庶民の娯楽として大人気だった「歌舞伎」と共に、繫栄したのが「役者絵」です。特に、特定の役者を応援するファンに好まれたのが、役者の顔に似せて描かれた「似絵」(にせえ)でした。同じ役者を描いても決して同じとはならず、絵師によって異なるのが、おもしろいところ。今回は、名優「5代目市川團十郎」(ごだいめいちかわだんじゅうろう)の似絵を見比べながら、役者絵を得意とした浮世絵師について詳しくご紹介します。
「役者絵」とは、歌舞伎役者を描いた浮世絵のことです。浮世絵が誕生したのは1670年(寛文10年)頃ですが、当初から歌舞伎の役者絵と遊郭の女性を描いた「美人画」が、2大人気となっていました。歌舞伎役者は、現代の芸能人と同じくらい人気があり、「写真」がまだなかった時代、役者絵は歌舞伎役者を応援するファンにとって、ぜひ持っていたいアイテムとなっていたのです。
しかし、初期の役者絵は、特定の役者に似せた物は見られません。美男、美女ではあるけれど、ほぼ同じ顔。それは、芝居に関する絵を独占していた「鳥居派」がその作風だったから。ファンは人物の着物の柄(家紋など)を見極める方法で、役者を特定していたのです。
しかし、1764年(明和元年)以降、「勝川派」の始祖「勝川春章」(かつかわしゅんしょう)が、特定の役者を描く似顔絵の手法「似絵」(にせえ)を創始。役者の個性を描くことで、贔屓の役者がいる多くのファンに支持されました。
そして、もっと顔の子細が見たいという欲求から、勝川春章の弟子「勝川春好」(かつかわしゅんこう)が、大きな顔を描いた「大首絵」(おおくびえ)へと発展させたのです。大首絵は、大ヒットし、寛政年間(1789~1800年)に全盛期を迎えました。
浮世絵でたくさん描かれてきた、役者絵。現在、一番有名なのは、「東洲斎写楽」(とうしゅうさいしゃらく)でしょうが、江戸時代に実際に売れていたのは、「初代歌川豊国」や「歌川国政」など、歌川派の絵師でした。
それは、一体なぜなのでしょうか。多くの浮世絵師が描いた人気の歌舞伎役者、「5代目市川團十郎」の役者絵を見比べてみましょう。
5代目市川團十郎とは、江戸時代中期に活躍した歌舞伎役者のことです。屋号は成田屋。5代目市川團十郎は、1741年(寛保元年)に「2代目松本幸四郎」の子として生まれ、「市川幸蔵」の名前で初舞台。
1754年(宝暦4年)に「3代目松本幸四郎」を襲名し、1770年(明和7年)に5代目市川團十郎を襲名しました。1791年(寛政3年)に「市川蝦蔵」に改名。
「海老蔵」ではなく「蝦蔵」としたのは、自分は先祖には及ばない雑魚(ざこ)だからという謙虚な気持ちが込められていたとのこと。1796年(寛政8年)に引退しました。ところが、1799年(寛政11年)、息子の「6代目市川團十郎」が22歳の若さで急死。
再び「市川白猿」の名前で舞台に立ち、孫を「7代目市川團十郎」に育てあげるのです。性格は大らか。長身で体格が良く、面長で二重瞼、鼻筋が通った高い鼻が特徴。歌舞伎役者会髄一の名優と言われ、66歳で永眠しました。
勝川春好
勝川春好は、江戸時代中期に活躍した勝川派の浮世絵師です。本名は清川伝次郎。
勝川春章の門人で、師と同様に役者の似絵を得意とし大首絵を創始した人物です。目鼻立ちを強調した描写で、ファンの心をとらえました。
なお、勝川春好は、「葛飾北斎」(当時は勝川春朗)の兄弟子で、葛飾北斎の絵をずいぶん下手呼ばわりしていたとのこと。
「勝川春好が自分を辱めたことがそのあとの自分の絵の技量の向上の動機になった」と葛飾北斎が語った逸話もあるのです。
大首絵とは、顔を強調して描いた一枚絵のこと。大顔絵とも言います。師の勝川春章が創始した似絵から、勝川春好が発展させました。勝川春好が描く似絵は、役者の個性である目鼻立ちを強調しながらも、的確な描写力で誇張が少ないと賞賛されています。
特定の役者を応援するファンにとって、近付かなければ知ることができない顔の造形や精細な表情を確認することができ、大人気となったのです。
なお、「暫」(しばらく)とは、歌舞伎の演目名。罪のない男女が悪人に襲われ殺されそうになったときに、主人公「鎌倉権五郎景政」が「しばらく~」という掛け声で現れ、超人的な荒れた力で救出するという荒事の物語。超人的な強さを表すため、顔に歌舞伎特有の「隈取」(くまどり)という化粧をされるのが特徴です。
東洲斎写楽は、江戸時代後期の1794年(寛政6年)に彗星のように現れ、1795年(寛政7年)までのわずか10ヵ月のみ活躍した浮世絵師です。
版元(現在の出版社)「蔦屋重三郎」(つたやじゅうざぶろう)のお抱え絵師として、約140点に及ぶ役者絵、相撲絵を描いて評判となりましたが、すぐに引退。
正体は、役者の「斎藤十郎兵衛」、または葛飾北斎なのではないか、などいまだに「謎の絵師」と呼ばれる正体不明の人物です。
市川鰕蔵の竹村定之進
東洲斎写楽が描いた、「市川鰕蔵の竹村定之進」の市川蝦蔵とは、5代目市川團十郎のこと。また、歌舞伎の演目「恋女房染分手綱」(こいにょうぼうそめわけたづな)で市川鰕蔵が演じた役名が、竹村定之進です。
竹村定之進は、不義を犯した娘のために、切腹して罪を償うというお話。本絵で描かれている竹村定之進は、体格がふくよか。
大きな鼻、見開いた眼、口を半開きにして赤い舌を出しているのが、とてもコミカルです。一度見たら忘れられなくなる、不思議な魅力がある1枚。
しかし、演目とイメージが合わなかったのか、当時の評価は賛否両論。「東洲斎写楽が描く似絵は誇張が過ぎる、皮肉的だ」と酷評するファンも多かったようです。
歌川国政
歌川国政は、江戸時代後期に活躍した、初代歌川豊国門下の浮世絵師です。本名は佐藤甚助。号は一寿斎。
出身は会津(現在の福島県)で、はじめ染物屋をしていましたが、芝居が好きで役者似顔絵を得意としていたのを、初代歌川豊国に認められて入門。ちょうど東洲斎写楽が去ったすぐあとに登場した人物で、構図・色使い共に斬新で、近代的と高い評価を受けました。
一時は、師の初代歌川豊国の人気を凌ぐほどだったと言われますが、30歳になった頃には画界を引退。37歳の若さで早世しています。現存する作品も約120点と少ないのも特徴です。
歌川国政
「市川鰕蔵の暫(碓井荒太郎貞光)」
歌川国政が描いたのは、市川蝦蔵(5代目市川團十郎)の一世一代の舞台と言われる暫の主人公鎌倉権五郎景政の大首絵です。余白なく画面いっぱいに横顔を描いた構図が斬新。顔の輪郭をわざと描かないことで、特徴である高い鼻を浮き立たせ、引き立てています。
また、眼は瞳孔と虹彩を2色で描き分け、目尻をうっすらと青色にすることで、白目を強調。口元は歯が見えることで、くいしばっている緊張感を表現しています。
まさに、にらみを利かし見得を切る瞬間をとらえた作品。近代的なデザイン性の高さも感じる、見事な1枚です。
初代歌川豊国は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。歌川派を創始した「歌川豊春」に入門し、高弟と呼ばれた人物。本名は倉橋熊吉です。
最初は美人画を描きましたが、1794年(寛政6年)に発表した役者絵「役者舞台之姿絵」(やくしゃぶたいのすがたえ)が大当たりし、一躍人気絵師として認められました。
初代歌川豊国の描く役者絵は、勝川派に影響された似絵ながらも、醜が捨てられて美化されているのが特徴。描かれた役者もファンも喜ぶ理想的な作風でした。このため、人気は凄まじく、歌川派中最大の勢力となったのです。
直弟子に、歌川国政の他、「初代歌川国貞」(3代目歌川豊国)、「歌川国芳」などがいます。なお、東洲斎写楽が、たった10ヵ月で画界を去ったのは、初代歌川豊国率いる、歌川派の人気に勝つことができなかったからだとも言われているのです。
初代歌川豊国「俳優楽室通」
「俳優楽室通」(やくしゃがくやつう)は、1799年(寛政11年)に、初代歌川豊国と歌川国政が共作した絵本です。
当時の役者オールスター36人が描かれ、絶賛されました。注目したいのは、初代歌川豊国が描いた市川白猿です。市川白猿とは、5代目市川團十郎・市川蝦蔵のこと。
市川蝦蔵は、1796年(寛政8年)に役者を引退。しかし、この年に嫡男6代目市川團十郎が急死し、孫を育てるために市川白猿と名前を改めて役者を復活。
老体に鞭を打って、演目暫の主人公鎌倉権五郎景政に扮した姿が描かれています。
勝川春好、葛飾北斎、歌川国政にくらべると、自然体で嫌味がない品のある姿。贔屓筋を唸らせた、いつまでも見ていたい人情の厚さを感じる市川白猿です。
【国立国会図書館ウェブサイトより】
- 東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」
- 歌川豊国「俳優楽室通」
【東京国立博物館「研究情報アーカイブズ」より】
- 歌川国政「市川鰕蔵の暫(碓井荒太郎貞光)」