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つきおかよしとし さく「つきひゃくし とびがすやまのあかつき とだはんべいしげゆき」 月岡芳年 作「月百姿 鳶巣山暁月 戸田半平重之」 /ホームメイト

本武将浮世絵の舞台となっているのは、1575年(天正3年)、織田・徳川連合軍と武田軍が対立した「長篠の戦い」です。
長槍を持って遠くに視線を向けている武将は、織田・徳川連合軍に付き従った「酒井忠次」(さかいただつぐ)隊に所属していたと伝わる「戸田半平」(とだはんべい)。戸田半平は、その本名を「戸田光正」(とだみつまさ)と言い、のちに「徳川家康」と「徳川秀忠」の2代に亘って仕えた徳川家の家臣です。
江戸時代中期頃に著された戦国武将の逸話集「常山紀談」(じょうやまきだん)によれば、長篠の戦いの際、酒井忠次隊は武田軍が布陣していた「鳶ヶ巣山砦」(とびがすやまとりで)を急襲。
このとき戸田半平は、夜間で見えにくいのにもかかわらず、武功を挙げた際に自身の目印となる「指物」(さしもの)を背中に差して出陣しており、その指物は、本武将浮世絵に描かれているような銀色のしゃれこうべであったと言われています。
この奇襲において戸田半平は、「一番槍」(戦場で先陣を切ったり、最初に手柄を立てたりすること)の働きをしたとして評価されていますが、実際に戦場へ真っ先に進んでいたのは、同じく酒井忠次隊の兵士であった「天野惣次郎」(あまのそうじろう)でした。しかし、天野惣次郎は指物を身に付けていなかったため、夜の暗闇の中ではその姿を認識されず、一番槍の称号を戸田半平に譲り渡すことになってしまったのです。
本武将浮世絵を手掛けた「月岡芳年」(つきおかよしとし)は、1850年(嘉永3年)に「歌川国芳」(うたがわくによし)の門下に入り、幕末から明治時代初期に、「無惨絵」(むざんえ)の名手として名を馳せた浮世絵師。本武将浮世絵が含まれているのは、月岡芳年の晩年における代表作のひとつであり、100点にも及ぶ作品で構成された「月百姿」(つきひゃくし)シリーズ。
本武将浮世絵の画題として採り上げられた鳶ヶ巣山砦の奇襲には、戸田半平以外にも複数の人物がかかわっていますが、戸田半平のみを描いて余白を残すことで、無惨絵とは異なる静穏な雰囲気を感じ取れる作品になっています。
