浮世絵の流派

北尾派
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北尾派は、江戸時代に活躍した日本の浮世絵師「北尾重政」(きたおしげまさ)を祖とする浮世絵の一派のことです。どの時代のどの絵師までを北尾派と見なすか、明確な区分はありません。北尾派の浮世絵は、民衆の日常生活から、服装・髪型などの流行、当時の思想・価値観までを生き生きと描写しているのが特徴です。また、北尾派の技法や作品は、後世の浮世絵師に大きな影響を与えました。北尾派の歴史、特色、代表する絵師と作品について解説します。

北尾派の歴史

祖・北尾重政

北尾重政

北尾重政

北尾派の歴史は、開祖である北尾重政浮世絵師として世に出たことが始まり。

北尾重政は、江戸の小伝馬町(東京都中央区)で書物を出版・販売する書肆(しょし)の家庭に生まれ、独学で絵の技術を磨いたとされています。

北尾重政の浮世絵が世に出たのは、宝暦年間(1751~1764年)の後期。紅摺絵(べにずりえ)という木版画の技法で、役者絵などを描きました。その後、当時高い人気を得ていた浮世絵師「鈴木春信」(すずきはるのぶ)に次ぐ有力な画家として、徐々に名を上げていきます。

北尾重政は「錦絵」(にしきえ:多版多色刷りの木版画)も描きましたが、絵本や挿絵などの作品が多く残っており、特に「黄表紙」(大人向けの絵物語)の作画は100作品以上です。

門人

北尾重政は門人を受け入れ、「北尾政美」(きたおまさよし)、「北尾政演」(きたおまさのぶ)、「窪俊満」(くぼしゅんまん)などが北尾重政のもとで浮世絵を学び、やがて北尾重政の作風や技術を受け継いでいきます。

北尾政美

1780年(安永9年)に黄表紙の挿絵を描き、浮世絵師としてデビュー。初期は黄表紙、洒落本(しゃれぼん:会話形式の小説)、噺本(はなしぼん:短編の笑い話を集めた本)などの戯作(げさく:通俗小説の総称)における挿絵制作を中心に活動しました。のちに美人画武者絵などの錦絵も手掛けるようになります。

1794年(寛政6年)には、津山藩(現在の岡山県津山市)の御用絵師に任命。なお、晩年は名を「鍬形蕙斎」(くわがたけいさい)と改めました。

なお、北尾政美の門下に入った「北川美丸」(きたがわよしまる)が、1827年(文政10年)に「2代北尾重政」を襲名しています。

北尾政演

北尾政演

北尾政演

若くして北尾重政の門下に入って北尾政演と名乗り、絵師として活動していましたが、のちに洒落本や黄表紙などの文章を手掛けるようになった人物。

そのため、浮世絵師としての活動は10年ほどと比較的短く、現存する肉筆画はわずかです。

北尾政演は、20歳頃から「山東京伝」(さんとうきょうでん)という名で戯作者としても活動し、当時大人気であった作家「滝沢馬琴」(たきざわばきん)や「十返舎一九」(じっぺんしゃいっく)と並ぶ人気作家となりました。

窪俊満

国学者で文人画家でもあった「楫取魚彦」(かとりなひこ)に師事したのち、北尾重政の門下に入り、洒落本の挿絵や美人画の錦絵などを制作。ただし、師・北尾重政の画風とは異なり、「鳥居清長」(とりいきよなが)の画風に近かったと言われています。

北尾派の特色

画法

北尾重政 作「本所五ツ目五百羅漢寺栄螺堂之図」(東京都立図書館デジタルアーカイブより)

北尾重政 作
「本所五ツ目五百羅漢寺栄螺堂之図」

北尾重政の画法で特徴的なのが、西洋画に見られるような遠近法です。

「五百羅漢寺栄螺堂之図」(ごひゃくらかんじさざいどうのず)では、絵の中央には樹木を配置し、右側に大きく「五百羅漢寺」(東京都目黒区)を、左側の奥には小さく富士山を配置。

また、「江之島金亀山并七里ヶ浜鎌倉山之図」(えのしまきんきざんならびにしちりがはまかまくらやまのず)では、手前側の高所から奥の七里ヶ浜と無数の釣舟を俯瞰するという視点から描きました。

略画式(イメージイラスト)

略画式(イメージイラスト)

北尾政美は、簡単な描線により描かれたスケッチ風の表現技法である「略画式」を確立。

細部までは描き込まず、線画や色付けを簡素化する画法で、筆を使って丸みのある姿の鳥獣や人物を描き、1~2色の淡い色で一部、あるいは全体に色を付けるだけにとどめます。

その魅力は現代でも認められ、生活雑貨などのデザインにも採用されるほどです。北尾政美は、略画式の他に、精密で写実的な花鳥画なども残しています。

窪俊満は、江戸幕府から出された「倹約令」の影響を受けた、「紅嫌い」(べにぎらい)という画法を取り入れました。紅系統の華やかな色は避けて、紫、緑、薄墨などを主調とした落ち着いた色で仕上げる作風です。窪俊満は紅嫌いの美人画「夜の句会」などをはじめ、多数の名作を生み出しました。

特徴

北尾重政は生涯を通じて多様なテーマを追求。時代の風俗、美女、役者などの描写において、独特の視点と卓越した技術を併せ持っていました。

庶民的でありつつも、深い教養を持つ北尾重政は、階級を超えて様々な人々に愛され、やがて北尾政演、北尾政美、窪俊満のような文学的教養のある門人が多く集まったのです。

北尾重政とその門下生は、挿絵を描くことも多く、鮮やかな色を使った作品は少ない傾向。北尾重政は墨摺(すみずり:墨だけで絵を摺る方法)の挿絵が多数残っているのに加え、北尾政美の略画式や窪俊満の紅嫌いなどに見られるように、比較的落ち着いた色合いが多く見られます。

北尾派を代表する浮世絵師

北尾重政

北尾重政は、風俗画、美人画、役者絵など幅広い主題を描きましたが、特に知られているのが、美人画「青楼美人合姿鏡」(せいろうびじんあわせすがたかがみ)です。

勝川春章

勝川春章

細密優美な作風により高い評価を受けた浮世絵師「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)と合作した絵本で、吉原の遊女達が琴、すごろく、座敷遊びなどに興じている様子を描いています。

他にも、「東西南北之美人 東方乃美人」(とうざいなんぼくのびじん とうほうのびじん)では、江戸を代表する4つの遊郭に在籍する遊女達を題材にし、「品川君姿八景」(しながわくんしはつけい)では品川の遊女達を描きました。

北尾政美

13歳で北尾重政に入門し、父は畳職人だったことから仲間内で「畳屋の三公」(たたみやのさんこう)と呼ばれた北尾政美は、錦絵では花鳥画や武者絵など多くの作品を残しました。

俯瞰で描いた風景画「江戸一目図屏風」(えどひとめずびょうぶ)も有名です。江戸の全景を上空から見下ろすような視点で描いており、屏風の中央奥側に「江戸城」(現在の東京都千代田区)、その手前には大名屋敷や城下町、さらに日本橋、浅草、吉原など江戸の名所を多数描いています。

また、略画式では鳥獣や人物の他、山水、魚貝、草花などの略画も描きました。これらの略画式は多くの絵師に影響を与え、なかでも人気浮世絵師「葛飾北斎」(かつしかほくさい)は略画式を真似て絵手本「北斎漫画」を描いたと言われています。

【東京都立図書館デジタルアーカイブより】

  • 北尾重政「本所五ツ目五百羅漢寺栄螺堂之図」

北尾派

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