風は多彩。そんな天才、鬼才と呼ばれた月岡芳年の版画下絵が、このたび、刀剣ワールド財団の所蔵となりました。完成品と違い、下絵は残っていることが少ない貴重品で、月岡芳年のスケッチ力の高さがよく分かります。鬼才・月岡芳年が描いた下絵について、詳しくご紹介しましょう。

鬼才・月岡芳年が描いた下絵

蔦屋重三郎の浮世絵

蔦屋重三郎の浮世絵
「蔦屋重三郎」(つたやじゅうざぶろう)は、江戸時代中期に一世を風靡した版元(出版人)です。「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)、「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)といった偉才を見出し、その浮世絵出版で腕を振るった名プロデューサーとして知られています。 2025年(令和7年)のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(つたじゅうえいがのゆめばなし)では主人公に抜擢され注目度もうなぎ上り。本記事「蔦屋重三郎の浮世絵」では、蔦屋重三郎が出版を手がけた浮世絵作品に焦点を絞り、どのような想いを込めて売り出していったのかを見ていきましょう。

蔦屋重三郎の浮世絵

浮世絵師の仕事と手順

浮世絵師の仕事と手順
一般的に、絵画は1点物が基本です。東洋か西洋かを問わず、有名な画家の作品は庶民の手が届く物ではありませんでした。しかし江戸時代に庶民の間で大流行した「浮世絵」(うきよえ)は違います。浮世絵は、「浮世絵師」(うきよえし)と呼ばれる多くの職人が、持てる技術の粋を集めて大量生産の仕組みを創り出し、「肉筆画」(にくひつが:絵師が自筆で描いた1点物の絵画)に負けないクオリティと、かけそば1杯程度の低価格を両立した芸術でした。そんな浮世絵師達の緻密な仕事ぶりと、見事な連携による浮世絵ができるまでの手順を紹介します。

浮世絵師の仕事と手順

日本浮世絵商協同組合とは

日本浮世絵商協同組合とは
「浮世絵」(うきよえ)は、江戸時代初期に成立した、日本独自の絵画様式のひとつです。しかし明治時代以降、優れた浮世絵作品の多くが海外に流出したため、浮世絵の流通・取引の市場も海外が中心になってしまいました。そこで、日本における浮世絵の流通市場を確立するために作られたのが、「日本浮世絵商協同組合」(にほんうきよえしょうきょうどうくみあい)です。現在、同組合では年1回のオークションを開催し、浮世絵をはじめとする明治~昭和時代の浮世絵・版画作品が、適正な価格で安全に流通する市場を目指して活動を続けています。

日本浮世絵商協同組合とは