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つきおかよしとし さく「つきひゃくし まえだげんい」 月岡芳年 作「月百姿 前田玄以」 /ホームメイト

本武将浮世絵において、縁側で寝そべっている姿が描かれているのは、美濃国(現在の岐阜県南部)の僧侶であり、安土桃山時代の武将でもあった「前田玄以」(まえだげんい)。
「織田信長」に招かれて還俗(げんぞく:出家した僧侶が再び俗人に戻ること)し、その嫡男である「織田信忠」(おだのぶただ)付きの家臣となります。
1582年(天正10年)の「本能寺の変」で織田信長が没すると、織田家における家臣団のひとりであった「羽柴秀吉」(のちの「豊臣秀吉」)が頭角を現し、実質的に織田家の実権を掌握するまでになっていきました。
その一方で前田玄以は、1583年(天正11年)より、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)に仕え、京都の市政や警備を行なう「京都所司代」(きょうとしょしだい)の役職に就いています。
そして、1584年(天正12年)には羽柴秀吉の臣下となり、京都所司代を継続して朝廷との交渉役を担っただけでなく、その翌年には羽柴秀吉から5万石を安堵され、丹波国(現在の京都府中央部、及び兵庫県東部)の「亀山城」(現在の京都府亀岡市)城主となりました。
さらに前田玄以は、豊臣政権下での貢献ぶりが認められ、1598年(慶長3年)には豊臣秀吉の命により、「石田三成」や「浅野長政」らと共に、「五奉行」のひとりに数えられるまでになったのです。
本武将浮世絵の詞書(ことばがき:絵巻物などに添えられる説明文)に記されているのは、前田玄以が詠んだ和歌。これを現代語訳すると「いつもは曇り空は好きではないのだが、今夜の曇り空は、月の光の有難さを教えてくれる」という歌意になります。
本武将浮世絵は、「無惨絵」で人気を博し、「最後の浮世絵師」と称される「月岡芳年」(つきおかよしとし)による「月百姿」(つきひゃくし)シリーズに含まれる作品。
同シリーズでは、歴史上の人物や架空の物語などの幅広い題材に月を絡めて描くことをテーマとしていますが、本武将浮世絵のようにあえて月を描かずに、鑑賞者が自由にイメージできるようにすることで、画面の中にはない広がりや奥行きを感じさせる効果をもたらしています。
