- 武将浮世絵
- 武者絵とは
つきおかよしとし さく「だいにほんめいしょうかがみ べんけい うしわかまる」 月岡芳年 作「大日本名将鑑 弁慶 牛若丸」 /ホームメイト

本武将浮世絵(武者絵)は、弁慶こと「武蔵坊弁慶」と牛若丸こと「源義経」の出会いを描いた1枚です。
武蔵坊弁慶は、生まれつきの乱暴者で、1,000本の太刀を奪う悲願を立てていました。一方、源義経は、生まれつきの美男子で、自らの因縁(実母・常盤御前が平清盛の愛人になったことで自分が延命できたこと)を知り、僧になるのをやめて、平家を倒すために武士になる決意をした頃でした。
本武将浮世絵(武者絵)は、武蔵坊弁慶が栄えある1,000本目の太刀を得るために、京の五条大橋で、源義経に出会い頭、決闘を挑んだ場面。
源義経は威嚇のため、被っていた白い狩衣を脱ぎ投げ付けたところ、武蔵坊弁慶が不意に自慢の薙刀で振り払ってしまったという、滑稽な構図が印象的です。兵法書を熟読していた源義経は、奇襲攻撃などの戦略を得意とし、圧倒的な強さで武蔵坊弁慶に勝利。これ以降、武蔵坊弁慶は、源義経の家来になったと言われています。
このあと、史実では兄「源頼朝」と共に平家を滅亡させたものの、兄・源頼朝から朝敵と見なされ、最期は「藤原泰衡」に追い詰められて、平泉の持仏堂で切腹します。しかし、本武将浮世絵(武者絵)の左上にある解説文には、「密かに高館を出て蝦夷に渡り、其の国の王と為ると云う」と書かれています。
ドイツ人医師「シーボルト」は、1832年(天保3年)~1851年(嘉永4年)にかけて刊行した著書「Nippon」で、「源義経は大陸に渡って、成吉思汗(チンギスハン)になった」と記載しています。本武将浮世絵(武者絵)が書かれた1877年(明治10年)当時にも、いまだに解明されていない、源義経伝説が囁かれていたことが分かるのです。
