「細田派」は「浮世絵」の流派のひとつで、江戸時代中期に興りました。創始者の「細田時富」(ほそだときとみ)は、勘定奉行まで務めた500石の旗本家の長男として生まれながら、画号「鳥文斎栄之」(ちょうぶんさいえいし)を名乗り、30代で隠居して浮世絵師一本に専念したという個性派です。鳥文斎栄之を祖とする細田派は、特に「美人画」のジャンルで人気を博しました。鳥文斎栄之の生い立ちや作風について述べると共に、優れた作品を残した門人達を取り上げていきます。
画号「鳥文斎栄之」(ちょうぶんさいえいし)こと「細田時富」(ほそだときとみ)は、江戸時代中期の1756年(宝暦6年)に500石取りの直参旗本の跡取りとして誕生しました。
直参旗本とは、将軍に謁見する資格のある10,000石以下の将軍家直属の家臣を指し、祖父の「細田時敏」(ほそだときとし)が勘定奉行(財政や幕府直轄領の支配などを担う江戸幕府の役職)を務めていたほどの家柄だったと伝えられています。
17歳のとき家督を継いだ細田時富ですが、絵に対する興味はすでに大きく、はじめ「狩野派」(かのうは)の画家「狩野典信」(かのうみちのぶ)に師事。師の画号である「栄川」(えいせん)から「栄」の一文字を譲り受け「栄之」と号しました。のちに浮世絵師の「文龍斎」(ぶんりゅうさい)の門人となりますが、栄之の号は使い続けています。
徳川家治
浮世絵を学びながら幕府の御役目を務めていた細田時富は、1781~1783年(天明元年~3年)の間、書画に造詣の深い10代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)の「小納戸役」(こなんどやく:将軍の側近くに仕え日常の細々した業務に従事する家臣)となり、絵をたしなむ将軍の補佐を担いました。
1786年(天明6年)に徳川家治が病没すると、その3年後の1789年(寛政元年)、細田時富も病気を理由に34歳で隠居。妹を養女として迎え、妹婿に家督を譲ります。
小納戸役に抜擢された当時、細田時富はすでに浮世絵師として活動していましたが、隠居後は本格的な創作活動に専念。その頃、「美人画」の第一人者として名を馳せていた「鳥居清長」(とりいきよなが)の影響を強く受けながら、全身像の美人画に独自の様式を確立します。寛政年間(1789~1801年)には木版画浮世絵の美人画を数多く手掛け、鳥文斎栄之の名は広く知られることとなったのです。
鳥文斎栄之が表した美人画の女性像は、「十二頭身」とも言われるすらりと背の高い優雅な姿で、その描線も繊細で優美。物静かな雰囲気があり、鳥文斎栄之がライバルとしていた「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)の作品から感じられる色っぽさや妖艶さとは一線を画していました。
また、墨、淡墨(うすずみ)、藍、紫、黄、緑といった渋く落ち着いた色のみを用いた表現も創案しており、これは「紅嫌い」(べにぎらい)と呼ばれています。一見地味な印象を受ける色彩ながら、温かみのある気品にあふれ、鳥文斎栄之はこの作風の一枚絵で喜多川歌麿と人気を競ったのです。この抑えた品の良さは、鳥文斎栄之が質実剛健を旨とする武家の出身であることと関係があると言えます。
鳥文斎栄之の代表作としては、シリーズ物の「風流略六哥仙」(ふうりゅうやつしろっかせん)や「風流名所十景」、「青楼美撰合」(せいろうびえらびあわせ)、「青楼芸者撰」(せいろうげいしゃせん)、「青楼美人六花仙」(せいろうびじんろっかせん)などが挙げられます。
ライバルの喜多川歌麿が得意とした「大首絵」(おおくびえ:顔や上半身を大きく描いた浮世絵)を手掛けることはなく、全身像の作品一筋だったことも鳥文斎栄之の特徴です。
鳥文斎栄之は、1798年(寛政10年)頃には木版画浮世絵の制作から離れ、「肉筆画」のみを描くようになります。
肉筆画とは、浮世絵師が自ら筆で描く1点物の作品のことで、同じ作品をたくさん摺ることができる木版画よりも高価でした。また江戸時代においては、木版画の下絵を描く「絵師」よりも、肉筆画を専門とする「本絵師」の方が格上と見なされていたため、身分意識の強かった当時、鳥文斎栄之が旗本であったことも転向の理由になったのではないかと推測されています。
鳥文斎栄之は没年まで、優れた肉筆画の美人画や風景画を制作しました。
細田派を創始した鳥文斎栄之は、多くの優秀な門人を輩出したことでも有名です。鳥文斎栄之が旗本家の出身であったためか、武家出身の弟子も含まれ、浮世絵の世界で名を成しています。そのなかから3人の著名な浮世絵師について見ていきましょう。
鳥高斎栄昌「郭中美人競 笹屋春日野」
「鳥高斎栄昌」(ちょうこうさいえいしょう)は、鳥文斎栄之の一番の高弟とされていますが、本名も生没年も不明という謎多き浮世絵師です。
作画期は1793~1799年(寛政5~11年)の6年間ほどにもかかわらず、木版画浮世絵や黄表紙(江戸時代中期以降に流行した大人向けの絵本)の挿絵、肉筆浮世絵などを描き、鳥文斎栄之の門人の中では最も多くの作品を残しました。
師の鳥文斎栄之にとってのライバルであった喜多川歌麿に影響を受けた美人大首絵を手掛け、シリーズ物の「郭中美人競」(かくちゅうびじんくらべ)が代表作となっています。
「鳥橋斎栄里」(ちょうきょうさいえいり)も師である鳥文斎栄之と同じ武家の出身で、旗本よりも家格の下がる御家人です。
御家人とは、徳川将軍家直属の家臣のなかで、知行(ちぎょう:主君から保証された所領)は10,000石未満、将軍には謁見できないお目見え以下の者を指します。
鳥高斎栄昌に次ぐ高弟とされ、美人画を得意としました。「梅窓美人図」(ばいそうびじんず)など多くの作品を残し、郭中美人競のシリーズでは同門の鳥高斎栄昌らと共作しています。
一楽斎栄水「美人五節句 扇屋内花人」
「一楽斎栄水」(いちらくさいえいすい)は「一楽亭栄水」(いちらくていえいすい)という号でも知られる美人画の浮世絵師です。
1789~1804年(寛政元年~享和4年)頃に活動し、50点ほどの作品を描きました。
そのほとんどは太い眉が印象的な、穏やかな表情の美人大首絵であり、師の鳥文斎栄之の作風より、晩年の喜多川歌麿の作風に似ています。
シリーズ物の「美人五節句」(びじんごせっく)や「美人合浄瑠璃鏡」(びじんあわせじょうるりかがみ)などが代表作。
「東海道中膝栗毛」(とうかいどうちゅうひざくりげ)の作者として有名な「十返舎一九」(じっぺんしゃいっく)作の黄表紙や洒落本(江戸時代中期から後期の小説本)の挿絵も手掛けています。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 鳥高斎栄昌「郭中美人競 笹屋春日野」
- 一楽斎栄水「美人五節句 扇屋内花人」