「勝川派」(かつかわは)は、江戸時代中期より盛隆を誇った浮世絵の流派です。「宮川長春」(みやがわちょうしゅん)を祖とする「宮川派」を源流として、宮川長春の孫弟子にあたる「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)が創始。役者絵において、役者の個性をリアルに表現する似顔絵という新画風を完成させて江戸市民の人気をさらいました。勝川春章は多くの弟子を擁していましたが、その中にはのちの「葛飾北斎」(かつしかほくさい)もおり、勝川派の画風は「北斎派」へと受け継がれています。宮川派から勝川派へと画姓を変える原因となった「宮川長春事件」についてふれるとともに、そのあと活躍した勝川派の代表的な浮世絵師をご紹介します。
1750年(寛延3年)、浮世絵界全体を揺るがすほどの大事件が起こりました。これは、宮川派が解体され、やがて勝川派が生まれるきっかけとなった事件です。
日光東照宮
一般大衆向けの浮世絵制作よりも、幕府や寺社などから仕事を請け負う「御用絵師」としての活動を中心としていた宮川長春と宮川一門は、「日光東照宮」(栃木県日光市)の色彩修理の仕事を任されます。
依頼主は大和絵の名門「狩野派」(かのうは)に属し、幕府の表絵師(おもてえし:御家人格の身分に列せられた幕府の御用絵師)を務める稲荷橋狩野家の「狩野春賀」(かのうしゅんが)でした。
宮川長春と一門の仕事ぶりは見事で、評判も高かったと伝えられています。ところが、依頼主の狩野春賀はいつまでたっても報酬を支払おうとしません。実は狩野春賀は、宮川一門に支払うはずの報酬を着服していたのです。
宮川一門の代表者である宮川長春は狩野春賀の屋敷へ催促に出向きますが、あろうことか稲荷橋狩野家の者達は大勢で老齢の宮川長春を取り囲み、殴り付けたうえ荒縄で縛ってゴミ捨て場にうち捨てたと伝えられています。
宮川長春は一命をとりとめたものの、宮川長春の息子「宮川長助」は激怒。報復のため門弟達とともに狩野春賀邸へ夜襲をかけ、狩野春賀を殺害し、門人3名を殺傷しました。
「宮川長春事件」と呼ばれるこの事件は、当然のことながら奉行所の知るところとなり、吟味の結果、狩野春賀の稲荷橋狩野家はお家断絶、一方の宮川一門は、何の落ち度もない宮川長春が暴行を受けたためとは言え、夜襲をかけて狩野春賀らを殺傷した罪で宮川長助は死罪。夜襲に加担した門弟は島流しとなり、宮川長春は宮川派の頭領としての責任を問われ数年間の江戸所払い(追放)に処されます。
大事件が引き起こされた結果、宮川派は存続することができず一門は解体。宮川一門で唯一罪を免れた宮川春水が宮川派の流れを受け継ぎますが、宮川派を名乗れないため画姓を「勝宮川」に変更し、さらに「宮」の字を取って「勝川」としました。
宮川春水の弟子である勝川春章は、宮川派で学んだ肉筆画の技術を踏襲しつつも、江戸市民からの人気が高かった浮世絵版画の分野へ活躍の場を広げます。そして多くの弟子を得た勝川春章は、勝川派という浮世絵の一大派閥を確立することとなったのです。
勝川春章の知名度は、世界的に有名な葛飾北斎や東洲斎写楽には及ばないものの、勝川春章が確立した似顔絵の手法はそののちの浮世絵界に多大な影響をもたらしました。
また、勝川春章は多くの弟子を持ち、その中にはのちに葛飾北斎となる「勝川春朗」(かつかわしゅんろう)も含まれていたのです。そして似顔絵の流れは、葛飾北斎をはじめとする弟子達に受け継がれ、大きく花開いていきました。
勝川春章と勝川の画姓を継いだ代表的な浮世絵師についてご紹介します。
浮世絵界に少なからぬ功績を残した勝川春章ですが、その本名や出自、正確な生没年は分かっていません。勝川春章は、宮川長春の一番弟子である宮川春水に学びましたが、宮川長春事件ののち勝川を名乗ることになります。
役者絵を得意とした勝川春章は、役者の顔や容姿を画一的に表現するのではなく、役者の個性を活かしたブロマイド的な似顔絵を完成させて江戸の大衆を惹き付けました。
勝川春章「絵本舞台扇」
1770年(明和7年)に浮世絵師の「一筆斎文調」(いっぴつさいぶんちょう)と共同で描いた「絵本舞台扇」が高く評価されて第一人者の地位を獲得します。
勝川春章は多くの弟子を擁し、勝川派を繁栄させましたが、1781~1789年(天明年間)の後期には勝川派の代表の座を弟子の「勝川春好」(かつかわしゅんこう)と「勝川春英」(かつかわしゅんえい)に譲り、自身は肉筆画に専念。特に美人画で優れた作品を残しました。
勝川春好 作「5代 市川團十郎の暫」
のイメージイラスト
勝川春章の最古参の弟子であり、後継者と評価されたのが勝川春好です。師匠の勝川春章と同様の壺形(つぼがた)の落款(らっかん:作品に押す作者の印)を用いた弟子であることから「小壺」とも呼ばれました。
師匠と同じく写実的な役者絵を得意として、役者の上半身を大きく描いた「大首絵」や、顔のみを強調した「大顔絵」を手がけ、これらの作風は東洲斎写楽に影響を与えたと言われています。
しかし、勝川春好は40代半ばを過ぎた頃に中風(現代で言う脳血管障害の後遺症)を患い右手が不自由になったため麻布の「善福寺」(ぜんぷくじ:東京都港区元麻布)で隠遁生活を送ったとされる一方、左手で作品を描き続けたとの説も有力。そののち、数え70歳で没しました。
兄弟弟子の勝川春好と良きライバル関係にあったと言われる勝川春英。
勝川春好とともに、師匠である勝川春章の作風を受け継いだ写実的な役者絵を数多く手がけ、その作品の出来映えは歌川豊国や東洲斎写楽にも影響を及ぼしたと言います。
役者絵の他に、武者絵や相撲絵を得意とし、美人画では愛嬌のある独自の女性像を表現しました。
性格的にはユニークなところがあったとされ、着る物にこだわらず外出時にも普段着だった勝川春英は、知人に「次はもっと良い着物でおいでなさい」と言われると、後日会ったときにはきらびやかな女性の能装束を身に付けていたとのこと。
本人はいたってまじめで、おかしいとは思っていない様子だったと伝えられています。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 勝川春章「絵本舞台扇」