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戦争絵を描いた浮世絵師
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「戦争絵」とは、幕末以降の戦争を描いた浮世絵のことです。「合戦絵」は、昔のできごと(歴史画)、物語の中のできごと(想像絵)という位置付けでしたが、戦争絵は今起こっている事件を大衆に伝える報道(ジャーナリズム)として描かれました。今回は、「西南戦争」の戦争絵に注目し、戦争絵を得意とした有名な浮世絵師について詳しくご紹介します。

戦争絵の画像戦争絵の画像
「戦争絵」では、戊辰戦争・西南戦争などの戦争の様子が描かれた浮世絵の画像をご紹介します。

戦争絵とは

戦争絵」(戦争画)とは、江戸時代後期から明治時代にかけて行われた「戦争」を描いた浮世絵のことです。それは、「戊辰戦争」(1868年[慶応4年]~1869年[明治2年])、「西南戦争」(1877年[明治10年])、「日清戦争」(1894年[明治27年]~1895年[明治28年])、「日露戦争」(1904年[明治37年]~1905年[明治38年])の浮世絵。

戦争絵は平安時代鎌倉時代安土桃山時代を描いた「合戦絵」と混同されがちですが、決定的に異なるのは、「時事」(そのときに起こったできごと)をできるだけ早く伝える「ジャーナリズム」の役割を担っていたことです。

実は、江戸時代は、徳川家に起こった事件やできごとを描くことは禁止されていました。しかし、1868年(明治元年)、明治新政府が発足して1869年(明治2年)に「新聞紙印行条例」により新聞の発行が認められ、堂々と時事を扱えるようになったのです。これにより、1871年(明治4年)に「横浜毎日新聞」、翌年に「東京日日新聞」が発行。

ところが、新聞(大新聞)は漢字や内容が難しく、知識人でないと読めない物でした。そこで登場したのが、絵と簡単な文章で構成された「錦絵新聞」です。錦絵新聞は、平仮名しか読めない大衆でも理解でき、一躍人気となりました。戦争絵には、歴史的事実の記録はもちろん、人々の戦意を高揚させる効果もあったのです。

戦争絵を描いた浮世絵師

戊辰戦争が起こるまで、江戸時代は平和で、ほとんど戦がありませんでした。戦は遠い昔に起きたできごとだったはずなのに、眼の前で人が斬られ、銃弾を浴び、死亡していく姿を目の当たりに見て、絵師達は悲惨な様子を描かずにはいられなくなったのです。

禁令があった時代、「見立絵」として戊辰戦争を描いたのが、「落合芳幾」(おちあいよしいく)と「月岡芳年」(つきおかよしとし)。上野戦争での彰義隊の様子を、実際に現地で取材して血まみれの人間を描いたため、その絵は「血みどろ絵」、「残虐絵」と呼ばれました。

明治時代になると、このふたりは錦絵新聞に携わり活躍します。錦絵新聞は頼りになる「メディア」として人気となり、錦絵は「報道」(ジャーナリズム)の役割を担うのです。そして、「歌川芳虎」や「楊洲周延」など多くの絵師が参戦。

ここでは、日本初の報道錦絵となった西南戦争の戦争絵を見比べてみましょう。

西南戦争とは

西南戦争とは、1877年(明治10年)2月、「西郷隆盛」を中心とする鹿児島の士族が明治新政府軍に対して起こした戦いです。「士族」とは、明治新政府が旧武士に与えた身分呼称。

西郷隆盛は明治新政府で参議・陸軍大将になった人物ですが、「征韓論」に敗れて辞任。鹿児島に帰郷して私学校を設立し、鹿児島士族の教育を行っていました。このとき、1876年(明治9年)に明治新政府は「廃刀令」を発令。

これは、という士族の特権を奪う法令でした。これにより、各地で士族が反乱。ついに西郷隆盛は、士族の代表として、鹿児島の士族と共に挙兵するに至ったのです。しかし結果は、明治新政府が勝利。西郷隆盛は自刃しました。

月岡芳年の魅力(1839~1892年)

月岡芳年は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。「歌川国芳」に師事し、はじめは本名が吉岡米次郎であることから、「吉岡芳年」と名乗りましたが、京都の画家「月岡雪斎」(つきおかせっさい)の養子となり、月岡芳年を名乗りました。

幕末は、同じ歌川派の落合芳幾と残酷絵(血みどろ絵)を合作し、人気絵師となりましたが、神経を衰弱。明治時代には、「大蘇芳年」(たいそよしとし)と改名し、新聞挿絵を描いて再び脚光を浴びました。

鹿児島暴徒出陣図

鹿児島暴徒出陣図」は、西郷隆盛と鹿児島士族が、西南戦争を開戦するために熊本城を目指して進む途中、「三太郎峠」(さんたろうとうげ:赤松太郎峠、佐敷峠、津奈木太郎峠)を越える場面を描いた1枚です。

熊本に進むためには、薩摩街道最大の難所・三太郎峠を越えなければなりませんでした。中央にいるのが、西郷隆盛。薩摩軍が凛とした勇ましい姿で描かれているのが印象的です。この年は50年ぶりに雪が降ったとのこと。雪が降ろうが難所であろうが、薩摩軍は楽々と突破しそうに思えます。

月岡芳年は血みどろ絵で有名でしたが、ここには一切描かれていません。それというのも西南戦争の際は、絵師は現地には行かず、新聞記者による間接的な情報をもとに想像で描いたと言われています。

すでにこのとき、西郷隆盛の人気は絶大で、この絵は絵師の期待や想像で描かれていると言える物。錦絵新聞の錦絵は、決して正確な情報を伝える物ではなかったと言えるのです。

歌川芳虎の魅力(生没年不詳)

歌川芳虎

歌川芳虎

歌川芳虎は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。本名は、永島辰五郎、あるいは辰之助、辰三郎。歌川国芳に師事して、1830年(天保元年)頃から作画を開始しました。

役者絵、美人画を得意としましたが、1849年(嘉永2年)に描いた錦絵「道外武者御代の若餅」(落首[織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川]にちなんで描いた絵)が、徳川家康を諷刺したと言われ、手鎖50日の処罰を受けています。

師・歌川国芳を尊敬し、風刺精神も一致していたはずが、なぜか1858年(安政5年)に歌川国芳からの破門を希望。破門後も名前は変えず、1867年(慶応3年)パリ万博では、歌川貞秀らと合作「浮世絵画帳」を描き、トップ絵師と呼ばれました。

鹿児島の賊軍熊本城激戦図

鹿児島の賊軍熊本城激戦図」は、西南戦争の初期に起きた、熊本城(現在の熊本県熊本市)での攻防が描かれています。熊本城内にいる新政府軍4,000人に対して、画面手前にいる薩摩軍は13,000人。

熊本城を目の前に、勇ましくサーベルを振り上げ指揮を執っているのが西郷隆盛です。本絵では、薩摩軍が大砲2台を備え、激しく攻撃。薩摩軍が優勢のように思えます。

しかし、これは史実ではありません。熊本城は難攻不落で、長期の激戦の末、薩摩軍は撤退したのです。西郷隆盛の本営は川尻で、熊本城前で指揮することはありえませんでした。これも、現地で取材していない絵師が描いた期待絵だと言えるのです。

小林清親の魅力(1847~1915年)

小林清親

小林清親

小林清親」は、明治時代に活躍した浮世絵師です。本名は同じ。

父は、江戸幕府御蔵方組頭「小林茂兵衛」。父亡きあと、15歳で家督を継ぎ、旧幕府軍として伏見の戦いに参加。江戸開城に合わせて御蔵を手放し、画学に専念しました。

浮世絵を「河鍋暁斎」(かわなべきょうさい)、「柴田是真」(しばたぜしん)に師事し、洋画を「C.ワーグマン」、写真術を「下岡蓮杖」(しもおかれんじょう)に学んでいます。

従来の浮世絵に、初めて光と影を取り入れた風景版画「光線画」を発表。近代版画の創始者と呼ばれた人物です。

鹿児島水俣戦争

鹿児島水俣戦争」は、西南戦争終盤の戦い「水俣戦争」が描かれています。熊本城を陥落できなかった薩摩軍は後退し、田原坂にて、激戦「田原坂の戦い」を繰り広げますが総退却し、さらに水俣でまた激しい戦いが行われたのです。

本浮世絵の画面右にいるのが、西郷隆盛。敗戦が近そうでも、まだ白馬に乗る英雄として描かれています。また画面左の茶色の馬に乗っているのが、人斬り半次郎と呼ばれた「桐野利秋」。中央には「肥後助右衛門」、「野村十郎太」、「児玉八之進」など、薩摩軍が誇る猛者の士族が描かれています。

しかし、遠方には、勢いを増す新政府軍が影絵のように描かれ、不気味。どれだけ強いのか、どれだけ人数がいるのか分からない、鹿児島士族が抱く新政府軍への不安を表現しているかのようです。

楊洲周延の魅力(1838~1912年)

楊洲周延は、幕末から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。橋本周延とも呼ばれます。本名は橋本直義、または作太郎。

歌川国芳、「3代歌川豊国」(歌川国貞)、「豊原国周」(とよはらくにちか)に師事しましたが、父が高田藩(現在の新潟県)の下級藩士だったためか、幕末の動乱期には神木隊に属し、彰義隊として戊辰戦争の上野戦争に参加。戦いながら絵を描いた異色の人です。明治時代以降は、美人画を描き、人気を博しました。

鹿児嶋争戦一覧図絵

「鹿児嶋争戦一覧図絵」は、一見戦争絵には見えない、どこか可愛らしい作品。しかし、実は、西南戦争全体の位置関係をひと目で俯瞰的に観ることができる、鳥瞰図(ちょうかんず:鳥が空から見下ろすように描いた図)の技法で描かれた1枚なのです。

画面左には、川尻に本陣を置く白馬に乗った西郷隆盛。右上には、火を付けられた熊本城があります。また、中央の安政橋では、薩摩軍と明治政府軍が激しく衝突しているのです。

本浮世絵は、間違った情報が飛び交った状態で描かれた錦絵新聞ではなく、何日か経過し正しい情報が整ったのちに書かれた作品。どこで、どんな攻防が行われたのか、情報を正しく知ることができる、まさにまとめ絵であると言えるのです。

戦争絵を描いた浮世絵師

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合戦絵を描いた浮世絵師

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浮世絵に影響を受けた海外の芸術家

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