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いのうえたんけい さく「きょうどうりっしのもとい あおとふじつな」 井上探景 作「教導立志基 青砥藤綱」 /ホームメイト

本武将浮世絵の題材となっているのは、鎌倉時代後期の武士「青砥藤綱」(あおとふじつな、画面右上)がある夜に、誤って滑川(なめりがわ:神奈川県鎌倉市)に落とした銅銭10文を従者に探させたという、「太平記」(たいへいき)に記述のある逸話です。
橋の上から青砥藤綱が松明で川を照らし出していますが、この松明の値段は銅銭50文。それを聞いたある人から、「10文を探すために50文を使ってしまったら収支が釣り合わない」と嘲(あざけ)られます。しかし、青砥藤綱は意に介さず、「10文は少額だが、沈んだままでは天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、それは他人に利益を与えるであろう。合わせて60文の利益は大きいと言えるのではないか」と答えたのです。
青砥藤綱は、鎌倉幕府5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)に仕え、同幕府の訴訟審理を担当する「引付衆」(ひきつけしゅう)に任ぜられた人物。訴訟の際は権力に屈することなく公正な裁判を行っており、剛直な性格で広く知られていました。また、数十の所領を有して富に恵まれていましたが極めて質素に暮らし、得た俸給をすべて困窮している人々に施していたと伝えられています。本武将浮世絵に描かれる銅銭10文の逸話は、一見すると滑稽に思えますが、自身のことよりも民衆の幸せを願う、青砥藤綱の清廉潔白な人柄が窺えるのです。
「教導立志基」(きょうどうりっしのもとい)は、明治時代に7名の浮世絵師が手掛けた歴史教訓的シリーズ。本武将浮世絵の作者である「井上探景」(いのうえたんけい:別称・井上安治[いのうえやすじ])は、「小林清親」(こばやしきよちか)の一番弟子と伝わる明治時代前期の浮世絵師、及び版画家です。26歳の若さで亡くなりましたが、師が創始した「光線画」に優品を多く遺しました。
■青砥藤綱が仕えた北条氏伝来の名刀「鬼丸国綱」
青砥藤綱の主君「北条氏」に伝来した刀剣の中でも、ときに「妖刀」として畏怖されていたのが太刀「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)です。「天下五剣」(てんがごけん)のひとつに数えられる本太刀を鍛えたのは、北条時頼が招聘した山城伝の刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)。鞘から抜け出し、火鉢に宿る子鬼を成敗したという太平記に伝わる伝説が、その号の由来となっています。
