浮世絵入門

鬼才・月岡芳年が描いた下絵
/ホームメイト

文字サイズ

「月岡芳年」(つきおかよしとし)は、明治時代を代表する浮世絵師です。血みどろ残酷絵で有名ですが、美しい武者絵や歴史画、「鬼滅の刃」にも出てきそうなほど躍動感のある妖怪を描くなど、作風は多彩。そんな天才、鬼才と呼ばれた月岡芳年の版画下絵が、このたび、刀剣ワールド財団の所蔵となりました。完成品と違い、下絵は残っていることが少ない貴重品で、月岡芳年のスケッチ力の高さがよく分かります。鬼才・月岡芳年が描いた下絵について、詳しくご紹介しましょう。

下絵とは

下絵と浮世絵の制作工程

「下絵」(したえ)とは、下書きのことです。大まかに、簡単に描いた絵、素描(すびょう、すがき)、ラフ、スケッチのことを言います。江戸時代、浮世絵の制作工程には、大きく7段階ありました。それは、次の通りです。

下絵を描く

下絵を描く

  1. 絵師が下絵(ラフ、スケッチ)を描くこと
  2. 絵師が版下絵(デッサン)を描くこと
  3. 版元が版下絵を幕府法令にしたがって役人に提出し、出版許可「改印」を受けること
  4. 彫師が墨版を彫って墨刷すること
  5. 絵師が墨刷りを見て、色指定すること
  6. 彫師が色版を彫ること
  7. 摺師が墨版と色版を受け取り、摺ること

つまり、下絵とは、浮世絵制作の一段階目にあたる絵のことです。刀剣ワールド財団では、現在「月岡芳年」が描いた下絵6枚を所蔵しています。

月岡芳年の下絵を観よう

東錦浮世稿談/神田伯勇 幡随院長兵衛

これは、1867年(慶応3年)~1868年(慶応4年)に、月岡芳年が発表したシリーズ絵「東錦浮世稿談」(あずまのはなうきよこうだん)の中の1枚、「神田伯勇 幡随院長兵衛」(かんだはくゆう ばんずいいんちょうべい)の下絵です。

講談師「神田伯勇」(2代目神田伯山)が、「幡随院長兵衛」を演じている姿を描いた物。普通、下絵では、全体の構図がざっと描かれます。

  • 月岡芳年 下絵「東錦浮世稿談 神田伯勇 幡随院長兵衛」(刀剣ワールド財団所蔵)

    下絵・月岡芳年
    「東錦浮世稿談 神田伯勇 幡随院長兵衛」

  • 月岡芳年作「東錦浮世稿談 神田伯勇」

    完成品・月岡芳年作
    「東錦浮世稿談 神田伯勇
    幡随院長兵衛」

この絵で例えれば、中心に人物、人物が座る椅子、上部の湯けむりといった程度。ところが、月岡芳年の描く下絵はこのようにとても丁寧で、この段階で、背景や刀などの小道具、浴衣の柄、真っ赤な血みどろまで描かれています。

大抵、下絵は墨線のみ。次の版下絵の段階で黒色にしたいところを塗りつぶすなど、詳細に描くものなのです。したがって、この下絵はただの下絵ではなく、月岡芳年が得意とする血みどろ絵になることを最初から見せつけた物。月岡芳年の気合いが込められた1枚と言えるのです。

なお、右にあるのが、完成品。色も月岡芳年が指定しています。血みどろの手形が下絵のときよりも多く、派手に華やかになったことが分かります。幡随院長兵衛は、町奴(まちやっこ:町のかぶき者)の頭領で、「水野十郎左衛門」(みずのじゅうろうざえもん)という旗本奴(はたもとやっこ:旗本の子でかぶき者)と対立していました。

ある日、幡随院長兵衛は水野十郎左衛門の酒宴に招かれます。幡随院長兵衛は罠と分かりながらも男気で参加。そこで、わざと衣服を汚されて湯殿に案内され裸でいるところを襲われ、謀殺されたのです。これにより、水野十郎左衛門は卑怯、幡随院長兵衛は英雄と評価。歌舞伎や講談の題材となり、人気を博しました。

魁題百撰相/菅谷久右衛門

これは、1868年(明治元年)に月岡芳年が制作したシリーズ絵「魁題百撰相」(かいだいひゃくせんそう)の中の1枚、「菅谷久右衛門」(すがやきゅうえもん)の下絵です。実は、同年に起きた「上野戦争」(戊辰戦争の中期戦)の偽名絵。

浮世絵で時事を描くことが禁止されていたため、月岡芳年は歴史上の武将の名に代えて「彰義隊」(しょうぎたい:旧幕府側の戦士)の姿を描きました。菅谷久右衛門とは、「織田信長」の側近で七尾城(現在の石川県)の城代「菅谷長頼」(すがやながより)のこと。

1582年(天正10年)の「本能寺の変」を知ると、織田信長の長男「織田信忠」がいた二条城(現在の京都府)に駆け付けて明智軍と戦い、経堂で経本に巻かれながら討死したと伝えられています。

  • 月岡芳年 下絵「魁題百撰相 菅谷久右衛門」

    下絵・月岡芳年
    「魁題百撰相 菅谷久右衛門」

  • 月岡芳年 下絵「魁題百撰相 菅谷久右衛門」

    完成品・月岡芳年
    「魁題百撰相 菅谷久右衛門」

この絵のモデルとなった人物が、彰義隊の誰かは特定されていませんが、首から経本1巻を覆い掛け、まるで伝え聞いた菅谷久右衛門のよう。斬られた頬や握った刀、経文、着物に付いた血色が、下絵の段階から付けられ、とても迫力があります。

完成品では、血みどろ色で空気のような物が男にまとわり付き、さらに不気味。実際に、月岡芳年は、上野戦争の現場まで行き、血を浴びた負傷兵や遺体の姿を写生して廻っていたとのこと。精根尽き果てた戦士のうらめしい眼、血の流れ方も生々しく、真実を追究して描いた、月岡芳年の執念を感じる1枚です。

金吾中納言秀秋

こちらもシリーズ絵「魁題百撰相」の中の1枚、「金吾中納言秀秋」(きんごちゅうなごんひであき)の下絵です。金吾中納言秀秋とは、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)のこと。

小早川秀秋が振り返ると、不気味な「大谷吉継」(おおたによしつぐ)の姿があり、驚いています。墨線が太く、迷いのない、しっかりとしたスケッチ。

  • 下絵・月岡芳年「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」

    下絵・月岡芳年
    「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」

  • 完成品・月岡芳年「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」

    完成品・月岡芳年
    「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」
    (刀剣ワールド所蔵)

完成品は、下絵と違って大谷吉継の顔が青白く色付き、亡霊であることが強調され、小早川秀秋も恐れおののいているようです。

小早川秀秋は、「豊臣秀吉」の正室「ねね」(高台院)の兄の子で、豊臣秀吉とねねの養子となっていた人物。9歳で右衛門府となり、右衛門府の唐名「金吾」と呼ばれ、愛育されました。

しかし、1593年(文禄2年)、「茶々」(淀殿)が豊臣秀吉の実子「豊臣秀頼」を出産したことで、豊臣秀吉はすべての養子縁組を解消。

「豊臣秀次」は関白職を奪われ、強制的に蟄居になったあと切腹。残りの養子はさらに養子に出され、徳川家康の次男は「結城秀康」となり、金吾も小早川秀秋となったのです。

これが不満だったのか、小早川秀秋は、豊臣秀吉亡きあとに起きた「関ヶ原の戦い」で、当初は西軍(豊臣家側)に属していたものの東軍(徳川家側)へと寝返り、西軍・大谷吉継を猛攻。窮地に立たされた大谷吉継は「3年の間に必ず祟ってやる」と言い残し自決しました。これが決定打となり、東軍は勝利したのです。

そして2年後、大谷吉継の言葉通りに祟られ、小早川秀秋は死亡しました。実は、「鳥羽・伏見の戦い」(戊辰戦争の初戦)でも、当初は旧幕府側だったのに、明治政府側へと寝返った武将がいたのです。その名は「藤堂高猷」(とうどうたかゆき)。月岡芳年には、藤堂高猷の背後にも亡霊が見えていたのかもしれません。

月岡芳年とは

月岡芳年

月岡芳年

月岡芳年は、1839年(天保10年)、新橋(現在の東京都)生まれ。本名は「吉岡米次郎」(よしおかよねじろう)。のちに叔父で日本画家「月岡雪斎」(つきおかせっさい)の養子となったため、「月岡米次郎」となりました。

1850年(嘉永3年)12歳のときに「歌川国芳」(うたがわくによし)に入門。1853年(嘉永6年)15歳のときに「一魁斎芳年」(いっかいさいよしとし)の名前で、武者絵の3枚続「文治元年平家の一門亡海中落ち入る図」という武者絵を描き、デビュー。

1864年(元治元年)26歳のときに、月岡雪斎の画姓を継承して月岡芳年と名乗り、1865年(元治2年)27歳のときに、兄弟子「落合芳幾」(おちあいよしいく)と血みどろの残酷絵「英名二十八衆句」を合作し、一躍人気絵師となりました。

幕末から明治時代初年にかけては、戊辰戦争にまつわる血みどろ絵や歴史画を数多く描いています。しかし、1870年(明治3年)31歳の頃から、精神を患い苦悩。1873年(明治6年)34歳には、「大蘇芳年」(たいそよしとし)と名前を改め、新聞錦絵を描き、再び活躍しました。しかし、1892年(明治25年)脳充血にて死去。享年54歳でした。

【ミネアポリス美術館より】

  • 月岡芳年作「魁題百撰相 菅谷久右衛門」

【メトロポリタン美術館より】

  • 月岡芳年作「東錦浮世稿談 神田伯勇 幡随院長兵衛」

鬼才・月岡芳年が描いた下絵

鬼才・月岡芳年が描いた下絵をSNSでシェアする

「浮世絵入門」の記事を読む


武者絵とは

武者絵とは
「武者絵」とは、勇ましい武士の姿を描いた絵です。強くなりたい男の憧れであり、理想でもありました。また、武者絵は題名通りの物だけではなく、「見立絵」(みたてえ)や「偽名絵」(にせなえ)、「謎解き絵」(なぞときえ)と呼ばれる、隠された意味が込められている物もあったのです。武者絵の歴史と幕府の禁令、武者絵のジャンルについて、詳しくご紹介します。 役者絵(歌舞伎絵)|YouTube動画

武者絵とは

合戦絵とは

合戦絵とは
浮世絵における「合戦絵」(かっせんえ)とは、平安時代から江戸時代後期(幕末は含まない)に起きた「合戦」を題材とした絵のことです。しかし、浮世絵が生まれた江戸時代は、ほぼ戦がない天下泰平の時代。遠い昔に起こった史実、物語絵をわざわざ描くということは、描きたいという別の理由があったのです。「合戦絵」の歴史や観賞方法について、詳しくご紹介します。

合戦絵とは

役者絵(歌舞伎絵)とは

役者絵(歌舞伎絵)とは
「役者絵」(歌舞伎絵)とは、歌舞伎役者を描いた浮世絵のことです。「歌舞伎」とは男性俳優による古典演劇で、江戸時代に大成し絶大な人気がありました。その歌舞伎の人気役者を人気浮世絵師が描くという相乗効果で、「役者絵」(歌舞伎絵)は大ヒットしたのです。「役者絵」(歌舞伎絵)の歴史や種類、魅力についてご紹介します。 有名な歌舞伎のワンシーンや歌舞伎役者を描いた迫力ある役者絵(歌舞伎絵)を紹介します。 歌舞伎の見得と睨み歌舞伎の独自の表現方法である「見得」と「睨み」について紹介します。 「役者絵(歌舞伎絵)」関連 YouTube動画 役者絵(歌舞伎絵) 人々を魅了する役者絵 歌川豊国(三代)の描く役者絵 歌川国貞(三代)の描く役者絵 役者絵~豊原国周~

役者絵(歌舞伎絵)とは

戦争絵(戦争画)とは

戦争絵(戦争画)とは
「戦争絵」(戦争画)とは、幕末(江戸時代末期)以降の「戦争」を題材にして描かれた浮世絵のことです。遠い昔話を描いた「合戦絵」とは異なり、「時事」(その当時の出来事)をすみやかに伝える「メディア」の役割をも担い、爆発的に売れたと言われています。また、「戦争絵」(戦争画)には、歴史的事実の記録はもちろん、人々の戦意を高揚させる効果もありました。「戦争絵」(戦争画)について、詳しくご紹介します。 幕末の「戊辰戦争」や明治時代の「西南戦争」、「日清戦争」等を題材にした浮世絵がご覧いただけます。 歴史を伝える戦争絵 YouTube動画

戦争絵(戦争画)とは

名所絵とは

名所絵とは
「名所絵」(めいしょえ)とは、日本各地の名所や風光明媚な景色を描いた絵のことで、浮世絵においても高い人気を誇る画題のひとつです。浮世絵の画題として風景が取り上げられ、「葛飾北斎」(かつしかほくさい)の「富嶽三十六景」(ふがくさんじゅうろっけい)によって様式が確立し、「歌川広重」(うたがわひろしげ)の「東海道五十三次」(とうかいどうごじゅうさんつぎ)が名所絵の人気を不動のものとしました。名所絵は、広義には「山水図」(さんすいず)や「洛中洛外図」(らくちゅうらくがいず:京都の景観を描いた屏風絵)などの屏風絵、障壁画も含まれますが、浮世絵の1ジャンルである名所絵に焦点を絞って述べていきます。

名所絵とは

蔦屋重三郎の浮世絵

蔦屋重三郎の浮世絵
「蔦屋重三郎」(つたやじゅうざぶろう)は、江戸時代中期に一世を風靡した版元(出版人)です。「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)、「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)といった偉才を見出し、その浮世絵出版で腕を振るった名プロデューサーとして知られています。 2025年(令和7年)のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(つたじゅうえいがのゆめばなし)では主人公に抜擢され注目度もうなぎ上り。本記事「蔦屋重三郎の浮世絵」では、蔦屋重三郎が出版を手がけた浮世絵作品に焦点を絞り、どのような想いを込めて売り出していったのかを見ていきましょう。

蔦屋重三郎の浮世絵

浮世絵師の仕事と手順

浮世絵師の仕事と手順
一般的に、絵画は1点物が基本です。東洋か西洋かを問わず、有名な画家の作品は庶民の手が届く物ではありませんでした。しかし江戸時代に庶民の間で大流行した「浮世絵」(うきよえ)は違います。浮世絵は、「浮世絵師」(うきよえし)と呼ばれる多くの職人が、持てる技術の粋を集めて大量生産の仕組みを創り出し、「肉筆画」(にくひつが:絵師が自筆で描いた1点物の絵画)に負けないクオリティと、かけそば1杯程度の低価格を両立した芸術でした。そんな浮世絵師達の緻密な仕事ぶりと、見事な連携による浮世絵ができるまでの手順を紹介します。

浮世絵師の仕事と手順

日本浮世絵商協同組合とは

日本浮世絵商協同組合とは
「浮世絵」(うきよえ)は、江戸時代初期に成立した、日本独自の絵画様式のひとつです。しかし明治時代以降、優れた浮世絵作品の多くが海外に流出したため、浮世絵の流通・取引の市場も海外が中心になってしまいました。そこで、日本における浮世絵の流通市場を確立するために作られたのが、「日本浮世絵商協同組合」(にほんうきよえしょうきょうどうくみあい)です。現在、同組合では年1回のオークションを開催し、浮世絵をはじめとする明治~昭和時代の浮世絵・版画作品が、適正な価格で安全に流通する市場を目指して活動を続けています。

日本浮世絵商協同組合とは

国際浮世絵学会とは

国際浮世絵学会とは
「国際浮世絵学会」(こくさいうきよえがっかい)は、1998年(平成10年)に設立された研究連合体です。学術的・国際的な視野に立ち、日本が世界に誇る芸術文化である「浮世絵」の研究、保存、普及、浮世絵を通じた国際交流などを行っています。国際浮世絵学会の主要な活動は、春と秋に行われる大規模な学会の開催と、年2回の学会誌「浮世絵芸術」(うきよえげいじゅつ)の発行です。他にも、全国の浮世絵展などに合わせて、年に3回程度の研究会を開催するなど、積極的に浮世絵の普及活動を展開しています。

国際浮世絵学会とは