2022年(令和4年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、平安時代末期の1180~1185年(治承4年~元暦2年)に起こった「治承・寿永の乱」(源平合戦)と、鎌倉幕府の成立当初における権力闘争を描いた物語です。この、栄華を極めた平氏の滅亡から、本格的な武家政権が誕生する激動の時代を題材とした物語は、日本の伝統芸能のひとつである「歌舞伎」にも多く取り入れられました。鎌倉幕府を開いた「源頼朝」や、平氏討伐で活躍した「源義経」、また仇討ちで有名な「曽我兄弟」などは歌舞伎のテーマとして人気を博し、演じる歌舞伎役者の姿は江戸時代に成立した「浮世絵」の画題としても盛んに取り上げられたのです。今回は、それらの浮世絵の中から、「刀剣ワールド財団」が所蔵する名品をご紹介。歌舞伎役者が見せる活き活きとした源頼朝や源義経の姿を、浮世絵で表現した描写力は見事と言う他ありません。
歌川周重 作「雪月花乃内月」刀剣ワールド財団所蔵
本役者浮世絵は、「中村芝翫」(なかむらしかん)が演じる「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)と、「尾上菊五郎」(おのえきくごろう)が演じる「牛若丸」(うしわかまる:のちの源義経)が五条大橋(京都府京都市)で出会ったという伝説をもとに描かれました。
腕自慢の僧兵・武蔵坊弁慶は、1,000振の太刀(たち)を奪うことを悲願として999振を集めます。そして最後の1振を奪う相手として狙ったのが牛若丸でした。武蔵坊弁慶は薙刀を振り上げて牛若丸に襲い掛かりますが、牛若丸は欄干(らんかん)の上へ飛び、ひらりひらりと薙刀をかわしてしまいます。
牛若丸に返り討ちにされた武蔵坊弁慶は降参し、牛若丸こと源義経に生涯仕える家来となるのです。題名にある「雪月花」(せつげっか)とは、冬の雪、秋の月、春の花を代表とする四季折々の自然美を表す言葉で、浮世絵の画題としてもよく用いられています。
本役者浮世絵の作者である「歌川周重」(うたがわちかしげ)は、「豊原国周」(とよはらくにちか)の門人となり、明治時代に活動した浮世絵師です。
本名を「守川音次郎」と言い、「守川周重」の名でも知られています。役者絵を得意とした他、絵入新聞の挿絵や小説の挿絵、表紙絵などを手がけました。
歌川周重は本役者浮世絵以外にも源平合戦をもとにした歌舞伎の舞台を描いており、「一ノ谷の戦い」を題材として、「2代 沢村訥升」(にだい さわむらとっしょう)が源義経を、9代・市川團十郎(きゅうだい いちかわだんじゅうろう)が「熊谷直実」(くまがいなおざね)を演じた「一の谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)などが有名です。
歌川国政(四代) 作「源頼朝 市川團十郎他」刀剣ワールド財団所蔵
本役者浮世絵では、鎌倉幕府の初代将軍となった源頼朝や、その異母弟の源義経、さらには「鎌倉殿の13人」のひとりであり初代執権となる「北条時政」(ほうじょうときまさ)という、鎌倉幕府設立の立役者達が歌舞伎の舞台に顔を揃えています。
本役者浮世絵の右手側奥の源頼朝を演じるのは画題にもなっている「市川團十郎」。市川團十郎は、歌舞伎役者の名跡(みょうせき:代々継承される名前)の中でも代表的な名のひとつです。源頼朝の手前が「中村芝翫」演じる北条時政。
このふたりに向き合う中央の若者が源義経で、「中村福助」(なかむらふくすけ)が演じています。その後ろに控えているのは、奥州藤原氏の当主「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)の命により源義経に随行している「佐藤継信」(さとうつぐのぶ)・「佐藤忠信」(さとうただのぶ)兄弟。
左手側端には源義経の家来「常陸坊海尊」(ひたちぼうかいそん)の姿も見えます。平安時代から鎌倉時代へと歴史を動かした武将達が一堂に会する、役者浮世絵らしい豪華な作品です。
歌川国貞(三代) 作「歌舞伎座新狂言 十二時会稽曽我」刀剣ワールド財団所蔵
1193年(建久4年)5月、源頼朝は富士山の裾野で大規模な巻狩(まきがり:軍事訓練をかねた狩りの一種)を開催しました。本役者浮世絵は、その際に起こった曽我兄弟の仇討ちを題材とする作品群「曽我物」の歌舞伎演目のひとつ「十二時会稽曽我」(じゅうにときかいけいそが)を描いています。
本役者浮世絵の左手側から、「初代 市川左團次」(しょだい いちかわさだんじ)が演じる曽我兄弟の弟「曽我五郎」(そがごろう)と、「5代 尾上菊五郎」が演じる兄の「曽我十郎」(そがじゅうろう)。その隣で弓を手にしている武将が曽我兄弟の父の仇「工藤祐経」(くどうすけつね)で9代・市川團十郎が演じています。
右手側の「亀菊」(かめぎく)を演じるのは「5代 尾上栄三郎」(ごだい おのええいざぶろう)です。「曽我物」は、とりわけ江戸時代に人気を博し、江戸(現在の東京都)では歌舞伎の各座が正月狂言として必ず新作を上演することが通例となっていました。
作者の「3代 歌川国貞」(さんだい うたがわくにさだ)は、「3代 歌川豊国」及び「4代 歌川豊国」に学び、江戸時代末期から明治時代にかけて活動した浮世絵師です。
役者絵を多く手がけ、特に初代・市川左團次の似顔絵を得意としていましたが、文明開化により町並みが近代化すると、蒸気機関車などをモチーフとした開化絵に積極的に取り組みました。
豊原国周 作「歌舞伎座新狂言 一谷嫩軍記須磨浦の段」刀剣ワールド財団所蔵
本役者浮世絵は、歌舞伎の演目のひとつ「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)の中の「須磨浦の段」(すまうらのだん)を題材としています。
物語のもとになった一ノ谷の戦いは、源氏が都に近い平氏の拠点を撃破した源平合戦の重要な戦いで、1184年(寿永3年/治承8年)2月7日に行われました。本役者浮世絵の手前で黒い馬に乗っているのは、市川團十郎が演じる源氏方の武将・熊谷直実です。
熊谷直実は、沖の舟へ逃れようとしていた平氏方の武将に「敵に背を向けるのは卑怯であろう」と呼びかけます。これに振り返った白い馬の武将は尾上菊五郎が演じる「平敦盛」(たいらのあつもり)。まだ16歳の若武者です。
卑怯と言われて捨て置けず、陸へと引き返す平敦盛と、勇将と名高い熊谷直実の一騎打ちを予感させる、緊張感あふれる場面を大胆に表現しています。
浮世絵師です。大首絵の役者似顔絵を数多く描い幕末から明治時代にかけて活躍した豊原国周は、本役者浮世絵をはじめとする役者絵を得意としたて才能を発揮したことから、「役者絵の国周」として知られ、後世には「明治の写楽」とも称されました。
性格は本人も認めるほどの型破りで、生涯に転居した回数は117回。同じく引越し好きで有名な「葛飾北斎」(かつしかほくさい)と自らを比較して、「絵では北斎に及ばないが、引越し回数では勝っている」と誇っていたと言われています。
月岡芳年 作「勧進帳 明治12年」刀剣ワールド財団所蔵
平氏討伐に大きな役割を果たした源義経でしたが、そのあと、兄・源頼朝の怒りを買ってしまったため、信頼する家臣達とともに奥州(現在の東北地方北東部)へ逃げることとなりました。その際に通った加賀国安宅の関(現在の石川県小松市)を舞台とした物語が、歌舞伎十八番のひとつ「勧進帳」(かんじんちょう)です。
五条大橋での出会いから源義経の家来となった武蔵坊弁慶が山伏(やまぶし:仏教の修行者)に変装し、源義経はその荷物持ちである強力(ごうりき)になりすまして関を通ろうとしますが、関守の「富樫左衛門」(とがしのさえもん)に疑いの目を向けられます。
そのとき、武蔵坊弁慶の機転で窮地を脱するのが「勧進帳」前半部の見どころです。のちに、富樫左衛門は源義経一行の宿を訪れ、関所での非礼を詫びて酒を勧めます。
この状況を、武蔵坊弁慶を演じた9代・市川團十郎が「関守に 酒ふるまわむ やまさくら」という俳句に詠みました。山伏姿の武蔵坊弁慶が迫力ある姿で描かれた本役者浮世絵の右上にはその俳句も記されています。
俳句には、市川團十郎の俳号である「團洲」の署名があることから、本役者浮世絵は市川團十郎自身が作者の「月岡芳年」(つきおかよしとし)に制作を依頼した作品ではないかと推測されているのです。
本役者浮世絵にて、9代・市川團十郎の水際立った武蔵坊弁慶の姿を洗練された筆致で描き出した月岡芳年は、幕末から明治時代中期にかけて活躍しています。ショッキングな無残絵を描いたことから「血まみれ芳年」と呼ばれることもありますが、それは数多い作品の中でもほんの一部に過ぎません。
月岡芳年は役者絵をはじめ、武者絵や合戦絵、美人画、風俗画(庶民の日常生活を題材とした作品)など幅広い分野の浮世絵を手がけ、すべての分野で型にはまらない発想力と、卓越した技術力を示し、江戸市民の人気を獲得しました。現代でも非常に人気の高い浮世絵師のひとりです。